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4 オリビア・アンダーソン

 深夜、廊下をひたひたと歩く。一階の厨房の隣にある小部屋に入り、自動ドアの機能をオンにした。部屋が明るくなり、ブウン、と電気が通った音がする。ドアが開く。ここからは自動のものがなくなる。狭い螺旋階段が下の暗闇へと続いている。壁のスイッチを入れて明るくする。銃を片手に降りる。

 物資置き場は広く、物がたくさん置いてあっても充分に動き回ることができる。人が長期間過ごすには充分な明るさではないが、無人の部屋で壁を撃つ程度なら問題ない。耳栓をし、帽子、ゴーグル、手袋を装着し、壁を狙う。

 おれは何度も壁を撃った。何度も。何度も。何度も何度も何度も。怒りがどうしようもなく湧き上がってきていた。シルヴァーノやその取り巻きのことも許せなかった。彼らはおれを望まぬ方向に連れて行く。でも、それよりもおれは無力な自分に怒りを抱いていた。おれはシルヴァーノの家と同じくらい重きを置かれている家の一員だ。シルヴァーノより三つも年下ではあるが、止めろと言えばシルヴァーノ以外は躊躇ったはずだ。それなのにシルヴァーノに遠慮して何も言えなかった。空気に流された。本当におれは無価値だ。

 壁は穴だらけになっていた。銃が熱くなりすぎて、放り出した。床に座る。今、この銃でこめかみを撃ってみようか。ふとそう思ってまた銃に手を伸ばしたら、当然ながら驚くほど熱かった。手を引っ込め、この程度で諦めるくらいの意志の弱さに笑えてくる。

「どうされましたか?」

 声がするほうを見ると、ドニが階段を降りてきていた。短い金髪は濡れ、服はラフな私服だ。どうやら母の元での「お勤め」を終え、シャワーを済ませたところらしい。

「何も」

 おれは答えた。言って、ドニに軽蔑されるのが嫌だった。

「聡一郎様。わたしはドニですよ。単なるあなたの家の使用人です。秘密も漏らしません。気分がよくなるためにも、話してはどうでしょうか」

 彼はにっこり笑った。おれはたまらなくなって、指が震えた。

「おれは新大陸では生きていけないんだ」

「それは、どうして?」

 ドニは不思議そうに首を傾げた。

「新大陸人なんて、戦争で勝った奴らが負けた奴と何もしなかった奴に階級をつけて、一番上に自分を置いて威張ってるだけの存在なんだ。それなのに、旧大陸人や昔の戦争犯罪者を殺したり犯したりする。おれはそういうの、駄目なんだ」

「駄目、とは?」

「許せないんだ。だって、俺たちが偉いって根拠が見つからないし、戦争なんて昔のことだ。差別が残ってるのはまだわかるよ。人間は差別するのが好きなんだ。でも、人を殺すなんて。今日のあの二人はもう戻れない。女は心を殺されてしまったし、男は殺すのと殺されるのと両方を受けた。体が生きていても、もう、駄目なんだよ。それに、おれは笑った。笑ったんだ」

「聡一郎様はすぐにお諦めになる」

 ドニはため息混じりに言った。おれは驚いて彼を見る。彼の目は青く、正しく、美しい。

「心が死んだと、断言できますか? 人間というのは、そんなに弱いものですか? どん底にあってもはい上がれるのが人間ではないのですか?」

 彼は胸に手を当て、続ける。

「何があったのかは存じ上げませんが、そんなに後悔することがあられるのであれば、それを払拭するようなことをなさるべきではありませんか? あなたにはそれができるでしょう」

 彼は、ね、と微笑んだ。おれは下を向いた。それからうなずいた。彼の言うことはもっともだった。


     *


 次の日、おれはダミアとサイードの家に連絡して昨日のボクサーと男を引き取った。ダミアは強い女ボクサーを飼っていたかっただけなので、あっさり引き渡してくれた。サイードもあまり彼に執着していないようだった。気を遣って二人を別々にしていたが、女はずっと下を向き、男は暗い目でおれを見ていた。おれは彼らを旧大陸に戻すつもりだった。雇用主の許可がなければ彼らは旧大陸に戻ることはできない。これが最善の策だった。

 ドニがその役を買って出てくれた。ドニは彼らそれぞれに言葉をかけ、笑顔を引き出した。おれだけと向き合っているときとは全く違う表情に驚いたが、そんなものだろう。

 二台の車にそれぞれを乗せ、ドニは出発した。母は彼を惜しそうに見ていたが、「優しいのね、アポリネールは」とつぶやき、喜んでいた。父は無関心だ。恐らくおれが突然仏心を出したようにしか見えないのだろう。

 ダミアにもサイードにも、このことは口止めした。きっと皆あの二人のことなどもう覚えてはいないだろうが。

 サイードには代わりにホームパーティーに来るように頼まれた。おれは了承し、二日後のパーティーに備えた。


     *


 パーティーに呼ばれたのは三十人ほどの十代の男女だ。アーチがたくさんある白い一階建ての家は、効率的にできていた。屋根は太陽光発電、壁には水のパイプを巡らせて部屋の涼しさを保つ。それらは全てさりげない作りになっていて、環境工学の会社を営む家主の考えを十全に表していた。小柄なサイードはターバンを緩く巻いた格好で立っていて、気弱に笑っていた。客は皆、彼自身には興味を持っていない。彼の親と、その会社、それだけだ。自立して仕事を持つことを考えている彼らは、彼の親と繋がって自分の仕事を興したり、親の会社を盛り上げたりしようという野心を持っている。サイードもそれをよくわかっていて、自分の家を社交場として開放しただけのことだった。おれが呼ばれたのもおれの親の会社のためだ。

「ソウ、珍しいね、こういうパーティーに顔出すなんて」

 知っている少女に訊かれ、おれはうなずく。

「たまにはいいかと思ってね」

「ねえ、ソウは家を継ぐの?」

「わからないな」

 少女は、そうなんだ、とつぶやき、離れていった。おれが継がなかったらもっとあからさまな態度を取るのだろうな、と思う。父の会社はおれたち皆が手首につけているリングを開発し、世界政府に採用されて今の栄華がある。このリングはこの世でつけていない者はいないくらいの存在なので、知名度は何よりも高い。華のある会社だし、繋がれば得をすることのほうが多いだろう。皆、おれが継ぐかどうかを見極めようとしている。継げば、何もかもがおれの元に集まってくる。権力も、責任も、情報も。

 サイードは一通り部屋を紹介し、最後に自分のコレクションルームを見せた。扉が開いた瞬間、サイードは誇らしげに笑い、おれたちは静まりかえった。

 刀剣のコレクションだった。刃の反った大きな剣がたくさんあり、束には宝石がちりばめられている。刃は背中が粟立つほどよく切れそうで、それらが壁にかけられ、あるいはケースに収まっておれたちを圧倒しているのだった。サイードは興奮気味に説明した。そんな中、少女たちはお互いの顔を見合わせ、「気持ち悪い」とささやく。サイードの趣味は評判が悪いようだ。

 おれが銃で壁を撃つ奴なんて、皆思いもしないんだろうな、と考える。少女はおれに、「信じられない。人殺しの道具なんて」と話しかけた。

 昼食の時間になり、おれたちは大広間に通された。そこではサイードの両親や兄弟が待っていて、床に広げられた絨毯の上に、大皿がたくさん並べられ、テーブルで食べることに慣れたおれたちは少し戸惑いながらあぐらをかいて床に座った。彼の両親はたいそうな人気で、息子は半分忘れられている。おれは隅に座ったが、周りの男女がひっきりなしに話しかけてくるので疲れてしまった。

 アーチ状の出入り口から庭に出る。ジャスミンの香りがする。よく見れば噴水のそばにジャスミンの巨木が生い茂っていて、白い小さな花が咲き誇り、地面にも水面にもその花を落とし、甘い香りをさせているのだった。サイードの家のメインツリーは別にあって、これは香りのために植えてあるようだ。おれはジャスミンの周りをぐるりと回った。くらくらするくらい強い香りだ。酔ったような気分になって大きな噴水のふちに座る。

「あら」

 地面をひたすら歩いていく大きな蟻を眺めていると、女の子の声がした。顔を上げると、少女はすたすたと歩いておれから少し離れた位置に腰掛けた。オレンジジュースをちびちびと飲む。暗い蜂蜜色の頬は見えるが、顔は見えなかった。髪は黒く、波打ち、うまくまとめてある。

「こんにちは」

 おれが声をかけると、少女はぱっとこちらを見た。目が大きく、睫毛は濃く、野性的な強さを感じさせる。唇はふっくらと厚く、言葉を常に秘めている風情。肌は冷たそうに見える。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、それ以外の血筋も感じさせる顔で、調和、という言葉が思いついた。

「君、初めて見るね。誰の娘なの?」

 おれが訊くと、彼女は顔をしかめて「知らない」と答えた。

「新大陸人は必ず誰の娘か訊くのね」

 驚いて、その顔をまじまじと見る。彼女は鼻を鳴らし、オレンジジュースをまた少し飲む。

「イベリア半島から出るべきじゃなかったわ」

 彼女の名前はオリビア・アンダーソン。母親は新大陸人だが父親は旧大陸人で、ついこの間まで旧大陸のイベリア半島に住んでいた。そういう事実はあとから知ったことで、今ここに書くべきことは一つしかない。

 おれはオリビアの横顔をこの世の何よりも美しいと思った。そういうことだ。


 イベリア半島のどこから来たの? 今はどこに住んでるの? いつからいるの? 趣味とかある? どんな音楽を聴くの? 絵を描いたり、ヴァイオリンを弾いたりする?

 質問が、次から次へと溢れてきた。自分はこんなにもおしゃべりになれるのだと驚くほどに、おれはオリビアに質問を浴びせ、自分の話をした。彼女は名前を答えたあとは、ちらりとおれを見て質問に「さあ」と答える以外には無反応で、それでもおれは言葉を封じることができなかった。

「君の瞳の色、何色って呼ぶんだろう」

 オリビアの微妙な深みのある瞳を見ながら、おれは言葉を続けた。瞳は光彩の輪がはっきり見える、黄色がかった暗い緑色だ。何としても色の名前を断定したくて、おれは必死に考えた。その間オリビアは興味のかけらも見せずにオレンジジュースを飲んでいた。

「ああ、オリーブ色だ」

 おれの言葉に、彼女は弾けるようにこちらに顔を向けた。おれはそれが嬉しくて、自分でも意外なほどにこにこ笑った。

「オリーブ色だね。だから君の名前はオリビアなんだ」

 彼女は顔をしかめた。おれはうろたえ、「ごめん、話しすぎた」と目を逸らした。オリビアは沈黙ののち、こう言った。

「名前、嫌いなの」

 言葉を発した彼女に少し驚き、それから嬉しさの余りにっこりと笑ってしまった。彼女はそれに苛立った様子で、「ちゃんと聞いてた? 嫌いなの」と続ける。おれは笑顔を引っ込め、それでも会話できている喜びで口の端が上がるのをコントロールできない。オリビアはため息をつき、それからおれを見て少し笑った。

「自分の名前と目の色が同じものだったなんて、考えたことなかったわ。それに、あなたって変な人ね」

 変な人、なんて今まで言われたことがない。オリビアが目の前に現れたからこんなにも挙動不審になってしまうのだと伝えたいが、さっきまでの口数の多さがどこかに行ってしまったようで、おれは黙ったまま笑っていた。

 オリビアは鼻を動かし、ジャスミンの大人びた強烈な甘い香りを嗅いだ。

「頭が痛くなりそう。そろそろ戻るわ」

「待って」

 おれは立ち上がったオリビアを呼び止めた。彼女は上まぶたが真っ直ぐで、黒々とした睫毛は力強くカールしていて、そんな目の中からオリーブ色の瞳がこちらを向いているのを見ると、何も言えなくなりそうだった。一瞬黙ったおれを見て、彼女は行ってしまいそうな仕草をした。

「……連絡先、教えてもらえないかな」

 やっと言えた、と思ったら、彼女は少し考えて「嫌よ」と答えた。

「どうして?」

「あなた、わたしに興味があるのね。でもわたしはあなたに興味がないの。年下の男の子は好きじゃないから」

「年齢、知らないだろ。おれ十五歳だけど」

 それに、おれは彼女より背が高い。幼い男の子のような扱いに落胆しながら言うと、彼女は驚いた顔をし、それから少し笑った。

「もう少し下だと思ったわ。でもわたしは十七歳なの。やっぱり年下だわ」

「どうすれば教えてくれる?」

 必死の思いで立ち上がる。どうしても連絡先を知り、もう一度会いたかった。人づてではなく、オリビア本人から教えてほしかった。オリビアは少し考え、

「キリスト教の天使の名前を三つ言って」

 と言った。唐突な要求に驚きながらも、おれは答える。

「ミカエル、ラファエル、ガブリエル、あとは……」

「三つでいいわ。じゃあ、一番興味深い天使は?」

「ガブリエル、かな。最後の審判でラッパを吹くんだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵にも描かれてるし、有名な天使だよね」

 オリビアはじっとおれを見つめた。おれは何が何だかわからないまま、彼女の瞳を見続けた。唐突に、彼女は言った。

「いいわ。教えてあげる」

「本当に?」

 おれは意外な展開に驚き、両手の拳を振って喜んだ。彼女はそれを見て笑い、近寄っておれの手首のリングに自分のそれをかちりとぶつけた。短い電子音が鳴る。それぞれのリングに互いのIDが送られたということだ。

「あなた日本人よね。どうしてキリスト教の天使に詳しいの?」

 舞い上がりながら彼女のIDを確認しているおれに、彼女は質問した。おれは一瞬黙り、ゆっくりと考えを巡らせながら答えた。

「世界が滅亡したらどうなるんだろうって思ったことはない? タイムマシンはまだ発明されていいから、絶対的な答えなんてないよね。この楽園が滅びるとき、どうなるんだろうって考えて、未来について書かれた論文や研究書を読みあさったんだ。それでも確実な情報はなくて、あるとき未来について書いた小説を読んだ。それがとても真実味があって……。おれが求めてるのはそのときの人の心理や葛藤、心象風景なんだ。それで、神話や宗教説話や聖書に行き着いた。キリスト教だけじゃない。仏教やイスラム教やおれのルーツにある神道や、ゲルマン神話やアボリジニの神話まで、色々調べた。ガブリエルは世界が終焉を迎えるときに印象的な役割をする天使だから、記憶に残ってたんだよ」

 オリビアは驚いた顔でおれを見ていた。おれはまた話しすぎたかと反省し、「ごめん」と謝った。

「いいえ。面白かったわ。あなたのくだらない質問よりもずっと」

 彼女は微笑んだ。花がほころぶような笑顔だった。ずっと忘れられないような。

「くだらない、か。おれは君のことを知りたいだけだったんだけど」

「どうして世界の終焉に興味があるの? あなたたち新大陸人はこんなにも楽しそうに暮らしてるのに」

 おれは言葉に詰まった。少し考え、

「新大陸人は、きっと自分が思っているよりも不幸なんだ」

 と答えた。オリビアは不思議そうに「そう?」と首を傾げた。

 おれはその愛らしい仕草だけでも、救われた気がした。

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