五 幼馴染が青く思い浮かぶので僕は、
頬杖をつきながら、僕は眼前の真っ白な画用紙を、どうやって埋めようか考え込んでいた。
音楽、書道、美術の中から選べる選択授業のうち、美術を選んだ僕は、ちょうど今まさにその一週間に二度ほどしかない芸術性を高める時間を過ごしていた。
そして今の僕らに与えられている課題は、あなたの思う“青”を描きなさいなるものだった。
この課題には条件があって、“青”を描く際に青色を使ってはいけないという制限がある。
元美術部だった幼馴染のさゆりならいざ知らず、手先が不器用で発想が貧困な僕にとってはこれが中々の難問で、てんで筆が進まない。
同じクラスの数少ない友人である井浦は、僕とは違って書道選択だ。
なのでこの美術の時間では、いつものように気軽に話し相手や相談相手になってもらう相手がいない。
そういうわけで僕はこの授業が始まってから、十五分間くらいは一人で悶々と何をするわけでもなく、青色はおろか何色も使われていない厚めの紙を眺め続けているわけだ。
「なにかいいアイデアは浮かびましたか? 佐藤くん」
「うーん、それがあんまり。すいません、茜ケ丘先生」
「いいえ、なにも謝ることはありませんよ。うんうん。芸術は、はやく完成させればいいといったものでもありませんから」
上品でのんびりとしたハープのような声で、僕の背後から丸顔を覗き込ませてくるのは、美術の先生の|茜ケ丘先生だ。
マイペースでどこかぽわぽわとした雰囲気を纏う茜ケ丘先生は、いたるところに絵具のついた白衣をいつも通り着ていて、綺麗なおでこが目立つようにカチューシャをしている。
大人の余裕を感じる豊かな胸部に手を当てながら、茜ケ丘先生はうんうんと癖のフレーズを口ずさんでいた。
「うんうん。そうですね。佐藤くんが想い浮かべる、青いものはなんですか?」
「僕が思う青いものですか。なんだろう。海とか、空とか? すいません。ありきたりで」
「だから謝る必要はないのですよ、佐藤くん。発想は全て等しく自由です。上も下もない。ありきたりでもいいじゃないですか。うんうん。他の人が思いつかないような、斬新な考えも貴重ですが、だからといって、多くの人が思いつくような普遍的な考えに価値がないわけでもありません」
僕を慰めるような、あるいは勇気づけるように、茜ケ丘先生は優しく微笑んでくれる。
さゆりもそうだけれど、美術をやっていると、皆こんな風に穏やかで素敵な人格が育つのだろうか。
「では、こう考えてみましょう、佐藤くん。君の思う、青かったらいいなと思うものはなんですか?」
「青かったらいいなと思うもの?」
「はい。そうです。普段、佐藤くんが目にして、聴いてきたもの中で、青が一番似合うものです」
「僕にとって青が似合うものですか。あー、なんだろう。どれに似合うかな」
「イメージしましょう。うんうん。佐藤くんにとっての青はどんなものでしょう。冷たいものですか? 大きなものですか? 身近なものですか? その佐藤くんの抱く青の印象を、もっとも強く秘めたものを、佐藤くんが青く塗ってしまえばいいんですよ」
茜ケ丘先生の言葉に従って、僕は考えてみる。
僕にとっての、青とはどんな色だろう。
あまり悪いイメージはない。
どちらかといえば、綺麗な色の印象がある。
そう、綺麗だ。
なら、僕にとって綺麗なものとはなんだろう。
そんな問いは、秒も悩まずに答えが出た。
僕にとって綺麗なものといったら、それはたった一つ。
いや、たった一人しかいなかった。
「……ありがとうございます、茜ケ丘先生。なんとなく描くものが決まりました。僕にとって青は、何よりも綺麗なものなんです」
「それはよかったです。うんうん。佐藤くんの想う綺麗な青、楽しみにしていますね」
ふぁいとです、と最後にはにかみながら両手をぐーにすると、茜ケ丘先生は僕のところから離れて、また別の生徒の方へ向かって行った。
やっと頭脳労働を終えた僕は、さっそくこれまでさぼらせていた手を働かせるべく、下書き用にペンを持つ。
思い浮かべるのは、鮮やかで、気高さをもった、何よりも綺麗な青。
空よりも高く、海よりも深い、美しい青の人。
他の誰よりも長く見てきた幼馴染の横顔を、僕は青色を使わず真っ白な画用紙に青く描いていくのだった。
―――――
私は青色以外の様々な色を使って、地元の公園のブランコを描いていた。
今はちょうど選択科目の美術の授業中で、元々絵を描くのが好きだった私にとっては、高校生活の中でも心の休まるお気に入りの時間だった。
課題はあなたの思う青を、青色を使わずに描きなさいといったもの。
私の隣りの席で、友人達が赤い海や黄色い鳥なんか描いている中、私はブラウンベースで幼い頃よく遊んだ家の近くの公園を丁寧に書き込んでいた。
青と言われて、私が真っ先に思い出すのが、その公園の真っ青なブランコだったからだ。
まだ小学校に入ったばかりくらいの時、私は今以上にシャイというか内気な子で、皆の輪に入って公園に集まっても、鬼ごっこみたいな活発な遊びとかに上手く混ざることができなかった。
嫌われていたり、はぶられているわけじゃないけど、なんとなく皆の遊びに馴染み切れていなかった私は、よくその青いブランコに乗っていた。
ぎーこぎーこ、とブランコに乗る私は、いつもそこから一人で私以外の皆のことを羨まし気に見つめていたはずだ。
でも、そんな私の隣りにいつからか、一人の男の子がくるようになった。
その男の子はブランコを立ち漕ぎしながら、へたくそな口笛をよく吹いていた。
『きみはいつもぶらんこにのってるね。ぶらんこすきなの?』
『ううん。べつに。ただ、ぶらんこのってるだけ。ひまだから』
『そっか。ならぼくとおなじだね。ぼくも、ひまだからぶらんこのってるんだ』
『そうなの? みんなといっしょにおにごっこしないの?』
『ん? おにごっこしてるよ。ぼくはいま、おになんだ』
『え、じゃあ、ひまじゃないじゃん。おには、ほかのこつかまえなきゃいけないんだよ』
『うん。つかまえるよ。でも、ぼくはさいしゅうへいきだから。おにごっこのさいしょのほうはひまなんだ』
『さいしゅうへいき? なにそれ』
『さいしゅうへいきは、さいごにつかまえるんだ。きみもさいしゅうへいきでしょ?』
『ちがうよ。わたしはさいしゅうへいきじゃないとおもう』
『そうなの? いつもさいごまでつかまらないから、さいしゅうへいきだとおもってた』
自分のことを最終兵器だと口にする男の子は、ううん、やっぱり僕たちは最終兵器だよ、なんて言って青いブランコを漕ぎ続けていた。
『葉月ー! そろそろでばんだ! みんなのことをつかまえてくれー!』
『わかった! さいしゅうへいきのでばんだね!』
他の友達たちに葉月と呼ばれたその男の子は、立ち漕ぎの勢いそのまま鳥みたいに空を飛ぶと、風のように公園の中を走り回り、あっという間に他の子たちを捕まえていった。
ゆったりとした雰囲気と顔とは裏腹に、やたらと足の速い最終兵器の男の子は、そして最後に私のところにやってくると、得意げな顔で私の肩に手を置くのだった。
『つかまえた。きみでさいごだ』
そう。きっとあの日からずっと、私は捕まりっぱなしなんだ。
最終兵器の男の子が私を捕まえてから、私は段々と皆の輪に馴染めるようになっていった。
そして最終兵器の男の子は私の幼馴染になって、今は鈍感な私の想い人になったというわけ。
「わあ。白鳥さんは、絵が上手ですね。うんうん。これが白鳥さんにとっての“青”、なんですね」
「……え? あ、はい。茜ケ丘先生。これが私にとっての、“青”です」
優しくて心の火照る回想に浸って夢中で絵を描いていた私へ、ふいに美術担当の茜ケ丘先生が声をかけてくる。
音を出さない程度に控えめに手を叩きながら、茜ケ丘先生はうんうんと嬉しそうに微笑んでいた。
「うーん? あれ、でもなんだか、見覚えがありますね。うんうん。誰だったかな。何よりも綺麗な青を描くっていっていた子がいた気がして」
「見覚えですか? 誰か他の人もこの公園を描いてましたか?」
茜ケ丘先生は、思案気に唇を結ぶ。
どうやら私の描いた絵に既視感があるらしい。
もしかして、葉月も?
たしか葉月もクラスは違うけど、美術選択だったはず。
私と同じ絵を、青として葉月も描いたんじゃないかと、期待に胸がとくんと波打つ。
何よりも綺麗な青。
たしかにあの思い出は、何よりも綺麗だ。
「あの茜ケ丘先生、それ、もしかして八組の佐藤くんじゃないですか?」
「あー! そうです。うんうん。よくわかりましたね、白鳥さん」
「ふふっ。やっぱり。そうなんだ。葉月もか」
想像は当たっていて、茜ケ丘先生が見た似た絵も葉月が描いたものみたい。
私はちょっと嬉しくなる。
たぶん同じものを描いたら、私の方が上手くかけるんだろうけど、そんなことはどうでもよくて、同じ思い出を青くできていることが嬉しい。
「どうですか。佐藤くんと私の絵を比べてみて」
「あ、でも、この絵じゃないんです」
「え? この絵じゃない? どういう意味ですか?」
「絵じゃなくて、白鳥さんです。うんうん。白鳥さんの横顔が、佐藤くんが描いていた“青”に似ています」
あ、これ、あんまり言っちゃいけないことだったかもしれませんね、うふふふ、なんて最後に笑うと、そのまま茜ケ丘先生は別の席の生徒のところに歩いていった。
あっけにとられた私は、これまであれほどてきぱきと動かせていた筆が、ぴたりとまったく動かせなくなってしまう。
“何よりも綺麗な青を描く”
……もう。まったくこれだから葉月は。
私は観念する。
どんなに私の方が絵が上手でも、やっぱり葉月には敵わないなって、改めてそう思う。