四 幼馴染がもう少し喋りたいというので僕は、
五限分の授業を終えた帰り道、三十分ほど前から振り出したにわか雨は、まだ降り止む気配を見せていない。
控えめに揺れる電車の窓から眺める景色が、段々と見知った顔なじみの風景に変わるのを眺めながら、僕はそろそろ定期試験の勉強を始めないとなあと、頭の片隅で思う。
たしかそろそろ高校に入ってから初めての定期考査の時期になるはずだけど、いまいち僕の中にはやる気が出てきていなかった。
僕はわりと怠け者で、提出物や試験勉強を期限ぎりぎりまで放っておくタイプで、一人ではあまり余裕を持って行動を起こせない部類の人間だった。
そんな僕が中学時代までは、それなりに試験で良い点をとったりできていたのは、何を隠そう幼馴染のさゆりのおかげだ。
さゆりは僕とは違って、何事にも前もって時間をかけて真面目に取り組む性格で、試験勉強とかも一ヵ月くらい前から始める子だった。
そのさゆりの試験勉強に僕も付き合わされていたから、一人では中々動きださない僕も、自然と計画的な勉強ができていたというわけだ。
実質、中学までの僕の案外優良な成績は、マメな美少女幼馴染によってつくりあげられたといっても過言ではなかった。
学習意欲を奪う、睡眠欲を誘う心地良い揺れが収まり、僕は最寄り駅に辿り着いたことにちょっと遅れて気づく。
慌てて席を跳ねるように立つと、早歩きで電車を降りる。
ざあざあ、と六月の雨が白く街を塗る音。
僕はリュックの奥底にしまい込んだまま存在を忘れていた折り畳み傘を取り出すと、自動販売機で微炭酸なマッチを購入し、改札の方へのろのろと歩いていった。
すると、僕は改札の向こう側に、青春映画の主演でもやっていそうな美形の女の子が立ちすくんでいる姿が見えた。
凛々しく澄ました表情のその美少女は、僕と同じ高校の制服を着ていて、英語の単語帳を熱心に見つめている。
その小ぶりで形の良い綺麗で可憐な横顔は、僕にとっては見覚えしかなくて、というか完全にその子は幼馴染のさゆりその人だった。
「……あ、葉月」
「……よっ、さゆり」
僕が少し緊張した気持ちで近づいていくと、はっとしたようにさゆりが単語帳から顔をあげる。
見つけたのは僕の方が先だけど、先に声をかけてきたのは彼女の方。
何となくの気まずさを感じた僕は、頬をぽりぽりと掻く。
「葉月は今、帰り?」
「う、うん。まあね。さゆりもいま帰り? なんか珍しいね。この時間にさゆりがいるの。部活は?」
「もう定期試験一週間前だから、部活は休みだよ。まったく。これだから帰宅部は」
「おっとそうだった。帰宅部は年中試験一週間前だからね。他の部活の人はいまさら試験一週間前なのか。失念してたよ」
「うふふっ。なにそれ。謎の上から目線。そこまで言うなら、もうとっくのとうに試験日に提出する課題終わらせたんでしょうね?」
「帰宅部は試験当日まで、ずっと試験一週間前だから、もちろんまだやってないよ」
「でた。やっぱりまだやってないじゃん。葉月って、そういうのほんと私が言わないとぎりぎりまでやんないよね。私がいないと、ダメダメなんだから」
なぜか、私がいないとダメダメなんだからのところで、やたらと嬉しそうに顔をニマニマさせながら、さゆりは英語の単語帳を閉じる。
誰か他人と喋る時に、本を読んだり、スマホをいじったりしないところは、僕にとって大好きなさゆりの癖の一つだった。
「それで、なんでさゆりはこんなところで待ちぼうけしてるの? 誰待ち?」
「しいていうなら、お母さん待ち」
「なんで? どっか行くの?」
「いやほら、急に雨降ってきたじゃん。私、傘忘れちゃったから、迎えに来てもらおうと思って」
「あー、なるほ。そういうことね」
「葉月は折り畳み傘持ってるんだね」
「まあね。僕ってこう見えて、臨機応変、用意周到なタイプだから」
「はいはい、そういうのいいから。ただ折り畳み傘をしまいっぱなしにしてただけのくせに」
「さすが幼馴染。試験科目のうち、“佐藤葉月”の科目は満点を取れそうだね」
「ふふっ。たしかにそれは自信あるかも。それは試験勉強とかしなくても、いつでも満点とれるかな」
さすがは十年近く一緒に過ごしてきた幼馴染、僕のことは全てお見通しだ。
やれやれといった風に首を振るさゆりを横目に見ながら、なんとなく安心してしまう。
見た目や立場は変わっても、僕の幼馴染は僕の知る幼馴染のままだ。
さゆり自身は何も変わっていない。
こうやって僕と喋る彼女は、昔と何一違わない。
僕はそれがたまらなく嬉しかった。
「じゃあ、僕は先に帰るね。聡子さんによろしく」
「え? 葉月、もう行くの? まだ、雨止んでないよ?」
「雨やんでないって、もしかして幼馴染の対策ばかりし過ぎて、一般常識抜けちゃった? 僕が今、この手に持ってる折り畳み傘の使い道、もしやご存知ない?」
「ば、ばかにしすぎっ!」
「ごめんって。でも、なんか、それともまだ僕に言いたいことでもあるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
もじもじと、何か不満そうに唇を尖らせるさゆりは、そんな拗ねた表情ですら可愛らしかった。
だけど、どうして僕を引き留めるのだろう。
高校の知り合いのいない地元でならべつにいいかなと、普通にこうやってさゆりと喋っていたけど、こういうのも今後慎むように叱られるのだろうか。
そんなことを言われたら、僕はいよいよ本気で泣いてしまうかもしれない。
「もう少し、喋りたい。……だめ?」
なぜか潤んでいる瞳を、上目遣いにして、不安そうな顔でさゆりは僕にそう言う。
これはずるい。反則だ。
幼馴染の温情がなければ即レッドカードもの。
だめかだめでないで言えば、まったくもってだめじゃないし、当然のようにだめではなく、絶対と確信をもってだめじゃなかった。
――――――
「ほ、ほら、お母さんくるまでの暇潰し相手になってって意味! それに葉月も近所だしっ! お母さんの車一緒に乗っていけばいいじゃん」
「わかったわかった。僕と喋る方が英単語覚えるよりよっぽど楽しいもんね。わかるよ、その気持ち。仕方ない。わがままなお嬢さんにこの紳士が付き合ってあげよう」
「誰がお嬢さんだ。なにが紳士だ」
私はやけに熱を持ち始めてきた顔を、単語帳をうちわ代わりにして扇いで涼ませる。
うん。久々にまともに葉月と喋るけど、やっぱり一番喋りやすい。
ここ最近、避けられてる気がしてたけど、こうやって実際に話してみると、そんな気配はまったくしなかった。
どうしてだろう。
ここが地元だから、私と普通に接してくれるのかな。
となると、やっぱり高校に私とあんまり話さない理由があるということになる。
え、うそ、結局、そうなの?
なんか、好きな人ができたとか、そういうことなのかな。
急に葉月の顔が直視できなくなった私は、薄白く霧がかって見える私と葉月が過ごしてきた街並みを眺める。
「……それで、葉月は最近どうなのよ?」
「最近どうってなに。これまた曖昧がモコモコだね」
私はなんとなく探りを入れてみる。
葉月はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、暢気にライトイエローのマッチをごくごくと飲んでいる。
「最近っていうか、ずっとそうだけど、べつに普通だよ。山も谷もない、平坦で歩きやすい日々を歩んでるよ」
「ふーん、そうなんだ。友達とかできた?」
「一応そうだね。寂しさを感じない程度には」
真意を窺うべく、葉月の顔を注視してみるけど、別段動揺している気配はない。
葉月はそこまでポーカーフェイスというわけじゃないから、ちょっと揺さぶればボロを出すと思ったんだけど、今のところ本当に世間話といった感じの雰囲気しかだしてない。
私の思い過ごしなのかな。
電車で片道三十分ほどだけど、一応地元を離れたってことで、なんとなく私に構う暇が減っちゃっただけで、避けられるわけじゃないし、他に好きな人ができたわけでもないのかな。
いや、待つのよさゆり。油断は大敵。まだ気を緩めちゃだめ。
私はちょっとかまをかけるつもりで、折り畳み傘をリュックにしまい直す、少し目を離した間に僅かに背が伸びた幼馴染の肩を頭で小突く。
「うわ。なんでいきなり頭突き?」
「あのさ、葉月、なんか私に言うことないの?」
「言うこと?」
「そそ。言わなくちゃいけないこと」
「うーん、そうだね。しいていうなら、高校に入ってからさ……」
「へ? あ、う、うん。高校に入ってから、なに?」
すると、意外にもこの雑なかまかけが功を奏したのか、葉月は照れた時の癖である頬をぽりぽりと掻き出す仕草をしだす。
うわ。ちょっと待って。
この感じ。私には分かる。葉月、本気で照れてる。
あ、やばい。むりかも。
自分からかまかけといてあれだけど、心の準備ができてない。
本当に好きな人ができたとか言われたら、私は間違いなく号泣しちゃう。
「高校に入ってからさ、なんというか、その……さゆり、可愛くなったよね」
えへへ、みたいな気まずそうで、尊敬してます、っていう感じの表情で葉月は私にそう言う。
これは卑怯だ。反則すぎ。
幼馴染の贔屓がなければ、ほとんど結婚詐欺で訴えられても文句はいえないよね。
嬉し過ぎてまともな会話能力を失った私は、はいはい、ありがと、なんてぶっきらぼうな照れ隠しを口にすると、雨の向こう側からやってくるお母さんの車を見つけ出す。
あともうちょっとだけ、遅く来てくれてもよかったのに。
雨はまだ降り止む気配を見せていなかったけれど、私の心はどこまでも晴れやかで暖かなもので満たされていた。




