初めての登校
俺には漫画家以外にも、もう一つの顔がある。
そんな表現すると「実はこいつ裏社会と通じているのでは!?」みたいな感じでカッコ良い感じがするけれど、なんてことはない。別の顔というのは、ただの大学生である。
そして今日は月曜日。
長期休暇中でもなければ祝日でもない、普通の平日だ。その為大学の授業は、今日も漏れなく開講される。
漫画家である俺にとって、大学は謂わゆる保険のようなものだ。
きちんと収入もあり、何ら不自由のない生活が出来ている以上、良い成績を取って大企業に就職するなんて向上心はこれっぽっちもない。
既に支払い済みの学費が勿体ないから通っているだけであり、だから大学自体も単位取得可能な最低限の日数しか行っていなかった。
その最低限の日数というのが、今日である。
締切に追われていない今のうちに、出席日数を稼いでおかなければ。
手早く朝食を済ませ、ルームウェアから外行き用の洋服に着替える。
それから財布とスマホだけを持ち(参考書なんて持って行かない。居眠りする気満々だ)、家を出た。
ドアを開けると、「わっ!」という声が聞こえる。
俺が家を出ようとしたタイミングで、丁度京が訪ねてきたようだ。
「突然出てくるんだもの。びっくりしたぁ」
「驚かして悪いな。でも、わざとじゃない」
それに連絡なしの来訪だから、俺の方だって驚いている。
「こんな朝っぱらから、何の用だ? これから大学だから、今日は遊べないぞ?」
「言っておくけど、私も大学だから。ついでに言えば、あなたと同じ大学だから」
……そういや、大学構内でも何度か話したことがあるな。
どちらかの自宅で会う機会の方が圧倒的に多いから、同じ大学に通っていることをすっかり忘れていた。
「それで朝からあなたの家を訪ねた理由なんだけど……」
京はどこか恥ずかしそうに、俺に手を差し出す。
「一緒に、大学に行こうと思って」
二人で一緒に大学へ行く。成る程、確かにそれも恋人らしい行動だ。
しかもその登校中、俺たちは終始手を繋ぐことになる。
俺は明後日の方向を見て照れを誤魔化しながら、彼女の手を握った。
「それじゃあ、久しぶりに大学へ行こうかな」
「「一緒に」が抜けているわよ」
ここ1ヶ月は、執筆活動に専念していたからな。一緒じゃなくても、大学に行くのは久しぶりだ。
京と恋人繋ぎをしながら歩いていると、俺の心の中は二つの感情に侵食されようとしていた。
一つは、恋人と触れ合っている多幸感。もう一つは、周囲に見られているという羞恥心だ。
どちらも想像だけでは表現しきれない感情であり、今朝の経験を通して京のラブコメ作家としての表現力は更なる進化を遂げることだろう。
……だからお礼として、今夜またおっぱい揉ませてくれない?
駅に着くと、既に電車が到着していた。
俺たちは小走りで乗り込む。すると車両内で、一つだけ座席が空いていた。
周りに老人や妊婦さんはいない。ここで俺たちのどちらかが座っても、誰も文句を言わないだろう。
では、俺と京のどちらが座るのか? ……彼女を差し置いて、座るつもりは毛頭ない。ラブコメの知識がまるでなくても、それが悪手だということくらいわかる。
「京、座って良いぞ」
そう言うと、なんと京は「座らないわ」と拒んだ。
「折角席が空いているんだぞ? 俺のことなんて気にせず、座れば良いじゃないか」
「別にあなたを気遣っているわけじゃないわよ」
「だったら、どうして?」
「それは……」
俺の手を握る京の力が、強くなる。
「一人だけ座ったら、こうやって手を繋いでいられないじゃない」
「……っ」
何だよ、それ? 可愛すぎやしないか?
恋人として初めて二人で大学に向かっているというのに、それからというもの俺たちは恥ずかしくて一言も会話を交わせなかった。