後輩の折り畳み傘に一緒に入れないのでわたしは、
本当は泣くつもりなんてなかった。
最後は笑顔でお別れするつもりだった。
何も悲しいことなんてない、幸せな思い出をつくるだけのはずだった。
それなのに、どうしてか、涙が溢れ出てくる。
かっこいい先輩だったはずのわたしは、葉月くんを困らせている。
大好きな後輩に、迷惑をかけてしまっていた。
「……高校をやめる? どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。夏が終わったら、わたしは海外に一年間留学しに行くの。だから日本の皆より、半年くらい遅れて高校生を卒業することになるかしらね」
海風に、真っ直ぐな前髪を揺らしながら、葉月くんは呆然としている。
性格の悪いわたしは、少しだけ、そんな彼を見て嬉しくなってしまう。
わたしという存在が、たしかに葉月くんの中に根付いていたことが分かって、ちょっとだけ心が暖まる。
「……さすが、ですね。やっぱり世利さんは凄い人です。たしかに世利さんなら、留学って言われても、そこまで意外じゃないです。むしろ、よくここまで国内で収まってたなという感じがしますよ」
「けっこうぎりぎりだったわよ。というかちょっとはみ出てたかも」
「ははっ。そうですね。微妙にはみ出てました」
「それ、褒めてる?」
「もちろんですよ。というか世利さんが自分で言ったんじゃないですか」
「君に言わされたのよ」
「誘導まではしてないですよ。きっかけは与えたかもしれないですけど」
やがて動揺が落ち着いてきたのか、葉月くんは雰囲気が暗くならないように、気を遣って楽し気な会話を再開してくれる。
葉月くんは、わたしの涙を拭こうとはしない。
それは彼なりのリスペクトであり、気遣いだってわかってるけれど、どうしてかわたしはそれがほんのちょっぴり不満だった。
「ほんとにずるい人ね、君は」
「それはこっちの台詞ですよ。夏が終わったら、いなくなっちゃうなんて。そんなの……ずるいですよ」
そんな自分勝手な不満を抱いていたわたしは、ふと気づく。
どこか飄々としていて、わたしを沢山笑わせてくれた葉月くんの目元も、わたしと同じ様に光を帯びていることに。
ああ、そうか。
わたしは、わたしが思ってた以上に、彼に近づいていたんだ。
「……もしかして、葉月くん、泣いてるの?」
「……それ、世利さんが言います? 僕、気を遣って世利さんが泣いてるの、気づかない振りしてたのに」
「わたしは、泣いてないわよ」
「泣いてるじゃないですか」
「泣くわけないじゃ…ない。だってわたしは、完璧な…君の、一番の、先輩……なんだから」
目頭が熱い。
せっかく泣き崩れるのは我慢できると思ったのに。
葉月くんまで泣きだすなんて、ずるすぎる。
油断していたわたしは、もう堰を切ったように流れ出る涙を止めることができなかった。
「……もう、最悪。君は、本当に最低の後輩よ。わたしを泣かせるなんて。SNSで佐藤葉月っていう一年生に泣かされたって拡散してやる」
「それは本当にやめてください。世利さんがそれやると、本気で僕の命が危ないです」
「葉月くんの馬鹿」
「うわ。驚いた。世利さんもそんな汚い言葉使うんですね」
「ばか。あほ。まぬけ」
「語彙のない世利さんも素敵です」
葉月くんは泣きながら、笑っている。
わたしが思っていたより、彼は近くにいてくれた。
でも、これが、限界。
これ以上、近くには、いけない。
夏の終わりが近づき、わたしは、波打ち際で、憧れを捨てる。
知らない間に灰色に染まった空から、冷たい雨が降り注ぐ。
ずっと返し損ねていたものを、やっと返せる。
「葉月くん、これ」
「……折り畳み傘。そういえば、貸しっ放しでしたね」
雨は始まりで、そして終わりでもある。
この小さな傘の中に、ちょっと背の高いわたしは、葉月くんと一緒には入れない。
もっと彼の隣りにいるのに相応しい、小柄な、幼馴染で恋人が、彼にはいる。
憧れだけじゃ、届かない。
寄せては返す、さざ波の際で、わたしは一人雨に濡れる。
「……先に帰って、葉月くん。わたしはもう少し、ここに残るから」
「でも、雨、降ってますよ」
「わかってるわよ、それくらい。でも、今は、濡れたい気分なの」
「水も滴る、いい女ってことですか?」
「よくわかってるじゃない。君みたいな幼馴染が、わたしも欲しかったわ」
それは、小さな嘘。
本当にわたしが欲しかったのは、幼馴染じゃない。
きっとそれは、君みたいな、恋人。
この感情を恋と呼ぶべきかどうか、それはわからない。
そう呼べるほどわたしは、まだ君のことを知らない。
でも、たぶん、それくらいで、ちょうどいい。
だってどうせ、勝てっこないんだもの。
恋心を抱く前から、失恋が決まってるなら、恋なんてしない。
そう、だから、君は、幼馴染でもなく、恋人でもない、ただの後輩くん。
この世界で一番大好きな、お気に入りの後輩。
たった一つ、唯一の心残り。
「僕、寂しいですよ、世利さん」
涙で滲んだ視界の向こうで、海は少し荒んでいる。
もう、わたしの手元に、雨宿りできる傘はない。
ずいぶんと、長い雨宿りをしてしまった。
「本当に、残るんですか? 一緒に帰りましょうよ、世利さん」
「……ううん。お別れよ、葉月くん。わたしは、君とは一緒にはいけない」
もう、それ以上、そんな綺麗な瞳で、わたしを見つめないで。
ここで全部、洗い流さないと、わたしは、どこにも行けない。
君の前では最後まで、かっこいい先輩でありたい。
「ずるい先輩ですね。僕のことを、置いていっちゃうなんて」
「それこそ、こっちの台詞よ。君がわたしのことを置いていったのよ」
胸が、苦しい。
でも、不思議と清々しい。
身体中が濡れている。
だけど、どうしてか、心は熱い。
だから最後は笑顔で、君を送り出す。
「さようなら、葉月くん」
さようなら、わたしの初めての憧れの人。
君の先輩になれて、本当によかった。
「さようなら、世利さん。僕は世利さんに会えて、本当によかったです」
わたしの心を見透かしたように、君も笑顔でわたしに手を振ってくれる。
やっぱり、最後まで、君には敵わないのね。
きっといつの日か、君を初恋の人と素直に呼べるようになる日まで、さようなら。
――
雨が、止んだ。
地元の最寄り駅まで帰ってくると、電車に乗る前はあれほど強く降っていた雨が、嘘みたいに止んで、綺麗な夕焼けが空に広がっていた。
僕は開こうとしていた折り畳み傘をしまう。
当然、世利さんは、もう隣りにいない。
あの人は、僕を置いて、どこか遠くに旅立ってしまうらしい。
でもそれはなんだか、どこかミステリアスで、それでいて魅力に溢れた世利さんらしい選択に思えた。
だけど最後の笑顔を思い出すと、若干涙ぐんでくる。
短い付き合いだったけれど、あれほど素敵な先輩はいないだろう。
寂しくなるけれど、これも人生だ。
出会いもあれば、別れもある。
僕にできるのは、忘れないことだけ。
「……ん?」
最寄り駅の改札を出て、帰路につくと、小道の先に見慣れた人影が見えた。
それは僕より少し小柄で、僕なんかよりよっぽど晴れ空が似合う、可憐な美少女。
「葉月」
そんな僕の、幼馴染で、そして恋人である彼女が、僕の名を呼ぶ。
気づけば僕は、走り出す。
夏が終わっても、絶対に僕はその手を握って離さない。
秋近い茜空の下、僕は君と一緒に、二人でどこまでも行く。