八 幼馴染が探しても見つからないので僕は、
「があー、やっと終わったぜぇ。なんかもう疲れた。なんも考えたくねぇ」
「お疲れ。二日連続で睡眠時間が三時間切ってるから、僕も眠くてしょうがないよ」
「よくそれで動けてんな。ちゃんとそれで朝起きれんのがすげぇわ」
「それ、わかって言ってるよね? 僕が昨日、普通に寝坊で一発目のテスト遅刻したの、わかって言ってるよね絶対?」
溶けたように過剰に椅子に浅く座る井浦は、半分ほどしか目を開けていなくて、僕と同じ様に今にも寝落ちしそうな雰囲気だった。
二日続いた中間考査もなんとか無事終わり、やっと家に帰ってから勉強をしなくてもいい放課後がやってくる。
もっとも、たぶん本当は試験のあるなしに関わらず、学生の本分として勉強は毎日やった方がいいんだろうけれど。
「それじゃあ、今日はなんか、ファミレスかなんかで、打ち上げみたいなことする?」
「おー、打ち上げか。いいな、それ。でも悪い。俺、今日、部活でプール掃除だわ」
「あー、そっか。もうそんな季節か」
試験終わりのふわふわとした気分のまま、せっかくだし井浦を誘ってぱあっとやろうと思ったけれど、普通に断られてしまった。
もう季節は薄ら初夏の兆しを見せていて、梅雨はいつ明けてもおかしくない頃。
水泳部に所属している井浦も、そろそろ本格的に部活に勤しみ出してしまう。
そう考えると、そろそろ本気で友達づくりを再開させた方がいいかもしれない。
さゆりと井浦以外にまともに喋れる相手がいないというのは、結構危うい気がする。
もっとも、さゆりに関しては、彼女のイメージ問題に関わるので、校内ではうかつに話しかけられないけれど。
「じゃあ、今日は僕、お先です」
「おう、おつかれ。またな」
「うん。井浦も部活がんばって」
「さんきゅな」
井浦との挨拶もそこそこに、僕は一人帰路につく。
窓を覗いてみると、本降りというわけではないが、梅雨の最後の悪あがきみたいな霧雨が降り始めるところだった。
試験が終わった日の放課後ということで、気持ち普段より午後の学校にしては活気があるような感じがする。
さゆりは今日も、部活かな。
今はどこにいるのだろう。
学校にいる間、僕は自然と幼馴染の姿を探してしまう。
それはもしも見つけたら、さゆりの視界から外れるようにできるからだ。
さゆりは優しいから、幼馴染である僕を目にすれば、迷わず僕に話しかけてくれるだろう。
だけどそんなことをしたら、今や学校の皆の憧れであるさゆりの印象が悪くなる。
ダサい奴と絡む奴もダサい。
学生というものは残酷で、正直者ばかりだ。
目に見えるものしか、信じようとはしない。
僕はわりと他人が僕以外にどう思われようと気にしないタイプだけれど、さゆりだけは別だ。
さゆりの評判だけは、下げたくない。
僕は昔のさゆりを知っている。
たしかにさゆりは昔から優しい性格で、他の誰よりも可愛いかった。
でもそれは、どちらかというと、隠されていた、知る人ぞ知る魅力だった。
今は、もう違う。
自分の魅力を最大限に発揮できるように、さゆりは変わった。
それは悪いことじゃない。
むしろ良いことだと思う。
だから、せっかく変わろうとしているさゆりの邪魔だけは、僕はしたくなかった。
さゆりは変わろうと決意したんだ。
ならば、僕はその意志を尊重して、できる限り応援しなくちゃいけないのだ。
そんな風にさゆりに見つからないようにしながら、僕は下駄箱に辿り着く。
せっせと靴を履きながら、僕は鞄の奥から折り畳み傘を引っ張り出す。
前にこの傘を取り出した時は、さゆりに会えたな、なんて嬉しい記憶を思い出して、僕は一人ニヤついてしまう。
外から見た今の僕はきっと、最高に気持ち悪いに違いない。
「ねえ、ちょっといい?」
「うへぇっ!?」
するといきなり横から声をかけられて、僕は軽く飛び上がってしまう。
井浦とさゆりがいなければ、滅多に喋りかけられないので、完全に油断していた。
僕は思わず手元から落としそうになった折り畳み傘を握り直すと、声がした方へ顔を向ける。
そこにいたのは、すごい綺麗な女子生徒だった。
枝毛も寝癖もない黒髪に、海外の血が混じっているのか青い目をしている。
日差しなんか浴びたことありません、みたいに真っ白な肌をしていて、均整の取れた容貌と体形は下手なモデルより目を引くものだった。
かなりの美人さんだ。
まあでも、僕の幼馴染には負けるけどね。
うん、勝手に比べてしまってこの人には申し訳ないけれど、全然さゆりの方が可愛いな。
「え、えーと、なんですか?」
「わたし、傘を忘れてしまったの。駅までで構わないから、少し入れてくれないかしら?」
「あー、はい。べつにいいですよ」
青い目の美人さんは、華が咲いたようにニコッと笑う。
美人の笑顔。
それは頭ではとても素敵なことなんだとわかっていたけれど、不思議と僕の胸はまったくドキドキしなかった。
やっぱり僕は、さゆりじゃないと駄目みたいだ。
さゆりはいい迷惑だろうけど、つまりそういうこと。
僕は、さゆりに心の底から、惚れ切ってしまっている。
さゆり色に染まり切った僕の心に、他の誰かのための余白はもう残っていないらしい。
「わたしは朽織世利。ありがとね、葉月くん」
朽織世利。
なんだかどこかで聞いた名前だな、とぼんやりと思いながら、朽織さんの言葉に何か引っ掛かりを覚える。
でも疲れと眠気で、何が引っかかったのか分かる前に、全てどうでもよくなった。
はやく家に帰って寝たい。
今の僕が考えているのは、ただそれだけだった。
―――――
え。ちょっと待って。どういうこと。
クラスで仲の良い男女数人と、打ち上げと称してスイパラと呼ばれる食べ放題のお店に向かっている途中、私はありえないものを見つけてしまう。
うそ。これは幻覚? 意味わかんない。なんで?
いつものように癖で、時間も場所も関係なく幼馴染の葉月を目で探していた私に、見覚えのある傘と背中が視界を横切った。
葉月に関して、私に見間違いはない。
自然と視線がその背中を追うと、そしてそこで私は信じられないものを見てしまうのだ。
「な、なんで、朽織先輩が、葉月と相合傘してるの……?」
葉月の小さな折り畳み傘の下では、見知った背の高い美人がぴったりと隣りに寄り添っていた。
ずるい! 私だってまだ、高校に入ってからは一回も相合傘してないのに!
嫉妬の炎がめらめらと沸き立つのを感じながら、私は歯をぎしぎしと擦りながら二人の背中を睨みつける。
「うわっ!? ど、どうしたんだよ白鳥さん。珍しく怖い顔してるね。いったい何をそんな怖い顔して見てる……あ、あれ朽織先輩だ。でも隣りの奴誰だ? 男の方は知らない奴だな」
私の隣りで、クラスメイトの風間くんが何やらもにょもにょと喋っているけど、今はまともに会話ができる状態じゃない。
これは緊急事態だ。
のんきにスイーツを貪り食べてる場合じゃない。
「ごめん! 風間くん! 私ちょっと用事ができたから、少し打ち上げ遅れるね! 皆にそう伝えておいて!」
「え? あ、ちょっと待って白鳥さ――」
最近流行っているドラマの主演俳優に似ていると評判の風間くんを置いて、私は葉月と朽織先輩の後を気づかれないように追いかけ始める。
まさかとは思うけど。さすがにないよね。
葉月と朽織先輩が、その、恋愛的な、あれとかないよね。
あんな美人に言い寄られたりしたら、さすがの葉月もきっとイチコロだ。
朽織先輩と相合傘なんて、それだけでドキドキしっ放しに違いない。
焦燥感と危機感に急かされながら、私は梅雨の残り香で満ちる街で、いまだに届かない幼馴染の背中を追って走り出した。