納話 恋人が初心に気づかないので私は、
FM802というラジオ局で拙作が朗読されることになりました!詳しくは私の活動報告の方に乗せてあるので興味のある方はぜひ!
花火大会が終わった帰り道、他の皆と別れた僕は、さゆりと二人で一緒に帰路に着いていた。
花火の後ということもあって、この時間帯にしては混んでいる電車。
途切れ途切れに他愛もない話をしながら、僕らは見慣れた景色に視線を泳がす。
それほど揺られる時間は長くなく、ほどなく僕ら最寄り駅に辿り着く。
乗車率の高い電車から僕らの駅で降りる人はあまり多くなく、寂れたホームは都内とは思えないほど閑散としていた。
「花火、楽しかったね。また、来年も観ようね、葉月」
「もう来年の話なの? 今年もまだ花火あるよ?」
「え? あ、たしかに。あと一回くらい観てもいいかも」
「そうだよ。今度は二人でさ、観に行こうよ」
「……うん。そうだね」
少し恥ずかしそうに笑うさゆりは、昔と変わらず可憐だった。
いや、昔と変わらずという言葉は、厳密にいえば違う。
昔より、もっと可愛くなった。
紺色の浴衣。
大人びた薄化粧。
乙女っぽさを感じさせる編み込みを織り交ぜた髪型。
僕の幼馴染は、恋人は、どんどん魅力的になっている。
「どうしたの葉月? なんか変な顔してるよ?」
「ごめん。ちょっと見惚れてた」
「なにそれ。見慣れた顔でしょ。なにを今更」
「いや見てたつもりで、よく見てなかったんだなって」
「……馬鹿なこと言ってないで、ほら行くよ」
一歩と半分ほど前を歩くさゆりに付いて行くようにして、僕は前に歩きだす。
改札機の甲高い電子音が響き渡る構内を抜けて、しんとした温い夜に浸かる。
かろうじて明るさを保っている駅前から離れて五分ほど歩けば、もうそこは自動販売機がぴしぴしと肩を鳴らす音くらいしか聞こえない住宅地になった。
「いま葉月、なに考えてるの?」
「さゆりの可愛さについて」
「嘘つき。そういうのもういいから」
「本当だよ。半分くらいは」
「当ててあげよっか」
「できるの?」
「当たり前じゃん。私を誰だと思ってるの」
「可愛い幼馴染」
「半分くらい正解」
「え? もう半分はなに?」
「……彼女でしょ。言わせんな」
少し拗ねたような目つきをして、さゆりは僕の肩に軽く頭突きする。
幼馴染で、恋人。
僕はどうしても考えてしまう。
僕らと同じ境遇だった、蕪木さんと風間くんのことを。
返す言葉を思いつけない僕を、見透かすようにして、さゆりは頼りない街灯を見上げた。
「葉月、優ちゃんと風間くんのこと、考えてたでしょ」
「……どうして、そんなに僕の心が簡単に読めるのに、両想いだって長い間気づかなかったの?」
「う、うるさいな! それとこれはべつなの!」
頬を僅かに朱色に染めるさゆりは、キッと僕を睨みつける。
僕はさゆりが何を考えているのかあんまり分かっていないのに、どうして彼女は僕の考えていることをいとも簡単に言い当ててしまうのだろう。
男女差かな。それとも個人の能力の差かな。
なんとなく後者な気がした。
「……ずっと考えてるんだ。僕と蕪木さん達の、何が違うんだろうって」
「でも二人は今日、仲直りしたみたいだったじゃない」
「それは幼馴染というか、友人としてでしょ? そうじゃなくてさ、ほら」
「恋人として、どうして続かなかったのか、ってこと?」
「まあ、そういうことだね」
蕪木さんが寄りを戻そうとして、諦めたことまでは知らなくても、あの二人がまた恋人同士として戻る気配がないことには、さゆりも気づいているはず。
もしかしたら、僕らもいつか。
馬鹿な考えだって、わかっているのに。
さゆりは僕のことを追いかけてくると言ってくれたけれど、それは本当に彼女が望んでいることなのだろうか。
さゆりだって、たしかに走れる。
でも、走るのが得意なわけじゃない。
僕が信じ切れていないのは、さゆりのことなのか、僕自身のことなのか、それすらも曖昧になってしまった。
「……葉月はさ、私に告白してくれた時の事、覚えてる?」
「え? まあ、そりゃ一応。そんなに前のことでもないし」
「じゃあ、あの時、なんて言ってくれた?」
「好きです?」
「それもだけど、もっと沢山言ってくれたじゃん」
「そんな一言一句は覚えてないよ」
「葉月が覚えてなくても、私は覚えてるよ」
「ほんとに?」
「うん。ほんと。だって、あの時ほど、嬉しかったこと、ないもん」
かた、かた、とさゆりの下駄の音だけが宵街に響く。
筋の通った鼻と、長い睫毛。
涼し気に整った横顔を見つめながら、さゆりの女子にしてはちょっと低めな僕の好きな声に耳を澄ます。
「幼馴染だから私とずっと一緒にいたんじゃない。好きだから、一緒にいたかった。一緒にいたから、幼馴染になった。幼馴染でいることより、私のことが好きな気持ちの方が先だし、大事だって、気づいた、そう葉月は言ってくれた」
僕がさゆりに告白した日。
ほんの二ヵ月くらい前のことなのに、どうしてか今は遠い昔のことに思える。
おぼろげな記憶だけれど、大切な記憶。
あの日から僕は、さゆりの幼馴染だけじゃなくて、恋人になった。
「葉月がそう言ってくれた時、私も同じ気持ちだって思った。幼馴染だから、一緒にいたんじゃない。私も、葉月と一緒にいたかったから、自然と幼馴染になった。好きだから、一緒にいたい。その気持ちの方が先だし、大事なんだって」
前に僕が言われた言葉を、さゆりは自分の声で繰り返す。
何となく気恥ずかしくなった僕は、痒くもない頬をぽりぽりと掻く。
「葉月はさ、どうして私たちと優ちゃんたちが同じだと思うの?」
「え? だって、そりゃ、あの二人も幼馴染で、そして恋人になったから」
「……やっぱり」
「やっぱり? なにが?」
「そこだよ、葉月。そこが間違ってる。前提が間違ってるよ。自分で言ってたくせに」
「ごめん。どういうこと?」
もう、困ったな、葉月は私がいないと駄目なんだから、と嬉しそうにはにかむさゆり。
柔らかな風が黒髪を揺らし、甘い石鹸に似た香りが匂い立つ。
「幼馴染だからとか、関係ないよ。優ちゃんと風間くんは、優ちゃんと風間くんだし、私と葉月は私と葉月だよ。葉月が言ったんだよ。好きだから、一緒にいたくて、だから幼馴染になった。幼馴染になるより、好きになった気持ちの方が先だって。だから同じじゃない。私たちの好きは、私たちだけのものだもん」
あぁ、そうか。
そうだったのか。
そう言って上目遣いで僕を見るさゆりの瞳を見つめ返しながら、やっと僕は自分の間違いに気づく。
初心忘れるべからず。
僕は一番最初の想いを忘れていた。
僕はどうしてか、蕪木さんに、僕のことを重ねてしまっていた。
でも、それが間違っていたんだ。
風間くんがさゆりではないように、僕は蕪木さんじゃない。
僕は僕で、さゆりはさゆりだ。
幼馴染同士だから、なんだっていうんだ。
そんなものは、共通点でも、なんでもない。
「僕って、本当にお馬鹿さんだな」
「うふふっ、今更自覚したの?」
「さゆりがいないと、こんな簡単なことにも気づけない」
「ま、まあ、でも、私にそれを教えてくれたのは、葉月だから。そんな落ち込まないでよ」
優しいさゆりは、僕が卑下し過ぎないように、慰めてくれる。
強気に見せかけて、奥ゆかしい。
芯があるようで、気遣い屋さん。
さゆりの性格は、たしかに風間くんが言っていたように、走るには不向きなものかもしれない。
下駄なんて履いてたら、いつか走り疲れてしまうかもしれない。
でも、僕とさゆりは、僕とさゆりだ。
必ずしも、二人並んで走る必要なんてない。
僕らには、僕らの走り方がある。
「……ねえ、さゆり。そろそろ足、疲れたでしょ」
「なに急に。そりゃまあ、今日はけっこう歩いたから」
「いいことしてあげよっか」
「……なんか怖いからいい」
「まあまあ、お嬢さん。そう言わずに」
「なにその喋り方。ちょっときもいよ。というかだからなんなの――ってきゃっ!?」
隙だらけのさゆりの後ろに回り込んだ僕は、勢いよく彼女のことを抱きかかえる。
見た目通り華奢なさゆりは、いとも簡単に持ち上がる。
俗にいうお姫様だっこの体勢を取った僕は、そのまま幼い頃から歩き慣れた道を走り出す。
「あははっ! 暑が夏いねっ!」
「ちょっ! ちょっと葉月!? なにしてんの!? 下ろして! は、恥ずかしいから下ろしてってばっ!」
「花火の音がうるさくて聞こえなーい!」
「そんなわけあるかっ! もうとっくのとうに花火終わってるからっ!」
林檎みたいに顔を真っ赤にしたさゆりを抱えながら、僕は夏の夜を駆ける。
そんなに速度は出ないけれど、二人一緒に風を切る感覚は、これ以上ないってくらいに爽快なものだった。
僕に追いつけなくなって、背中を見失うようなことがないように、さゆりのことを抱き締めて走ろう。
もし僕がさゆりを追いかけている途中で見失いそうになったら、後ろから抱き付いて離さず、そのまま抱きかかえて走ろう。
街を歩く人たちが、僕らに抜かれるたびに、愚かな若者を見る慈しみの眼差しを送る。
だけど、きっとそれでいい。
愚かすぎても、賢すぎても、たぶんだめなんだ。
僕とさゆり、二人で足して二で割るくらいで、ちょうどいい。
「僕こと、佐藤葉月は! 恋人の白鳥さゆりさんのことが! 大好きでーす!」
「……声でかい。恥ずかしい。ばか。もう。そんなこと知ってるし」
息が切れ始めるけれど、不思議と苦しくない。
僕の胸元には、恋人がいる。
夏の夜は短い。
僕らの家まで、あともう少しある。
――――
なんだか私の恋人になってから、葉月がどんどん馬鹿になってる気がする。
花火大会の帰り道。
また何かを悩んでいる様子だった私の彼氏は、今は打って変わって晴れやかな表情で大笑いをしている。
「あははっ! 暑が夏いねっ!」
「ちょっ! ちょっと葉月!? なにしてんの!? 下ろして! は、恥ずかしいから下ろしてってばっ!」
わけのわからないことを言いながら、なぜか葉月は私のことをお姫様抱っこして夜道を走っている。
許可なく女の子を持ち上げるとか、本当に葉月はお馬鹿さんだ。
でもきっと、こんな葉月だから、私は惚れたんだ。
無邪気で、そのくせ思慮深いところがあって、一度走り出したら止まらない。
そんな彼が憧れで、同時に心配で、そして愛おしかった。
「花火の音がうるさくて聞こえなーい!」
「そんなわけあるかっ! もうとっくのとうに花火終わってるからっ!」
額に汗を滲ませて、息を切らしながらも、葉月は走り続ける。
葉月がただの幼馴染から、私の恋人に変わってから、本当はずっと不安だった。
ちゃんと葉月の彼女に相応しい女の子になれてるかなとか。
ただの幼馴染じゃなくて、恋人として振る舞えてるかなとか。
この先、葉月が他の女の子に目移りしたらどうしようとか。
色々、本当は不安で、悩んでいた。
だけど、中々、私はそれを葉月に言えなかった。
葉月には何でも相談してって言っておいて、私自身は自分の中に悩みを抱え込んで、何にも気にしてない振りをし続けていた。
きっと葉月はそれに気づいてないし、気づかれないようにしてきた。
蕪木優ちゃんと知り合いになったこととか、花火に連れてきていいかって訊いてきた時は、実は内心びくびくだったけど、この程度でうろたえちゃダメだと思って、全然気にしてない振りをした。
私は葉月の彼女なんだって、自信をもって言えるように、振る舞ってきた。
「僕こと、佐藤葉月は! 恋人の白鳥さゆりさんのことが! 大好きでーす!」
それは精一杯の強がり。
私が不安がれば、葉月も不安がる気がしたから。
今日の花火も、正直ほとんど覚えてない。
だって私が見てたのは、葉月の横顔ばかりだったから。
「……声でかい。恥ずかしい。ばか。もう。そんなこと知ってるし」
でも、そんな悩みも、不安も、葉月の胸元に納まりながら、住み慣れた街を駆けていると、全部馬鹿らしくなって、どうでもよくなってくる。
葉月に追いつけるかなとか、走り疲れたらどうしようとか、そんなことはもう考えなくていい気がしていた。
私は葉月が好きで、葉月は私が好き。
信じることは、たったそれだけでいい。
「……葉月、目、閉じて」
「え? いや、いま走ってるから、目を閉じたら危なくない?」
「いいから!」
「あ、はい」
だから、これは私なりの感謝の証明。
足の遅い私は、せめてもと首を伸ばす。
「……葉月、好きだよ」
ちょっとだけ汗っぽい葉月の頬に、そっと唇を重ねる。
夏の夜風は、今の私を冷ますには、少し熱すぎる。
今の私にはこれが精一杯だけど、いつかもっとここから遠くの、葉月の近くに、いけるはず。
「……実は今、目開けてた。やり直し必要じゃない?」
「……ばか。ちゃんと閉じてるの確認したから」
心臓がはち切れそうだけど、不思議と苦しくない。
私の胸元には、恋人がいる。
夏の夜は長い。
私たちの家まで、まだ少しある。