三十四 兄が人は変わるというので私は、
「ただいまー」
葉月への弟子入りの話をした後は、少し雰囲気を変えて、最近ハマってるバンドの話とかをして、その後別れた。
家に帰ると、なんだかドッと疲れが身体にのしかかってくる。
まったく夏休みが明けたばかりだっていうのに、いきなり前途多難だ。
「さゆちゃん、おかえり〜。夕ご飯、一応残してあるけど、食べる? 温めよっか?」
「ううん。大丈夫。お腹は空いてないから」
お母さんがリビングから、ひょこっと顔を出してくる。
もう時間は夜の八時をすぎるくらい。
すでに夕飯の時間は終わっていて、今日は外で食べてくるから要らないと事前に伝えておいた。
「お父さんは今日も残業?」
「そうみたい。あの人、ほんとに働くの好きよね」
「なんか止まったらしぬ回遊魚みたいな人だもんね」
「そうそう。寝てたら疲れるとか変なこといつも言ってるもの。わたしなんて、寝ても寝ても寝足りないのに」
どうやら半導体メーカーに勤める父は、今日も夜遅くまで帰ってこないらしい。
元出版社勤めの母は、今は細々とちょっとしたライター業をしているらしいが、休みの日はずっと寝ている。
一方父の方は、せっかくの休みの日も趣味のサーフィンをしに朝からいなくなってしまう。
いったい、どうしてこんな正反対の性格の二人が夫婦になれたのか、不思議で仕方がない。
「お兄ちゃんは? もう寝た?」
「亮くん? うーん、わかんない。部屋じゃない?」
父がいなくて、母がいるのはいつも通りだが、白鳥家には普段とは違って、今は私の兄もいる。
高校の時から、宮城県の方にサッカーをするために一人暮らしをしていて、大学生になった今もまだ県外にいる。
地元じゃ一番の運動神経で、私のちょっとした憧れでもある兄。
昔から仲も良かったけれど、実は今回帰省してからあまりちゃんと話せていない。
「わかったー」
「あ、ちなみに、アイス余ってるけど、食べる?」
「え、食べたい——けど、我慢する。もう私、クレープも食べてきちゃったし」
「あら。そうなの。じゃあお母さん一人で食べよーと」
「ううぅ。羨ましい。というかなんでお母さん寝て食べてばっかりなのに、太らないの?」
「寝る子は育つって言うでしょ?」
「絶対使い方違う」
謎にウインクを飛ばすと、そのまま聞いたこともないメロディの鼻歌を歌いながら、母はリビングの方にひっこんでいった。
もう結構いい歳なのに、母は今でも二十代と間違えられるほど若々しく、スタイルも女性らしい曲線日を保っている。
基本的にはごろごろしているだけに思えるのに、いったいどういう仕組みであの体型が保たれているのか不思議でならない。
「お兄ちゃん、いる〜?」
階段を上がって、自分の部屋に荷物をおいた後、特に用事はないが帰宅の挨拶くらいしておこうと兄の部屋をノックする。
しかし反応はなく、私は首を傾げる。
「いないのー?」
ドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていない。
昔から、私の兄は鍵をかけない癖があるので、だからといって部屋の中にいるかはわからないんだけど。
「お邪魔しまーす」
なんだかんだ、兄の部屋に入るのは久しぶりだ。
壁には本棚が並べてあって、そのほとんどが少年漫画。
音楽好きということもあって、CDアルバムも結構な数が置いてある。
でも、なんか、殺風景に感じる。
昔と同じ机とベッド。
特別何かが変わったような気はしないけれど、なんとなく物寂しい気がする。
やっぱりいつも人がいないと、部屋も気の抜けた感じになるのだろうか。
「あれ? いるじゃん」
そんなふうに兄の部屋を適当に眺めていると、半開きになったカーテンの向こう側に、兄の大きな背中が見えた。
どうやらベランダにいるみたいだ。
私はドアに手をかけて、スライドさせる。
ひゅるり、と涼しげな風が通り抜ける。
少しだけ驚いた表情で、兄が私の方を振り返る。
暗い夜に浮かぶ、白い煙。
カラメルっぽい、独特な匂いが鼻につく。
「ああ、さゆりか。帰ってたんだな。おかえり」
「え? お兄ちゃんって、タバコ吸うの?」
「ん? ああ、そういやさゆりの前で吸うのは、初めてかもな」
どこかくたびれた表情で、煙草を咥える兄は、ずいぶんと年老いて見えた。
知らなかった。
兄はもう二十歳を超えてるし、べつに犯罪でもなんでもないんだけど、なんか意外というか、似合わない感じがした。
「……お兄ちゃん、部活あるのに、いいの?」
「……プロでも吸う奴はいるからな。それに、俺が吸うのはオフシーズンだけだし」
私とは違って、兄は本気でプロを目指すほど運動の才能に恵まれた人だ。
だから、昔から健康には人一倍気にするようなストイックな性格だったから、やっぱりどうしてもタバコのイメージが違和感だった。
「なんか、雰囲気、変わったね」
「……まあ、人は変わるからな。お前だって、変わっただろ?」
どこか冷たい目をしながら、兄はそう吐き捨てる。
元々、ドライ気味というか、冷静な性格だったけれど、今はまた別の印象だ。
冷静というよりは、冷たい。
暖かで、犬の赤ちゃんみたいな葉月と会ったばかりだから、余計にその温度の低さを感じてしまうのかな。
「それで、さゆりの方はどうなんだよ」
「どうってなによ」
「ずいぶんと楽しそうじゃんか」
「まあ、ね」
どこかからかうような雰囲気を滲ませながら、兄は私を見る。
すでに葉月と付き合い始めたことは言ってるので、おそらくその辺りのことを言っているのだろう。
「でも、あんまり、のめり込みすぎんなよ」
「……え? なにが? どういう意味?」
「高校生だし、恋愛ごっこの一つや二つするのは、仕方がないけどさ」
「なにその言い方。ちょっと嫌な感じするんだけど」
「そうか? 悪い、悪い。そういうつもりじゃないんだけどな」
どこか棘のある言い方に思えた。
ふっと、タバコの煙を秋の夜空に吹きかけると、そこで兄はベランダから部屋の中に戻ろうとする。
「だって、結婚とかするわけじゃないんだからさ」
最後にそう一言、言い残すと、振り返ることもなく、私の兄は部屋からも出ていってしまう。
残ったのはタバコの鼻につく残香と、秋の月明かりだけ。
人は、変わる。
家族ですら変わってしまう日々の中で、私はどこか寂しい気持ちになった。