初めての恋人
それは、ある意味修羅場と言って差し支えないだろう。
彼女は俺の前に一冊の漫画本を投げ付けながら、「これはどういうことなの!?」と怒り気味に尋ねてきた。
目の前に投げ付けられた漫画は、とあるバトルファンタジー。そしてその作者は……他ならぬ俺・猪狩真太郎だった。
自慢じゃないけれど俺の漫画は、累計発行部数100万部を突破している。
連載を始めて一年が経つが、その人気は衰えを知らない。未だに上昇中だ。
そんなことは、当然幼馴染である彼女・芦屋京もわかっている筈で。だから彼女の発言こそ、どういうことなのかまるでわからなかった。
「それ、今日発売の新刊だよな? もう買ってくれたのか。ありがとう」
「えぇ、買いましたとも。ついでに読みましたとも。だからこそ、言わせて貰うわ。これは一体、どういうことなのかしら?」
再び最初の質問に戻る。うん、やっぱり意味がわからない。
俺が首を傾げていると、京は単行本の中のあるページを開いて、俺に見せてきた。
そのページに描写されているのは、主人公が誤ってヒロインの胸を揉んでしまうシーン。しかも見開きで、大々的に。
……このページ、結構気合入れて描いたんだよな。時間もかなりかかったし。
ああでもないこうでもないと、何度もネームを書き直したのをしっかり覚えている。
担当編集にアドバイスされて、初めて描いたエッチなシーン。初めてにしては、なかなかの出来だと自負している。
……しかしそんな才能と努力の証とも言えるシーンの、何が不満なのだろうか? 疑問は益々深まるばかりだ。
「もしかして、バトルファンタジーなのにエロシーンを描いたことに文句を言っているのか? ……今日日、乳の一つや二つ揉ませないとファンタジーも受けないんだよ」
商業漫画である以上、読者にウケなければ描いている意味がない。
俺の漫画は少年向けなので、こういうシーンも多少必要なのだ。
だけど京は、別段エッチなシーンを描いたことに腹を立てているわけではなくて。
「違うわよ。少年誌に多少そういうシーンが必要なことくらい、わかっているわよ。私が言いたいのは――童貞のくせに胸揉んでいる描写をするんじゃないってことよ!」
「創作活動は、己の経験をもとに行なうべきだ」。京は俺にそう言っているのだ。
「お前に創作の何がわかる!」。並の相手ならそう言い返すことも出来るが、京に対しては不可能だ。
なぜなら彼女は、大人気のラノベ作家なのだから。
一昨年新人賞に輝きデビューを果たし、数ヶ月後発売した初版は速攻で重版。今では『ラブコメ界の新星』とまで言われている。
ジャンルは違えど、彼女も俺同様プロのクリエイターなのだ。
ラノベにしろ漫画にしろ、実際に経験しているかどうかでその表現が大きく変わる。俺とてクリエイターなのだから、そんなことくらい重々理解しているさ。
なので京の意見はごもっともだと感じているのだが……それでも苦労して描いた1コマをボロクソに言われては、カチンときてしまう。
……良いだろう。その喧嘩、買ってやる。
俺の専門は、バトルファンタジーだ。世の中窮地に陥った時こそ、真の力を発揮するものだと知っている。
俺は京に、反撃の一手を繰り出すのだった。
「お前こそ、恋愛経験ないくせにラブコメ小説書いてるじゃねーか」
「!」
京は昔から、物を書くのが好きだった。好きすぎた。
友達と遊ぶ暇があったら、小説の一つでも書いている。休みの日は、決まっていつも執筆活動をしている。
そんな日常を繰り返してきたから、彼女は20歳を迎えた今でも男と付き合った経験が一度もないのだ。
そのくせこの女、自身の作品の中では主人公とヒロインを恋人同士にして、それはもうイチャイチャさせまくっている。自分は男とイチャイチャしたことないというのに。
自分のことを棚に上げてとは、まさにこのことである。
「それは、その……話題をすり替えないでよ! 今はあなたの漫画の話をしているんでしょ!?」
「お前こそ、図星突かれたからって逆ギレするなよな! 胸を揉んだことのない俺がエッチなシーンを描くのと、交際経験のないお前がイチャイチャカップルを書くのの、何が違うんだよ!」
「だったら、私に彼氏が出来れば良いってことなのかしら!?」
「あぁ、そうだよ! 作れるもんなら、作ってみな!」
「言われなくても、彼氏を作ってイチャイチャしてやるわよ! だから付き合って!」
「望むところだ! ……って、あれ?」
売り言葉に買い言葉でつい頷いてしまったが、今俺とんでもないことを了承しなかったか?
聞き間違いじゃなければ、俺は京に告白されたような……。
ふと京を見ると、彼女は自分の言ったことを思い出し顔を真っ赤にしている。
決して言い争いによる興奮が原因というわけじゃないだろう。
俺はバカでも自意識過剰でもない。京が告白してきた理由はわかっているつもりだ。
「実際に付き合って、ラブコメに臨場感を持たせたいということか」
言うなれば、京の言う「交際」は「取材」と同義なのである。
「そういうこと。私の小説をより良くする為に、力を貸しなさい」
「一方的にそう言われてもなぁ。……因みにお前と付き合って、俺にメリットはあるのか?」
「メリット、か。そうねぇ……」
少し考えた後で、京は自身の胸元に手を置いた。
「おっぱいを揉ませてあげる」
なん……だと?
俺の視線の先が、無意識のうちに京の目から胸部は移動する。
女性の胸を揉んだことのない俺がエッチなシーンを描く際に、一体何を参考にしたのか?
男友達から、「強風を掴もうとした感触が、おっぱいに似てるよ」と言われて、それを参考にしてきた。走行中のバスの窓から手を出して、運転手に何度怒られたことか。
しかしこれからは怒られることもなくなる。なにせ本物のおっぱいを揉めるのだから。
「……わかった。付き合おうじゃないか。他の何の為でもない。俺たちの作品の為に」
性体験のない俺は、エッチなシーンを描く為に。恋愛経験のない京は、イチャイチャシーンを描く為に。
互いに足りないものを補うべく、こうして俺たちの歪な交際は始まったのだった。
あっ、そうだ。
これから交際していくにあたって、聞いておかなければならないことがある。
「因みに、一日何揉みまでOKなんだ?」
「え? 毎日揉むつもり?」
驚いたような声を上げる京。これが価値観の差というやつなのだろう。
しかし、毎日揉みたいと思っても仕方ない。だって俺は、絶賛思春期なのだもの。