二十 幼馴染も追いかけてくれるので僕は、
道端でじっとしていたアブラゼミが、突然やかましい音を立てて飛んでくることにも慣れ始めた八月上旬。
僕は幼馴染で恋人のさゆりと一緒に、最寄りから二駅ほど離れた街の喫茶店にやってきていた。
レトロ調の店内は落ち着いた雰囲気で、英詞のフォークソングがゆるやかに流れている。
「ふー、涼しい。ちょっと外出ただけでも汗だくになっちゃった。ほんと夏って感じ」
「だね。夏だね」
「なにそれ。なんか葉月テンション低くない? 夏バテ?」
「え? そんなことないよ。僕は夏生まれだからむしろ夏に強いし」
「八月生まれだから葉月。ふふっ。葉月の名前つけたのお父さんだっけ? 面白いよね」
「そうかな。僕はそこまで面白いと思わないけど」
几帳面に青のハンカチで首元の汗を拭くさゆりは、今年の誕生日は何をして欲しいなんて訊いてくる。
僕はそれに、任せるよ、なんて気のない返事をしてしまう。
「やっぱり葉月今日、若干ノリ悪いね。どうしたの?」
「だからそんなことないって。昨日夜更かししちゃったから、たぶんそのせいだよ。それよりなんか、今日さゆり髪型がいつもと違うね」
「お、さすが幼馴染。よく気づいたじゃん。これはね、ハーフアップっていって、耳から上の部分の髪だけアレンジしてあるんだー。どう?」
「どうってなにが?」
「は? 彼氏的にあるでしょ。言うべきことが」
「はいはい、可愛い可愛い」
「うっわ、雑すぎ。これだから葉月は。私みたいに心の広い女の子が彼女でよかったね」
一度話題を変えてから、僕は逃げるようにメニュー表へ視線を落とす。
さすが幼馴染という台詞は、まさに本当は僕の方がさゆりに言うべき台詞だ。
すでに見抜かれてしまっているように、僕は少しいつもと同じ様な感覚ではなくなってしまっていた。
それは、一週間ほど前に、僕の右足首の恩人である蕪木さんに言われた言葉が理由。
『もし、憧れの幼馴染と付き合えて、それでおしまいハッピーエンド。ゴールだと思ってるなら、大間違いですよ。大変なのは、その後です。幸せは一瞬で通り過ぎていく。繋ぐ前より、繋いだ後の方が壊れやすい』
小さな棘が心に刺さったようなむず痒い痛み。
僕が最近寝不足気味なのは、夜になるとさゆりに振られたらどうしようという考えがよぎって眠れないからだった。
「……なに。僕のことじっと見て。僕の顔に何かついてる?」
「べつにぃ? 注文は決まった?」
「いや、まだだけど」
「そんなじっくりメニュー表見ておいて、まだ注文も決めてないなんて。葉月、いま何考えてたの?」
「そりゃ、何を飲もうかに決まってるじゃん」
「ふーん?」
「なに」
「べつにぃ?」
早くも本日二度目の、べつにぃ、がさゆりから出てしまった。
怖ろしいほどに鋭い。
僕はさゆりが普段なにを考えているかなんて、全然わからないのに、どうして僕の心内はこんなに簡単に看破されてしまうのだろう。
美少女特有のアビリティだろうか。美少女ってすごい。
「僕はふつうにコーヒーにするよ。さゆりは?」
「私はね、ロイヤルミルクティー」
「好きだね。ロイヤルミルクティー」
「いいでしょ。女の子は甘い物が好きって決まってるんだから」
「なら注文しておくよ」
「うん。ありがと」
僕は静かに手をあげて、店員さんを呼ぶ。
注文を済ませると、僕はまた無意味にメニュー表を眺め出す。
なんとなく、今は真っ直ぐにさゆりの顔を見ることを避けてしまっていた。
「ねえ、葉月」
「……うん? なに?」
「もしかして、怒ってるの?」
「なにが? なんか僕を怒らせるようなことさゆりしたの?」
「この前。来るなって言ったから」
「この前? ごめん、何の話か全然わかんない」
「ほら、この前、ソフトテニス部の練習試合、観に来るなって言ったでしょ? あれで、怒ってるのかなって。葉月、本当に来なかったし」
「あー……まさか。そんなことで僕は怒ったりしないよ。というか、僕がさゆりに怒ることってあるのかな。人類が火星に移住するくらいの確率だと思うよ」
「すごい未来に、もしかしたらってくらい?」
「そうそう、そのくらい」
「なら、いいけどさ。でも、その日くらいからじゃない? なんか葉月ちょっと変なの」
「僕って今、ちょっと変なの?」
「うん。ちょっと変」
僕の幼馴染はもはや鋭いを超えてエスパーだった。
蕪木さんに忠告を受けた日。
結局、僕はさゆりの練習試合を観に行くことをやめた。
それは少し、怖くなったからだ。
いま僕が持っている幸せを、失ってしまうことが怖くなったから。
「ちょっと変な僕は、あんまり好きじゃない?」
「ううん。好きだけど。なんというか、心配って感じ」
「……そっか」
「うん」
コーヒーとロイヤルミルクティーが運ばれてくる。
香ばしい匂いを一度嗅ぐと、僕はシュガースティックを二本と付属のミルクを全てコーヒーに注ぎ込んだ。
さゆりはそんな僕をどこか不安そうな目で見ていて、まだミルクティーに手を付けようとはしない。
「あのさ、もし、何か悩み事があるなら、言って欲しい。私たち、付き合ってるんだからさ」
「……そうだね。さゆりにそんな顔させるのは、振られるよりしんどいもんな」
「なに振られるって。私に振られるようなこと葉月したの?」
「してない、って言ったら信じる?」
「うん。信じるよ。だって葉月の言葉だから」
「……時々さゆりは僕にめちゃくちゃ甘いよね」
「ふふっ、葉月は甘党でしょ? 今もコーヒーに砂糖とミルクどばどばだし」
自分の中で抱え込んでしまっても仕方がないので、僕は正直に最近悩んでいることをさゆりに話してみることにする。
幼馴染でずっと一緒にいたのに、両想いだったことに全く気づかなかったくらいだ。
僕たちは、ちゃんと自分の考えていることを互いに言葉にしてちゃんと伝えあう必要がある。
「さゆりはさ、蕪木優って子、知ってる?」
「……え? 知ってるけど、なに? もしかして、浮気? もし浮気だったら、泣くから覚悟して」
「ち、違うって! 浮気なんてするわけないから! だいたいさゆりより魅力的な女子僕知らないし!」
「……はいはい。それで? 蕪木さんがどうしたの?」
泣くと僕を脅しておいて、なぜか嬉しそうに鼻頭赤くしているさゆりは、ニヤついている口元を隠すようにミルクティーにやっと口をつけた。
「実はその蕪木さんに忠告されたんだけど……その前に、なんで蕪木さんのこと知ってるの? 友達?」
「うーん、友達ってわけじゃないんだけどね。ちょっと有名な子だから」
「有名?」
「うん、まあ、ちょっとね。隣りのクラスだし、あと私の友達とも色々あったみたいだから、それで私は知ってる」
「なんか訳ありな感じだね。しかもさゆりがそんな風に言いにくそうにしてるってことは、あんまりいい意味で有名じゃない感じ?」
「そんなこともないよ。すっごい可愛いって評判だし、悪い噂だけじゃないよ」
「悪い噂だけじゃないって。もうそれ悪い噂もあるって言っちゃってるけどね」
「あ」
しまった、というような表情でさゆりは固まる。
どうやら、蕪木さんは何かしらの問題を抱えている系美少女らしい。
さゆりはあまり他人の悪口になるようなことは、事実でも言いたがらないタイプなので、口が重そうだ。
「悪い噂ってほどじゃないの。ただなんか、部活のマネージャーをやめる時、結構派手にやったみたいで」
「部活をやめたってそういえば言ってたな」
「あとは、私の友達の、風間潤くんって子がいるんだけど、その子の元カノでね、別れる時、若干こじれた感じになったらしくて」
「なるほどね。なんとなくわかってきた」
「それで、私、隣りのクラスだから体育とか選択授業が一緒になったりしてわかるんだけど、蕪木さん授業休みがちでね。それのせいかわからないけど、ちょっと周囲から浮いているっていうか、なんかバリア張ってる感じで」
「あー、すごい想像できる。けっこうややこしそうな性格してそうだもんね」
本当は優しい子なのだと、僕にはなんとなく分かっているけれど、人によっては蕪木さんは気難しい人に思われるかもしれない。
おそらく彼女の言っていた幼馴染で恋人だったのが、さゆりの友達の風間くんという人で、失ってしまった居場所というのが部活やクラスのことなのだろう。
「でも、蕪木さんと、どうして葉月は友達なの? というかさっき言ってた忠告ってなに? それがどう葉月の悩みに繋がるわけ?」
「僕も友達ってほどじゃないよ。たまたま、話す機会があって。それでその時、蕪木さんに言われたんだ。好きな人と付き合えても、それがゴールじゃない。大変なのは、その先だって」
「……なるほど。私、わかった。葉月の悩みって、そういうことなのね」
「そういうこと。怖くなったんだよ。もしこの先、さゆりに愛想を尽かされて、振られたらどうしようって」
「そっか。葉月、そんなこと考えてたんだ」
「まあね。僕だって悩むことくらいあるさ」
さゆりは優しく微笑むと、机の上にある僕の手にそっと自分の手を重ねる。
空調の効いた部屋でも、僕の幼馴染で恋人の掌は暖かかった。
「もしさ、この先、私に何かあって、葉月のところからいなくなろうとしたら、その時は、絶対追いかけてきて」
「え? あ、う、うん。そりゃもちろん」
「その代わり、葉月が私のところから、いなくなろうとした時は、私も絶対に追いかけるから」
「さゆりが僕のことを追いかけるの?」
「うん。私だって、走れるんだよ。葉月ほど速くはないかもだけど」
「そうなんだ。さゆりも、そんなこと考えるんだね」
「当たり前じゃん。不安なのは、葉月だけじゃないよ」
僕はずっと、自分が追いかける側だと思っていた。
だから、もしいつかさゆりの背中を見失ってしまったらどうしようと考えていた。
でも、違った。
さゆりも、僕のことを、追いかけると言ってくれる。
僕がさゆりの前からいなくなることなんて、まずありえないと思うけれど、それでもそう言ってくれることが嬉しい。
もし次、蕪木さんに会うことがあったら、僕は胸を張って言おう。
忠告ありがとう。でも、心配ないよ。僕らは大丈夫だって。
僕はさゆりを失わないし、さゆりから僕を失わせたりもしない。
もう片方の手を、さゆりの手の上にさらに重ねて、僕は感謝の言葉を告げる。
「ありがとう、さゆり。君は世界で一番の幼馴染で恋人だよ」
「今頃気づいたの? 私はずっと前から知ってたよ。葉月以上が私にはいないってことくらい」
しばらく見つめ合う僕らは、互いに気恥ずかしくなって視線を逸らす。
照れ隠しにコーヒーを飲もうとすれば、全く同じタイミングでさゆりもミルクティーに口をつけようとしていて、僕らは声を出して笑う。
僕らはまだスタート地点かもしれないけれど、さゆりと一緒なら、どんなに遠くにゴールがあっても辿り着ける気がしていた。