先輩はペンギンになりたいので僕は、
腹持ちの良い小麦粉で満たされた身体を揺らしながら、僕は世利さんと並んで燦燦と太陽高く昇る小道を歩いていた。
スパイスとラッシーの混ざった、酸味とまろやかさの両方が含まれた後味を舌に残して、僕は道に散らかる黄色い砂に足跡を残す。
もう海の気配がすぐそこまで近づいていた。
「あ、海」
やがて、心地良い沈黙の中で風を感じていた世利さんが、不意に鈴のような声を鳴らす。
無駄のない曲線美を描く世利さんの横顔を見ていた僕は、その声につられるようにして視線を前に戻す。
ゆるやかで短い下り坂の先に、小さなトンネルのようなものがあり、その向こう側では青とそれに反射する眩い白光が見えた。
「海、ですね」
「風が少し、べたつくわね」
段々と道端の上に散らかっている砂の量が増えていく、そのうち砂で覆われた部分と覆われていない部分の面積比が逆転する。
夏の匂いを運ぶ潮風に逆らいながら、僕らは不安定で足場の安定しない砂浜へと降りていった。
「思ったより静かね」
「そうですか? 十分賑やかだと思いますけど」
「もっと、葉月くんの声が聞こえなくなるくらい、たくさんの音で溢れてるかと思った」
「海は広いですからね。そういう意味では、もしかしたら僕の声がちっぽけに感じるかもしれません」
「そうね。静かな場所なのに、ちゃんと耳を澄まさなきゃ聞き逃しそう」
「でも僕はどんな騒がしい場所でも、世利さんの言葉は聞き逃しませんよ」
「ふふっ、今のはちょっと、うるさいわよ」
「すいません。海って距離感狂いますよね」
「……距離感ね。たしかに、本当はそんなに近くないのに、近いように感じてしまうわ」
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味よ。君が言ったんじゃない」
人気は多いのに、どこか広々とした印象を抱かせる砂浜で、立ち止まる気配のない世利さんの足跡を犬のように追いかける。
小さなさざ波が、砂を濡らして白い泡を立てていく。
日差しは強いのに、不思議と火照りは感じない。
「この向こう側には、べつの大陸があるわ」
「そうですね。太平洋ですし。アメリカ大陸がありますね」
「不思議な感じよね。見えないほど遠いのに、たしかに繋がってる」
世利さんは珍しくぼうっとした虚ろ気な表情で、おもむろにローファーと靴下を脱ぎ出す。
その辺りで水着姿で横になっているお姉さんたちよりよっぽど、目に毒な白皙の美脚が砂浜に放り出され、どこか不安になる足取りで波打ち際へと世利さんは進んでいく。
「ねえ、葉月くん。もし、わたしがこのまま海の向こう側に行こうとしたら、どうする?」
ざあざあ、とゆっくりとした間隔で聞こえてくる波の音。
爪先に水がかかる程度まで海に近づいた世利さんは、風に黒くて艶やかな髪を揺らして、僕に問い掛ける。
「そりゃ、さすがに止めますよ。世利さんは、ペンギンじゃないですから」
「……ふふっ、懐かしいわね、ペンギン」
さゆりは世利さんに借りがあるらしいけれど、それは僕も一緒だ。
もし、あの時、世利さんに背中を押して貰えなかったら。
あの日のことは、あまりに情けなさ過ぎて思い出すだけで恥ずかしいけれど、きっと僕とさゆりはすれ違ってしまっていただろう。
そういう意味では、僕にとって世利さんは人生の恩人だ。
僕の人生に、さゆりがいないなんて、ありえない。
僕が僕の人生を歩めているのは、この偉大で綺麗で最高にかっこいい先輩のおかげなのだ。
「じゃあ、もしわたしが、ペンギンになりたいって、言ったらどうする? 無理だって言って、君は止める?」
「え?」
そんな風に、優しくて強い世利さんへの感謝の思いを改めて感じていた僕に、どうしてか世利さんは追い打ちをかけてくる。
もし、世利さんがペンギンになりたいって言ったら、どうするか。
それは、あまりに唐突で、奇妙で、難しい問題だった。
迷わず止めることは、できない。
世利さんがペンギンになりたいと本気で思うなら、どうしてかなれる気がしたから。
「……世利さんが本気なら、止めません」
「そう。じゃあ、一緒に泳いでって葉月くんに頼んだら?」
「僕が、世利さんと一緒にですか?」
「そうよ。わたしと一緒に、太平洋の向こう側まで、泳いで欲しい」
世利さんなら、太平洋を泳ぎ切るくらい、わけないと思えた。
でも、僕は違う。
きっと、世利さんだったら、僕すら導いてくれる気もする。
だけど、僕は世利さんについていくことはできない。
なぜなら、僕には、さゆりがいるから。
さゆりを置いては、いけない。
「すいません、僕までペンギンになっちゃうと、さゆりが寂しがるので」
僕は、当然のように、それはできないと世利さんに伝える。
この愉快な過程の話に、僕は楽し気なオチをつけたつもりでいた。
だから僕は、理解することができなかったんだ。
知らない間に、くるぶしの辺りまで海に浸らせた世利さんの表情に、変化が生まれていることに、僕は遅れて気づく。
「じゃあ、やっぱり、お別れね」
「お別れ? なにがですか?」
吹き抜けていく潮風の勢いが、少し増す。
海の向こう側から、晴天を覆い隠すように、薄暗い雲が迫ってくるのが、視界の端に映る。
「……違うの、葉月くん。わたしがやめるのは、演劇部じゃない。わたしがやめるのは、高校そのものなの。だから、お別れ。さようならよ、葉月くん」
そう言って真っ青な瞳を赤くする世利さんが、泣いてることに気づいて、やっと思い出す。
晴れのち雨。
今日の天気予報は、そういえばあまりいいものじゃなかったことを、僕は海風が冷め始めてやっと思い出したのだった。