十九 幼馴染が絶対に観に来たらダメというので僕は、
鼓膜を騒がしく揺らす、蝉の鳴き声。
ついに待ちに待った夏季休暇がやってきたというのにも関わらず、僕は学校へやってきて玉粒の汗をかいていた。
でもそれは今の僕にとって、そこまで苦痛ではない。
なぜならこれから僕は、世界で一番可愛らしい幼馴染かつ恋人のテニスウェア姿を見れるからだ。
今日は僕の高校で、ソフトテニス部が練習試合をすることになっていて、当然のように暇を持て余していた僕は、それを見学しにきたというわけだった。
さゆりには恥ずかしいから絶対に観に来たらダメと言われていたけれど、それはもう前フリみたいなものだ。
お約束をきちんと守るタイプの僕は、こうして炎天下の中さゆりの雄姿を目に焼きつけにきた。
グラウンドのすぐ近くにあるテニスコートを目指して、僕は晴天の下を歩く。
時々涼しい風が吹いて、汗を乾かしてくれるが、それもすぐに無駄になる。
こんな暑い中で運動するなんて、さゆりは大丈夫だろうか。
見た目通り軟弱な考えの僕は、さゆりのことが心配になった。
不意にグラウンドの方から、大きな歓声が上がる。
目をやると、見たことのないユニフォームを着た人たちがサッカーゴールの付近で喜びに腕を振り上げていた。
その近くでは、僕の高校のユニフォームを来た選手たちが気まずそうに互いの顔を見やっている。
どうやら、今日練習試合をしているのは、ソフトテニス部だけじゃないらしい。
「……さいあく。サイドバックの上がりすぎで裏のスペースは空いてたし、センターバックが持たされてて、そこからの縦パスが狙われてるのなんて、どっからどう見ても明らかだったのに。潤がなんのために中盤の底まで降りてきたと思ってるのよ。パスの出しどころに困ってるから、貰える位置までカバーしにきてたんじゃない。それなのに、無理なロングボール蹴って、案の定奪われてカウンター。阿呆よ阿呆。ほんとに見ててイライラする……」
グラウンドの外に沿ってテニスコートを目指していると、僕はそこで見覚えのある女子生徒を見つける。
土埃舞う中、声を張り上げるサッカー部を睨みつけるようにして、よくわからない言葉をブツブツと呪詛のように唱えている彼女の肌は、夏には不釣り合いなほどに白い。
ふわっとカールした髪は先が跳ねていて、覗く横顔はさゆりの次の次くらいに均整がとれている。
蕪木優。
僕の右足首の恩人。
数日前に体育で捻挫をした僕を手当てしてくれた、同学年の女子生徒だった。
そういえばまだあの時のお礼をちゃんと言っていない。
僕は隣りまで行くと、軽く手を挙げる。
「やあ、こんにちは。この前はありがとう。おかげさまで飛び跳ねられるくらいまでよくなったよ」
「……は? 誰ですか?」
「え」
しかし、僕の友好的な笑顔に対して、蕪木さんは見るからに警戒心を持った表情で後ずさりする。
忘れてた。
最近はさゆりとずっと一緒にいるせいで、すっかり忘れていたけれど、そういえば僕は影が薄かったんだった。
「あ、あー、あのほら、ちょっと前で、保健室で」
「保健室?」
「ほら、捻挫した僕を、手当してくれたでしょ?」
「保健室? 捻挫? ……あー、思い出しました。そういえば、あたしの優雅なココアタイムを邪魔した不届き者がいましたね」
やっと納得したと言わんばかりに、蕪木さんは小さく口を開けて頭をゆっくりと縦に揺らす。
不審者に遭遇したかのような気配が消えた代わりに、心底嫌そうな顔を彼女はした。
「それで? 何か用ですか? ストーカーなら後日訴えます」
「だから違うって! どんだけ僕をストーカーにしたいんだよ君は」
「ならなんですか? もう捻挫は治ってるみたいですけど」
「お礼を言いそびれてたから、ちゃんとありがとうを言っておきたくて」
「そんなことですか。べつに、あなたのためじゃありません。由美子ちゃんの職務怠慢を隠蔽したかっただけです」
「職務怠慢って、元はと言えば君がココアを買いにいかせたせいでしょ?」
「あたしが来ることがわかっていたのに、ココアをきらせていた由美子ちゃんが悪いんですよ。まあ、それはどうでもいいか。それで? それだけですか?」
「え? まあ、それだけって言えば、それだけだけど。あ、この前、ココアも代わりに貰っちゃったし、お返ししようか?」
「結構です。返すなら由美子ちゃんに返してください」
「言われてみればたしかに。冷静に考えたらそうだな。なんで君にお返ししようと思ってたんだろう。ココアは土居先生が自分のお金で買ったものじゃないか」
「そんな簡単なことに今更気づくなんて、やっぱりあなたは阿呆ですね」
アホ―、アホ―、と謎に鳥のような物真似をして、蕪木さんは歯を見せて笑う。
僕を小馬鹿にする時だけ、よく笑う子だった。
「サッカー、好きなの?」
「……聞いてたんですか。やっぱり訴えないといけないみたいですね。盗聴までしてるなんて。筋金入りのストーカーじゃないですか」
「だから違うよ!? こんな白昼堂々真正面から話しかけるストーカーがどこにいるんだ!」
蕪木さんは僕の抗議の声を完全に無視すると、すっとしゃがんで僕の右足首を軽く触る。
「捻挫は大丈夫みたいですね。おそらく応急処置が適切だったんでしょう。よかったですね。もっと感謝した方がいいですよ。この捻挫の手当てをしてくれた相手に、泣きわめいて土下座くらいはしたらどうです?」
「よし、いいだろう、のった。僕は結構、土下座には自信があるんだ」
「のっ、のらないでください! 本当に泣きわめいて土下座したら訴えますよ! なんですか特技土下座って! 阿呆すぎます!」
「君は隙あらば訴えるね。もしかしてアメリカ帰りだったりする?」
拗ねたようにそっぽを向く蕪木さんは、グラウンドを縦横無尽に走り回るサッカー部の方へまた視線を送る。
その表情はどこか寂し気で、諦観に満ちた瞳が印象的だった。
「もしかして蕪木さんが前言ってた、マネージャーをやめたって話。サッカー部のマネージャーをやってたってこと?」
「……名前、教えましたっけ?」
「先に言っておくけど、ストーカーじゃないよ。土居先生が教えてくれたんだ」
「つまりストーカーということですか。納得しました。訴えますね」
「いやなんのつまり!?」
サッカー部に関わることは、どうしても話したくないのか、先ほどと同じ様に話題を逸らして蕪木さんは黙り込む。
わざわざやめた部活の練習試合を見に来るくらいだ。
何かしらの心残りがあるのは明らかだけれど、それを訊いても、答えてくれる気配はない。
それに実際、僕らはまだ友達とすらいえない関係性だ。
あまり深く詮索するのもよくないだろう。
「……あなたは?」
「え? 僕? 僕は帰宅部」
「違いますよ阿呆ですね。あなたの所属部活なんて訊いてません」
「じゃあなに?」
「名前ですよ。そもそも感謝の言葉の前に、まず名乗るべきじゃないですか?」
「ごめん。忘れてた。そういえば僕は名前も言ってないね」
たしかに、無駄にぺらぺらと喋っているわりに、僕の方は名前も伝えていない。
一方的に蕪木さんの名前を僕の方だけ知っているのも、なんとなく不公平な感じがするので、僕はとくにもったいぶらず名を名乗る。
「僕は佐藤葉月。改めてよろしく、蕪木さん」
「……佐藤葉月?」
しかし、予想外にも、蕪木さんは僕の名前を聞いて訝し気に眉をひそめる。
信じられないようなものを見るように、先ほどまで眠そうに半開きだった目を大きくしていた。
「あなたが、一年八組の佐藤葉月?」
「僕のこと知ってるの? 自分でも言うのもあれだけど、校内知名度ランキングで下からなら五本の指に入るくらいの実力者だと思ってたんだけど」
「……知ってます。名前だけは、有名ですよ。佐藤君は」
「僕が有名?」
名前だけは有名。
そう聞いて僕はどうしてだろうと不思議に思ったが、すぐに心当たりが一つだけあることに気づく。
「白鳥さゆりの幼馴染で恋人の、佐藤葉月。名前だけ有名で、誰も顔を知らない、学年一の美少女の彼氏。都市伝説の類かと思ってましたけど、実在したんですね」
「わお。驚いたな。僕は知らない間に都市伝説になってたのか」
「事実なんですか? 本当にあなたがあの白鳥さんの恋人で幼馴染?」
「まあ、そうだよ。想像とは違った?」
「べつに。わざわざ想像とかしないので。直接白鳥さんと知り合いというわけでもないですし」
なぜ佐藤葉月の名前が知れ渡っているのかと思えば、やはり原因はさゆりだった。
本人は特に僕との関係を隠していないと言っていたので、このような不思議な状態になっているのだろう。
どうもさゆりは自分の影響力というか、校内における立場を微妙に理解していないふしがある。
「一つ、忠告してあげます」
「忠告? ずいぶんとないね、脈絡」
僕の軽口を完全にスルーして、蕪木さんは真剣な眼差しを僕に向ける。
その瞳には、苦悶と同情が浮かんでいて、その理由が僕にはわからなかった。
「もし、憧れの幼馴染と付き合えて、それでおしまいハッピーエンド。ゴールだと思ってるなら、大間違いですよ。大変なのは、その後です。幸せは一瞬で通り過ぎていく。繋ぐ前より、繋いだ後の方が壊れやすい」
太陽の光が眩し過ぎるのか、蕪木さんは目を細めて手で覆いをつくる。
僕を見ているようで、見ていない。
もっと遠く、遥か過去を想うような眼差しで、彼女は言葉を紡ぐ。
「少なくとも、あたしは駄目でした。幼馴染も、恋人も、居場所も、全て失った。……だから忠告します。あたしのようにはならないでください」
――それじゃあ、さようなら。
そう言い残して、夏の陽炎の中に蕪木さんは消えていく。
蝉の声より強く、まだ蕪木さんの言葉が鼓膜にこびりついている。
どうしてか、テニスコートがいつもより遠く感じた。