先輩が乗り過ごしたいと言い出すので僕は、
じりりりと、騒がしく蝉が鳴く関東の昼下がり。
身軽にサンダルを履いた人々が行き交うロータリーには、少し暑苦しさを感じさせる黒光りのタクシーが幾つも止まっている。
僕は見知らぬ街の改札を抜けて、額に汗を滲ませていた。
「ここ、どこですか? 海、あるんですか?」
「さあ、わたしも初めて来たからよく知らないわ。でもここも一応湘南でしょ? なら海くらいあるんじゃない? 終点だったけれど」
眩い日差しから逃げるように、世利さんは手で目元を覆うようにしている。
本当は鎌倉で降りる予定だったのに、僕らはその先の終点までやってきていた。
世利さんがいきなり、乗り過ごしたいと言い出したからだ。
「でもどうして乗り過ごしたくなっちゃったんですか? 仏像アレルギーですか?」
「なにその不信心なアレルギーは。遠回しにわたしのことを、不吉な存在だって言ってる?」
「まさか。それは深読みし過ぎですよ。むしろ世利さんの御利益のありそう感は、釈迦といい勝負です」
「天上天下唯我独尊?」
「はい。だいたいそんな感じです」
「いま、適当に流したでしょ。ひどい後輩ね、君は」
「きれいな先輩と足して二で割って、ちょうどいいくらいですね」
「ちょっと、勝手に足さないでよ」
からからと笑う世利さんは、まさに太陽の街の民といった雰囲気だった。
とりあえずと、僕は軽くスマホを弄って、海がどこにあるのかを探る。
地元ではあまり聞かないけたたましい音が断続的に聞こえてきて、何かと思ってちょっと目を上げると、どうやらそれは信号機の音らしかった。
「あ、世利さん。海、ちゃんと近くにあるみたいですよ」
「そうでないと困るわ。乗り過ごしたかいがない」
普通は、乗り過ごすことにかいを求めないと思うのだけれど、世利さんならそんな無茶な要求しても許される気がした。
「でもその前に、ちょっとお腹空いたわね。なにか食べない?」
「いいですね。お昼ご飯にしましょう」
「なにがいいかしら。こっちの方に有名な食べ物とかあった?」
「うーん、鳩サブレ―とかですか?」
「本気で言ってる?」
「食事に関してだけやたら厳しいですね。すいません。なかったことにしてください」
「まったく困った後輩を持つと苦労するわ。……それじゃあ、プリンとかどう? この辺に有名なプリン屋さんがあったと思うんだけど」
「世利さん、それ真剣に言ってます?」
「当たり前じゃない? なにか問題ある?」
「……ごめんなさい。なにも問題はありません。降参です」
「うふふ。冗談よ。歩きながら、考えましょ。海に着くまでに何かしら見つかるでしょ」
「ほんと、世利さんには敵いませんね」
「言ったでしょ。わたしは天上天下唯我独尊なのよ」
「たぶんですけどそれ、言葉の使い方間違ってますよ」
日傘も持たずに、世利さんは照りつける日の下を歩いていく。
置いていかれないように、僕も少し熱で動作処理にもたつきが生まれ始めてきた足を、必死で動かす。
柔らかな風にはまだ潮の匂いは乗っていなくて、生臭い魚の香りが微かにするだけ。たぶん横断歩道の向こう側にある魚屋からのものだろう。
「道はこっちであってる?」
「はい。あってます。この商店街? みたいなところを抜けていくと、海にいけるみたいです」
「楽しみね。なんだかわくわくしてきた」
「サーフボードの一枚や二枚、持って来ればよかったな」
「え? 葉月くん、サーフィンできるの?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ? わりと一年中やりますよ」
「うそ。それほんと!? すごい!」
世利さんの元々大きな青い瞳がさらに真ん丸になって、尊敬の光を宿す。
僕は意地の悪い笑みを自覚しながら、スマホを片手にすいすいと指を泳がせた。
「……葉月くん、最低。本気でちょっとかっこいいなと思ったのに。わたしの純な乙女心を弄んだわね。ネットサーフィンならわたしだって得意よ」
「世利さんに一瞬でもかっこいいと思って貰えたなら、本望です。生涯に一片の悔いなしですね」
夏の熱波は可憐な乙女の緊張をほぐすのか、いつもより少しだけからかいやすい世利さんは、拗ねたような目つきで僕を睨む。
僕は人生で波という波に乗らずに過ごしてきたことで定評があった。
「そんな葉月くんは、こうしてやる」
「え?」
すると、ふいに世利さんが悪戯な笑みを浮かべると、僕の方に一歩分近づく。
ふわりと香る、潮とは違う、柔らかな甘い香り。
油断していた僕は、なにもできずに立ち尽くし、世利さんのピアニストのように細くて白皙の指先に捕まる。
「えいっ」
つん、と鍵盤を叩くような繊細なタッチで、僕の頬がつつかれる。
頬肌に残るのは、夏とは違う熱。
「お仕置き。反省した?」
これはたぶん、お仕置きになってない。
と思ったけれど、僕は小さくすいませんと頭を下げるだけ。
痒くもないのに、頬をぽりぽりと掻く。
潮風はいまだ僕らに届かず、太陽は空高く昇っていくばかりだった。




