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〈挿話〉 源氏物語読書会 ~NHK大河ドラマ「光る君へ」記念~

神々がまだ大きな力を有していた時代。

帝国による東征の途上、一人の姫が皇子の身代わりとなり、東海に沈んだ。

皇子が東夷誅伐を果たし、次なる国へ向かう為、国境の碓日嶺うすいのみねを越えた時、ふと後ろを振り返ると、眼下には、もう二度と見ることのない東国の広大な山野が続いていた。

その果てには東の大海が広がっている。

皇子の心に、何とも知れぬかなしみが湧き上がってきた。すると、言葉が口からついて出た。

我姫あづまはや」


かれ、坂東諸国を我姫国あづまのくにという。


(『日本書紀』日本武尊やまとたけるのみことのくだりより

「我姫国」の表記は『常陸国風土記』による。)


 

 バンドォーの北方や西方に連なる険しい山々。独特の形をした複数の火山は、下界を緑に染め変える初夏が到来してもなお、輝く白い雪を戴いている。それらの幾多の山嶺の水を集め、ケノとかケヌ(毛野)と呼ばれる広大な平野を流れ下り、東海に注ぐのがバンドォータローである。この川はバンドォー第一の大河であり、またこの島国第一の大河である。

 トーグァン国はこの大河の流域にある。北部に吾妻川流れる吾妻郡があり、国境には吾妻山がそびえる。


 時代が下り、戦乱と混沌の世へと変じた時、この内陸国で、あらゆる方法を駆使し、血塗られた道を辿り、子ども時代には周りの誰も想像し得なかった地位を手に入れたのが兵衛である。

 一方、神代に天竺より大鉾を携えて、国境のアラフネ山に飛来し、麓に鎮座した女神の子孫、と伝わる家が消え去ろうとしていた。往古はトーグァン国の一之宮のみならず、各地の聖域の神官をも一切合切独占していたというが、とうに衰微して、近年は辛うじて名ばかりの存在となっていたところ、戦乱の中、とうとう親族も命を落とし、藤原瑠璃、一人遺された。

 彼女は蛮威の荒れ狂うトーグァン国から落ちのびて、諸国を流浪する連歌師として生きようとする。しかし結局、兵衛と結ばれる。

 それまでに起こる山あり谷ありの話はまた今度。



〈挿話〉

源氏物語読書会

~NHK大河ドラマ「光る君へ」記念~


 瑠璃は名族の唯一人のすえ、と称されているが、その称賛ぶりに首を傾げる者も多い。近年の様子を知っていれば、実のところは衰微極まり、ついには滅んだ小家の娘に過ぎない、と見るのが当然であった。

 ところが、戦乱の後、兵衛がどこからか忽然と引き戻し、なかなか広大な一之宮領の所有を回復し、兵衛と結婚すると、見方は全く反転した。

 確かに、身分など無きがごとき一介の男が、由緒ある一之宮領の権利に当然のような顔で手を突っ込み、強引に統括することができたのはむろん、青葉家の者として初めて官職を得るという、関係の者にとっては驚天動地の成果を得られたのも、ひとえに都に生まれ、都に親族・知人の暮らす瑠璃がいたからにほかならない、と思われたからである。

 また、瑠璃が継承した一之宮家の伝世品には、多くないとはいえ、バンドォーでは貴重な文物が含まれていた――伝牧谿の絵画や、宋代に印刷された詩文集、「埋れ木」「月待つ女」「梅壷の大将」「松が枝」といった古物語の断簡、古今伝授の大家遺愛の品だという硯や文机など。

 その上、書院、書籍の詰まった文庫、観海庵なる茶室、庭・花苑などが移築、修復されるに及んでは、あづまの道の果てよりもなお奥つ方の、野卑なトーグァン国における文化の孤島のように、注目を浴びた。都の文化に親しむ者は、うら若い瑠璃の教養に一目置いたので、その点でも、兵衛にとっては近隣の権勢者、および都人への接近に役立った。

 瑠璃の仏教に対する理解・関心も、一之宮家代々の菩提寺である著名な海圓寺をはじめ、寺社に兵衛が支配力を及ぼすことに役立った。兵衛の保護を受けることを欲して、大きくないとはいえ、瑠璃寺や浄瑠璃寺や瑠璃光寺、薬師堂、法華堂などが各地に建立された。のみならず、他領の歴史ある大寺院からも瑠璃の書写した経典が請われた。


 月日を経てなお瑠璃の立場が確かなものであることが明瞭になると、以前からわずかながら存在していた見方――ただ一人の子孫である瑠璃を「一之宮の神の末裔すえ」「抜き鉾の姫神の現身うつしみ」とする、信仰のようなものが急に盛り上がり、それは一之宮領を越え、青葉家の支配地全体へと広がっていった。

 新しい傾向も生じていた。領民には、長年の戦乱で荒れ果てた世界を回復してくれる象徴のようにも映ったのである。背景として、敗残の身で落ちのびて、山中で兵衛と遭遇した際、民を身を挺して守ったそうだ、自分の命と引き換えに助けたそうだ、という噂の流布があった。これも最近になって妙に広まっていた。

 噂の土台として「往古の一之宮家は仁愛深く、領内に善政を敷いていた」という歴史が伝えられていたのは確かである。しかし、神社の古記録の一書である年代記に書かれているとはいえ、善政の事実は不明である。たぶん、嘘であろう。

 実のところは、出奔したはずの兵衛が西より帰国後は、戦乱さらに激しく、それまでの鷹揚だった青葉家の支配も一転して厳しくなった。何より人々は、実際に身をもって見聞きした悲惨な戦乱の様子や、戦場の鬼神のようだと喩えられたり、数々の恐ろしい出来事を裏で謀ったとされる兵衛が恐ろしかった。

 そこへ瑠璃が登場し、一之宮家善政伝説(要するにデマである)が急に蘇った。それとともに、瑠璃を救世の存在のように崇める見方(要するにデマである)に縋ったに過ぎない。人々は瑠璃がいにしえに由来する神力でもって、新興の領主である兵衛に良き方向をもたらすことを期待していた。


 


1.大奥爆誕


数年後。

「優れている、気に入った、というだけで、血のつながらない子どもを養子に取ったら、どんなに恐ろしいことが起こるかもわからないわ。ねえ、お虎」

「はい、お義母かあ様。源氏物語でも、大変なことが起こりますよね」

 えっ!? 例が源氏物語?! 仰天する兵衛を意に介さず、義母・義妹は切り込みを続行した。

「父帝の愛妃を奪って、息子まで生まれてしまうなんて」

「しかも、その子どもが天皇に即位するとは、なんて恐ろしいことでしょう」

「夕霧の例もあるわ」

「本当ですね。父親の愛妻である紫の上に、彼女が死ぬまで焦がれていて、何かにつけ、じーっと注視しているんですものね」

「‥‥」

 さらに矢が射掛けられた。

「紫の上は源氏の最愛の妻だったけれど、子どもはおらず、結局、身分の低い田舎の女(明石の君)が産んだ子どもを育てたわね」

「はい。身分の高い花散里も、源氏の跡取りの夕霧を育てていますわね。落葉の宮だって、家司の娘(藤典侍)が産んだ子どもを養育していますわ」

「瑠璃様は家のことを取り仕切らないでお暮らしのようだけれど、退屈でなくて? 夫の子どもを跡取りとして教育するのは立派な仕事だし、充実した日々が送れるわよ」

 そして、とうとう止めを刺されたのだった。

「もし、あなた。兵衛が戦で死んでも、子どもがいれば、瑠璃様にもきちんと居場所を遺せるし」

「‥‥」

 お縫い殿は兵衛の死後まで描いてから、厳かな口調で申し渡した。

「ということだから、選んでちょうだい」

 降伏するしかない。

「では――」



 兵衛が所望したのは、十二人全員である。

「なぜ?」

 お縫い殿の詰問に対し、

「皆、魅力的な娘なので、よく知りたいのです」

 お縫い殿の隣でお虎殿がぽかんとしていた。「そういう趣味があったのか」という顔つきで。

 心外だが、本音を言うわけにはいかない。なぜなら、今回一人選んでも、何も起こらないわけだから、またすぐに、別の娘たち(十一人と幾多の新顔)をしつこくしつこく何時までも何時までも押し付けられるのに決まっているのだから。では、最初から十二人全員を片付けよう。



 ところが後日。

 実際に大奥(仮)に上がったのは、七人であった。

 お縫い殿は十二人に結果を伝える際、言った。

「兵衛の側室の座を獲得するのは、とても難しい。赤壁の戦いで魏が勝利するようなものである。それでも志すのなら、我が本家を挙げて応援するから戦場へおき!」

 立派な激を飛ばした。

 そして、その後に付け足したのだった。

「ただし、降りる者にも、私がと~てもっ良い結婚を、用意してあ、げ、る」

 すると、即座に

「ぜひ、そちらでお願いします! お縫い様のご紹介なら、確実ですから!」

 と五人が大奥入り――兵衛の側室に成り上がり、未来の領主の母君として、絶大な権力を振るったり、贅を尽くして人生を謳歌するコース――をあっさりと捨て去った。

 いずれも非常な美人であったので、横のお虎殿は心内で叫んだ。

(嗚呼、最高の兵士、軍馬、武器を送り込めないではないの!)


 もともと、お縫いとお虎は、お虎の子どもと兵衛の子どもとをつがわせるつもりでいた。何の資産もないが、貴種であるから瑠璃との結婚を認めたのである。ところが、瑠璃に子を産む気配がない。

 そうなると、お虎は燦然と輝く清和源氏武田氏であるし(故人の正室ではなく、老境の御屋形様の傍らで権勢を誇っている妻の末子だけれども)、お縫いも地盤の揺るぎない大家の出身であって(夫を見捨てて兵衛の側に付いた時も、実家の力を背後にさくっと決断できた)、瑠璃の血筋など何の価値もない。そこで、次代を確かなものにするため、掌中の美女を送り込むことに作戦替えしたのである。

 お虎は最初に義母から計画を持ち掛けられた時、

(あの呑気な感じのお義姉様に、城下で謀反を起こすみたいな悪いことしていいのかなあ)

 と思った。

 ところが今、お縫殿は美女隊の猛者連の戦場離脱に嬉々としている。

(はて。)

 お虎殿はようやく思い出した。

 ――そうだ、お義母様は自らの勢力拡大のための関係づくり、もとい、他人の縁組みが大大大の大好きだったっけ。




2.大奥開幕


 肝心の瑠璃には、大奥(仮)が成立したことは黙っている。代わりに訳あって急きょ、七人もの娘が見習いとして近侍することになった、とのみ伝えてある。いずれ、兵衛の跡取りを望む義母らの思惑に気づくかもしれないが、どうせ大奥は解体するのだから、却って瑠璃と協力してこの危機に臨めば、速やかに成功するだろう、と兵衛は計算していた。

「瑠璃の命令には必ず従うこと」

 七人の娘とその侍女たちを集め、厳しく言い渡した後、兵衛は隣の瑠璃に言った。

「今は人手が足りている。この娘たちも暇だろう。有意義に過ごせるよう、いずれ、何か催しでも考えてやれ」

 すると、瑠璃から答えが即座に、それも力強く返って来た。なぜか瞳までキラキラとしている。

「では、皆で源氏物語を読むのがいいだろう」

 え!? 光源氏なる男が、たくさんの女を自分の邸に収集するあの物語を!?

 それぞれ違う女との間にできた子どもたち及び孫が皆、源氏の栄達に必須の存在となるあの物語を!?

 心内で動揺する兵衛を全く意に介さず、瑠璃の声は浮き浮きと弾んでいた。

「ああ、楽しみだ。こんな時が来ようとは」

 嫌な予感がもたげてくる。

 瑠璃が源氏物語読書会に夢中になるということは、大奥(仮)を解体するのは、自分一人しかいないではないか。源氏物語がこの世に存在するせいで、こんなひどい目に遭うとは。


 娘七人が落ち着いた一月後、大奥(仮)で源氏物語の読書会が始まった。

 それから更に一月ひとつき経ち。

 兵衛は様子を尋ねてみた(この間、国司制度がまだ機能していた頃に造られるも、放棄されていた水路の修復・延長で忙しかったのである)。

「浮舟とか玉鬘が人気のようだな」

 浮舟・玉鬘の人気は、都より僻遠の東国とか九州の田舎に育って、しかも、身分が低い者と同じような生活をしていたためらしい。

 とりあえず、兵衛は安心した。

 浮舟も玉鬘も、光源氏の愛人ではないからな。しかし、二人のその後を考えると、複雑な気持ちになった(瑠璃からあらすじを聞いたのである)。

 ところが、瑠璃は明るい声で言う。

「いや、浮舟などは『夢浮橋』帖の後、バンドォーをまた訪れて暮らしたかもしれないぞ。もう狭い都や、横暴な貴族にはうんざりしているのだし。」

 何たる見解。

「トーグァン国にだって、かの麗しき小野小町が旅人となって来たとか、亡くなった場所とか言われている里がいくつかあるだろう」

 確かにある。一之宮領のある山里にはお堂まで建っている(小町終焉の地は、史実ではないに決まっているが)。

「『とはずがたり』の作者、二条だってバンドォーを訪れたんだぞ。鎌倉からこの国を通り、碓氷の坂を越えて、善光寺へ参ったようだ。

 浮舟などはきっとバンドォーの広い野、雄大な山嶺、とくに冬の白銀に輝く山々を見たら、うれしかっただろう。きっと歌を詠み、書き付けたな」

 そんな勝手な後日譚、誰が認めるだろう。特に、都で王朝文化を称美し、源氏物語の伝授などを行っている貴族階級の者は。誰もいないな、兵衛は思った。

 しかし、瑠璃は気にしていない。

「娘たちの侍女らは、玉鬘の侍女の右近や、紫の上の乳母の少納言に、関心があるみたいだ。うらやましいそうだ。

 ――そういえば、『胡蝶』帖に倣って春に舟遊びをしたい。それから、『蛍』帖に倣って、五月雨のころに蛍を集めて飛ばしたい。というような要望がいろいろと、読書会の皆から出ている。兵衛よ、協力してくれ」

 瑠璃の熱い源氏語りは続いた。

 源氏物語を読むって何なのだろう? 兵衛はわからなくなった。


 一方、若い娘たちが多く集まったために、兵衛と瑠璃の周りは一挙に賑やかになったのだった。それに伴って、家臣、特に若い独身の男たちの様子が今までとは異なってきた。これまでも、瑠璃を仰ぎ見るような、憧れるような雰囲気があったのだが、妙に生き生きとし、それでいて、恥ずかしそうな風情を伴いながら、そわそわとしているのである。

 兵衛主催の宴会が急に増えた。弓や乗馬、騎射などの武術を競う機会も。そして、そのたびに兵衛の周りには、美しい娘たちやそれぞれの侍女が犇めいていた。一見、王侯みたいに。

 七人の娘と兵衛の噂はたびたび上った。それだけでなく、その侍女らと兵衛の仲に関する噂も少なくなかった。端からは極上の美女を多数侍らせ、娯楽に蕩尽している領主にしか見えないので。

 しかし、各種催し物は、兵衛が大奥(仮)を何とか解体するためにわざわざ行ったのであった。

 結果、兵衛の血のにじむような努力が功を奏し、後日、娘たちはそれぞれ落ち着き先ができて、大奥(仮)はとうとう解体する。大変な日々であった。兵衛にとっては。


 実は――

 実は「今度こそ良い夫を探したい!」という大志を抱いて大奥入りを熱望した者は、積極的にお気に入りの男を探して再婚した。

 実は、誤解から「離縁を成功させたい!」という大志を抱いて大奥入りを熱望した(駆け込みした)者は、夫の度重なる懇請により帰宅した。

 勧められ、生まれ育った遠い領地から出てきたものの、ふるさと恋しの気持ちに悩んだ者は、好きな男ができ(兵衛主催の各種催し物のおかげで)、婿を伴い晴れて帰郷した。

 同様に、遣り手のお縫い殿に巧みに勧誘されて登殿した二名も、それぞれ恋に落ちた(兵衛主催の催し物のおかげで)。

 実は、「計画通り離縁されたけれど、もう再婚したくないから、時間を稼ぐ」という目的で率先して大奥入りを熱望した者は、本格的な奉公に目覚めて異動した。

 実は、「死んだ夫が忘れられない‥‥再婚を先延ばしにしたい」という傷心を抱いて大奥に上がった者は、同じ境遇の年上の女性と出会って意気投合、女性の家経営や育児を手伝うために領地へ移り住んだ。


 要するに、大奥入りを熱望したという「娘」たちにも、実はそれぞれの事情や出来事があったのである。

 ともあれ、大奥は兵衛の念願通り、終焉を迎えた。その過程にはいろいろなドラマがあったわけだけれども、それぞれの大奥殿上物語はまた今度。

 ただ、多情乱倫を極めたトーグァン国の大奥の美人局、ついには飽きられ、大奥おしとねすべり――一部、都にまで聞こえた噂による――、もとい、実態は読書会の参加者(に過ぎない女性たち)は、源氏物語五十四帖、および関連書物をそれぞれの場所へ携えて赴いたが、その後、各地各家に源氏物語の愛好者が爆誕したという――。




3.楽しいお茶会


 後に、都の藤堂邸にて。

 茶室へ招き入れられ、藤堂殿と二人きりになったため、兵衛が身構えていると、藤堂殿の愛娘である白鷺姫が楚々と現れ、お茶を立てた。

 もちろん誉めるしかない。次いで、床の間の立花や、陶器の飾り物に言及すると、それらも白鷺姫の用意したものだという。やはり誉めるしかない。

 そうこうしていても、肝心の藤堂殿からは一向に用件が切り出されない。間ができても、にっこりと笑みをたたえて、愛娘の白鷺姫を見ている。その楚々とした白鷺姫も、兵衛から話しかけられるのを待っているようなのだ。

 そこで、話題を探すため、掛け軸をその日初めてよく見上げた。いつもながら、何が書いてあるのか、良い品なのかも、さっぱり分からない(今飛ぶ鳥落とす勢いの藤堂邸にあるからには、元の持ち主は高貴で、高価な品であるのは確実である)。そこで、常用している言葉を口にする。

「趣のあるお軸ですね」

 楚々としていた白鷺姫の顔がパッと輝いた。

「まあ。冷泉為明様に書いていただいた、源氏物語の一節なの」

 冷泉ナンタラは、源氏物語の古い書写本を持ち伝えている、という貴族である。

「さすが、定家卿の書写本を所蔵されているという方の手蹟ですね」(瑠璃から聞かされている)

 実際は、妙ちくりんで稚拙な書きぶりにしか見えないが、称賛しておく。そろそろ、この奇妙な茶会も終わるだろう、と期待しながら。

 すると、予想外の問いかけがなされた。

「源氏物語はお好き?」

 あっ、楚々としていた白鷺姫の瞳が、これまでになくキラキラとしている。

 かの有名な源氏物語については、瑠璃から聞いている(聞かされた)。

――「葵上は源氏の君の正妻で、四歳くらい年上で‥‥」

「跡取りの男子を産んだ直後に死ぬって、用済みってことか、ひどいだろ?!」

――「朧月夜は政敵、右大臣家の娘で、宴の後、春の夜に‥‥」

「兄と弟で共有するって、気持ち悪過ぎるだろ!」

――「女三の宮は十四歳の時に、四十歳の源氏に降嫁して‥‥」

「かわいそうだろ! うちの牡丹姫(義母の実娘)はそんな目に遭わせないぞ!」

 源氏物語を愛する瑠璃から、いろいろと聞いてきたにも関わらず、兵衛の源氏物語に対する評価は最悪である。しかし、それを今、主君筋の娘に言うわけにはいかない。

「女君が多すぎて、苦手です」

 ごく控えめに言ったつもりであるが、白鷺姫は飛び上がるように大喜びした。

「まあ、源氏物語を知っているのね。父上はちっとも興味を持ってくれなくて。それに私もまだ、登場人物を全員、把握できてなくて‥‥六条御息所とか、常陸の宮の姫君とか、麗景殿女御の妹とか、身分の高すぎる人も多くて」

 ああ、六条御息所――失恋したら、伊勢まで下る羽目になり、死んだら、娘が源氏の養女格として利用される、かわいそうな人か。

 ああ、末摘花――作者の紫式部によって、宮家・王族に対する憎悪の集中砲火を浴びているような、かわいそうな人か。

 ああ、花散里――彼女の優れた性格と才能を敬愛する男と出会っていれば、もっと生き生きとした一生を送れただろう、かわいそうな人か。 

 源氏物語について瑠璃から聞いた(聞かされた)ことを振り返っていると、藤堂殿から声が掛かった。

「姫よ、もう十分だろう。母君の所へ戻っておれ」

 ほっとしたのも束の間、兵衛はこの後、白鷺姫との結婚を切り出され(愛娘を託せるのはお前しかいない云々)、またしても大奥――今度は自分より遥かに身分が高く、権勢上り調子の家に生い育った若い姫君を迎えるタイプの本格的な大奥――が誕生する窮地に陥った。


 この事態をいかに脱して、トーグァン国で再び瑠璃と暮らせるようになったかは、また別のお話。



* * *


 後に。

 トーグァン国にて。

 牡丹姫の婿(都の藤堂殿の甥、青葉家からしたら望外の上昇婚)もめでたく決まり、牡丹姫は子ども時代から人質として暮らしていたエティゴ国から越山し、戻った。

 結婚に関する最初の打ち合わせも一しきり済んだ時、牡丹姫が鈴を転がすような声で言った言葉に、兵衛は固まった。

「この機会に、私もかの有名な源氏物語について、お義姉様から詳しく学びたいと思います」

 即座に制止した。

「やめておけ。あれは非道悪徳の書だ」

「まあ‥‥」

 予想外の苛烈な批判に、純真な牡丹姫は目を見開いている。

「いいか、藤壺中宮とか、夕顔とか、女三の宮とか、浮舟とか。そのほかいろいろの女君みたいな目に遭わされたら、大変だ。極めて危険な書だ、あ、れ、は」

 とりあえず、嫁入り前の可愛い牡丹姫に言えるのは、これくらいだ。

 兵衛はこれまで源氏物語について、隣の瑠璃から聞いている(聞かされてきた)。

――「若紫は十歳のころ‥‥」

「誘拐ではないか! 親もいるのに、ひどい悪行だ」

――「落葉の宮は夫の柏木が死んで‥‥」

「家に帰ると、男が勝手に家を改築して居座っているって、恐すぎるだろ」

――「玉鬘は夕顔が死んだあと、九州で乳母に育てられて‥‥」

「養父面した家主に迫られて拒絶できるか? 悪人過ぎるぞ」

 源氏物語について、あまりに多すぎる悪徳非道の場面を復習していると、隣から瑠璃の声がした。極めて浮き浮きと弾んでいる。

「悪徳非道の書だから、楽しいのっ。

この現世うつしよで、あれ程までに、めくるめく愉悦。

享楽を与えてくれるものは、他にないっ。

わたしはあの世へ逝く時も携えてゆきたいっ。」

「まあ」

 可愛い牡丹姫は瑠璃の断言にうっとりとしている。

                       (了)


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