三 幼馴染が部活で活躍しているらしいので僕は、
今日は七時限まで授業があって、僕はもうくたくたになっていた。
待ちに待った放課後。
今週の当番である面倒な教室掃除を終えれば、帰宅部である僕はもうまっすぐに帰るだけ。
高校に入る前の中学校時代とかは、帰り道はよくさゆりと一緒に帰っていた。
さゆりは僕とは違って美術部に所属していたので、毎日一緒に帰るようなことはもちろんできなかったけれど、比較的美術部は自由に時間を使える部活動だったので、それでも一緒に帰らない日よりは、一緒に帰れる日の方が多かったものだ。
でも、そんな穏やかで幸福だった日々は、今やもう過去のことだ。
高校に入ってからさゆりは、それなりに忙しいソフトテニス部に所属し始めたので、直帰すること以外まるで課された役目のない帰宅部の僕とは、下校のタイミングが全く合わなくなってしまった。
昨日観たドラマの事とか、今日の授業の事とか、アリクイが一日に三万匹の蟻を食べるなんていうどうでもいい話まで、僕とさゆりは二人並んでくだらない事を喋りながらいつも二人で家に帰っていた。
あの頃は、そんななんてことない時間が、これほど大切で貴重なものだとは気づけなかった。
人は失って初めて、その価値を知るなんて名言も、僕に教えてくれたのはさゆりだった気がする。
僕はT字ボウキを支柱の棒に先っちょがシーソーみたいにバコバコ当たるようにしながら、集めたホコリを落とす。
少し悪くなった空気を清浄させようと、僕は教室の窓を開ける。
するとこれまではあまり耳に入って来なかった、グラウンドから響き渡る運動部の威勢の良い掛け声が聴こえてきた。
そのまま窓からちょっと顔を出すようにして、輝かしい青春に勤しむ同級生や先輩たちへ視線を配る。
初夏の少し湿った心地の良い風に吹かれながら目を凝らしてみると、僕はその中に軽やかにマッシュルームみたいに真っ白なボールを打つウインドブレーカー姿の美少女を発見する。
まるでクラシックバレエを踊るような流麗な動きでラケットを奮う、その妖精や天使の類が遊戯しているようにしか見えない美少女は、間違いなく僕の幼馴染だった。
「なんだよ佐藤。また白鳥さんのこと見てるのか?」
「またってなんだよまたって。今日はまだ三回目だよ」
「いやちゃんとカウントすな。しかも三回目ってわりとまだに属さないだろ」
すると僕と同じ様に、見慣れた教室の清掃作業に飽き出したらしい井浦がひょっこりと横に顔を出す。
井浦は僕とは違って帰宅部ではなく、意外なことにもちゃんとした運動部の水泳部に入っている。
ただ僕の高校はまだプール開きをしていなくて、水泳部としてはオフシーズンになるので、案外井浦は暇そうにしていることが多い。
「そういえば白鳥さんってソフトテニス部だったな。こう見ると、結構上手い方っぽいな。さすが白鳥さん。何をやらせても美少女だ。中学もソフトテニス部だったのかな」
「いや、さゆ――じゃなくて、白鳥さんがソフトテニスを始めたのは高校入ってからだよ」
「へー、そうなのか。高校に入ってからであれだけできれば凄いよな。白鳥さん。知れば知るほど美少女だ」
「だね。まさに僕なんかとは身分違いって感じだ」
「でも佐藤」
「ん? なに?」
「お前、なんで白鳥さんがソフトテニス始めたのが高校からだって知ってんだ?」
「はっ!? そ、そそそそ、それはだね、ほら、あれだよ、友達とそういう話をしてるのを、聞いたことがあって……みたいな?」
「盗み聞きか。本来ならこの変態白鳥フリークと罵ってやりたいところだが、学校中で白鳥さんが喋っている空間の周囲では、男子が皆不自然なまでに無口になって、やたらと耳を澄ましている状況になるという怪奇現象が頻繁に起こっているらしいし、責めないでおこう」
危ない危ない。
うっかり僕とさゆりが幼馴染であることがバレるところだった。
さゆりが学校中で頻繁に、周りの男子から会話の盗み聞きをされるアイドルでよかった。
……いやちょっと待てよ。
本当にそれでよかったといえるのか?
僕は若干の嫉妬というか、独占欲に似た感情が湧き上がるのを感じ、なんとも言えないむず痒い気分になった。
「あー、いいなあ。俺も白鳥さんとソフトテニスしたいなあ。白鳥さんのサーブをレシーブしたい」
「どんな欲求だよそれは。サーブレシーブより、ラリーの方がよくない?」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ佐藤。ラリーはいくらなんでも業が深すぎるだろ」
知らない間に僕の幼馴染は、テニスでラリーをするだけで相手に業を背負わせる存在になってしまったみたいだ。
たださゆりならすぐに救いをくれそうなので、あまり心配する気にはならなかった。
「でも本当にさゆ――白鳥さんは凄いな。僕、ラケットスポーツみたいな道具を使う競技苦手だからさ。憧れるよ」
「ラケットスポーツ苦手なのか? 意外だな。地味に佐藤って運動神経いいのに」
「身体を動かすだけならいいんだけどね。たぶん、不器用なんだと思う」
「不器用か。たしかに佐藤ってそんな感じするな。単純なことは誰よりも効率よくできるのに、ちょっと手間のかかることに対しては、てんで見当違いの間違ったやり方にいきそう」
「褒めて、ないよね?」
僕はシンプルに走ることとか、あとはバスケとかサッカー辺りはわりと上手にこなせるけれど、テニスや卓球、あとは野球みたいな道具を使うスポーツがあまり得意ではなかった。
あれ、なんだろ。
こんな会話、昔、さゆりともしたことがある気がするな。
とん、とん、とサーブの準備動作すら絵になるさゆりを遠くに眺めながら、僕は綺麗だな、なんてありふれた感想を抱く。
このままソフトテニスを楽しむ最愛の幼馴染を眺め続けたいところだったけれど、いつまでも見ていたらさゆりにそのうち気づかれて困らせてしまうかもしれない。
「おーすげ。めっちゃかっこいいサーブ白鳥さん決めたぞ。マジかっこ可愛い」
僕は視線を逸らして、足下に集めたままのホコリをチリトリにとる。
どうやら僕の幼馴染がまた、活躍したらしい。
さゆりが凛とした動作でラケットを振っている間、僕は中腰になって灰埃を箒で掃いている。
なんだか妙な格差みたいなものを感じてしまい、ちょっとだけ寂しくなるのだった。
――――――
やばい。葉月が部活動中の私を見てる。照れる。けど嬉しい。
とっくに暗記済みの葉月のクラスから、私の大好きな幼馴染が顔を出してこっちを見始めたことにはすぐに気づいた。
私がソフトテニス部に入ったのは、もちろん葉月に影響されたものだ。
昔、いつかの時に、葉月とスポーツの話をしたことがある。
基本的に運動神経が良く、わりとなんでも上手くこなせる葉月だけど、実は意外にも苦手な種目があると言っていた。
それはテニスとか道具を使う種類のスポーツだという。
ぽわぽわとしている見た目通り、わりと葉月は手先が不器用なところがある。
もっとも、そこも可愛いんだけど。
まあそんな葉月の可愛さはいいとして、とにかく私は思ったのだ。
葉月が苦手なことは、私が得意になればいいと。
人生のパートナーというのは、支え合うものだ。
お互いの苦手分野を、それぞれが補い合う。
そんなニコイチみたいな関係性は、素敵だなって私は思っている。
だから葉月があんまり得意ではないラケットスポーツを、高校からは徹底的に練習していこうと思ったわけなの。
私がソフトテニス部に入ったのは、私が葉月にとって意味のある、ただ養われるだけじゃない、一緒に支え合っていけるパートナーとして素質を証明するためだった。
「ひぃっ!? 球はやすぎ……今日、さゆりちゃんめっちゃ調子良いね?」
「ふふふっ! ありがとうございます! 今日の私は、ニンジンを超えてズッキーニをぶら下げられた馬よりも全身全霊全力です!」
「ニンジンとかズッキーニはよくわかんないけど、とにかくすごい気合入ってるね……」
葉月に見られているせいか、いつも以上に身体が軽やかで、調子が良い。
元々そんなに運動が得意な方じゃないから、自主練習を他人よりやってもまだまだ拙いところのある私だけれど、今日は打った球が全部自分の思い通りのコースにとんでいく感じだ。
まさに、無敵。
幼馴染の加護は私にとって、下手なドーピングよりよっぽど抜群の効果を与えていた。
ほら! 見て見て! 葉月! 私、こんなにソフトテニス上手になったんだよ!
私は神経を集中させて、サーブの準備動作を整える。
すぐにふわりと球を放り上げ、迷わず振り抜く。
完璧なコースに入った一球は、練習相手をしてくれているソフトテニス部の先輩がまったく動けない、これ以上ないものだった。
どうよ! 葉月! 私を見直した!? というかもうあれじゃない!? 惚れちゃったんじゃない!? もう惚れたでしょこれ! やばい! さすがにそろそろ告られるちゃうんじゃないの!?
私は緩みまくる口角を必死で締め直しながら、ちらりと葉月のいる教室の方を見て見る。
しかし、視界に入ったのはよく葉月と喋っている髪色が明るい癖毛の少年だけで、肝心の私の幼馴染の姿はない。
「うわーん! なんでよー!」
「えぇっ!? どうしてさゆりちゃんの方が泣きだすの!? ソフトテニス始めたばっかりのはずの後輩にボコボコにされてる先輩のうちの方が泣きたいんだけど!?」
どんなにテニスが上手くなっても、葉月が見てくれないなら、意味ないのに。
久し振りに葉月と一緒に帰りながら、アリクイが一日に三万匹の蟻を食べるみたいなどうでもいい話をしたいなあ、なんてことを思いながら、私は深い溜め息を吐くことしかできなかった。