十八 幼馴染の次の次に可憐で優しいので僕は、
「……痛っ!?」
着地した瞬間、僕はやらかしたと思った。
体育のバレーボールの授業。
大きく浮き上がった絶好のチャンスボール。
ここぞとばかりに飛び上がった僕は、思い切りよく腕を振り抜いてアタックを決めた。
と、決めたところまではよかったのだけれど、問題はその後だった。
もう七月も下旬で、蒸し暑い体育館で身体を動かしていれば、当然のように汗をかく。
バレーボールということもあって、皆の汗が床に飛び散り、ところどころ滑りやすくなっている。
そして僕はまんまと、アタックを決めた後の着地で、足を少し滑らしてしまい、変なところに体重がかかってしまった。
鋭い痛みが一瞬走ったと思ったら、鈍痛が遅れてやってくる。
足首辺りがじんじんとしていて、その痛みは時間が経つにつれ増していく。
「あー、佐藤。お前、それやったな」
「うん。これはやったね」
着地した後、軽く右足を浮かせて中途半端な体勢で固まる僕のところに、井浦が近寄って来て、すぐに事態を察したらしい。
井浦は真剣な表情でしゃがむと、僕の足首にそっと人差し指と中指をあてる。
「痛っ。ちょっと井浦、もう少し優しくしてよ」
「言い方キモイぞ佐藤。でもこれ、腫れてきてんな。さすがに折れてはないと思うけど、最低でも捻挫はしてんぞこれ」
「うわー、やっぱり? やらかした」
「保健室行って来い保健室。学校一の女医とイチャイチャしてこい」
「学校一の女医って……この学校に女医というか保健室の先生そもそも一人しかいないけど。一分の一じゃん。それに僕の三倍の歳の人とイチャイチャって、なかなか上級者向けのラブコメだよそれは」
最初はとくに見た目に変化のなかった僕の右足首が、どんどんと腫れ上がっていっているのがわかった。
これはもうどうしようもない。
僕は井浦の言う通り、保健室に行くことにする。
「はぁ、僕、あんまり保健室好きじゃないんだけどな」
「なんでだよ? シップの匂いがしていい気分になるから、俺は保健室好きだぜ?」
「なにその理由。井浦、保健室にはないタイプの薬やってる?」
「薬やってるって聞き方やめろ」
とりあえず体育の先生のところに行って、僕は怪我の報告をする。
体育の先生は僕の足を見た瞬間、保健室に行く許可を出してくれた。
「肩、貸すか?」
「いや、歩けはするから、大丈夫」
「そっか。んじゃ、お大事に」
「はいはい、どうも。大事にします」
「なんだそれっ」
「おっと!? 揺らすなよ井浦!?」
「なははっ。おもしれー」
「なにも面白くないんだけど!」
井浦は僕の肩を軽く小突くと、簡単に体勢を崩して変なステップを踏む僕のことを見て、心底楽しそうに笑う。
なんて友達がいのない奴だ。
そんな井浦はそのまま笑いながら、僕に付き添って抜け出していたバレーボールの輪に戻っていった。
遠くから、悪化する前に早く保健室いけよー、とうるさい井浦に向かって手を振ると、僕はいそいそと保健室に向かうことにする。
まだ皆授業中ということで、学校の中は不自然なほどに静かだった。
誰もいないからっぽの廊下を、不格好な歩き方で進んでいく。
今頃さゆりは、何の授業を受けているんだろう。
さすがにさゆりの授業スケジュールまでは把握していない。
今からさゆりのクラスをちょっと覗いてみようかなんて、悪戯心が湧き上がるが、さすがに実行に移すことはしない。
僕の幼馴染で恋人の彼女は、案外真面目で頑固なところがある。
保健室に行く途中で、無駄にさゆりのクラスに寄り道なんてしていたら、後で小言を言われそうだ。
余計なことはせず、真っ直ぐに保健室を目指す。
やがて保健室の看板が見えてきて、僕は若干の緊張を持ちながらも、静かにドアを開けた。
「……失礼しまーす」
井浦が好きらしい、独特な湿布の匂い。
僕の挨拶に返事をしてくれる声はまるで聞こえず、身体測定の時ぶりに来た保健室は冷房が効いていて、少し肌寒いくらいだった。
「あのー、すいません?」
部屋の中に入りながら、もう一度声をかけてみるが、やはり返事はない。
どうやら、保健室の先生は不在のようだ。
「由美子ちゃんなら、いませんよ」
どうしたものかと立ち尽くしていた僕に、ふいに鈴の音のような声がかかる。
声がした方を見て見れば、仕切りになっていた白いカーテンの隙間から一人の少女がこちらに顔を覗かせていた。
日の光に当たったことがないかのように真っ白い肌。
眠たげに半分ほどしか開いてない目元。
肩にかかる毛先は、癖毛かパーマを当てているのか、ふわりと跳ねている。
覇気がないというか、どこか幸薄げな雰囲気だったけれど、かなりの美少女だった。
さゆりの次の次くらいには顔が整っている。
「なので、帰って下さい」
「え? いや、帰ってといわれても」
「なぜですか? 由美子ちゃんがいないなら、ここにいる意味ないですよね?」
「あの、その由美子ちゃんっていうのは?」
「保健室の土居由美子先生です。由美子ちゃんに用があったんじゃないんですか? それともあたしのストーカーですか? もしそうなら帰って下さい。後日訴えます」
「いやいや、待て待て。それじゃあ僕、どっち道、帰るはめになってるじゃないですか」
「そう言ってるんです」
謎のゆるふわパーマ美少女は、徹底的に僕を保健室から追い出そうとしてくる。
この学校では、学年ごとに上履きの色が違う。
ベッドの下に置いてある上履きの色から察するに、彼女も僕と同じ一年生みたいだ。
でも、こんな子いたっけな。
さゆりほどではないけれど、中々に目立つ容姿なのに、見覚えがない。
もう入学からそろそろ四か月経つし、同学年くらいならなんとなく把握したと思っていたけれど、それは気のせいだったらしい。
「土居先生はいつ戻ってくるの?」
「さあ。ココアが飲みたいと頼んだので、どこまで行っているのかわかりません」
「は? どういうこと?」
「言葉の通りです。由美子ちゃんはあたしのココアを買いに行ったので、今はここにいないんです」
僕は絶句した。
なんということだ。
いくら顔がいいからって、保健室の先生をパシリに使うなんて。
「すごいね。最近の女子高生はすごいな。なにが凄いって権力がすごいよ」
「知らなかったんですか? 社会の底辺である男子高校生とは格が違うんです」
「すごい差別的発言だ」
「あなたはココア持ってないですよね? なら早く消えてください」
「とうとう帰って下さいじゃなくて消えてくださいになった。震えるね。何に震えるってその不遜さに震えるよ」
ふっ、と一瞬僕のことを鼻で笑うと、その怖いもの知らずの女子高生は、ベッドから降りて内履きを履く。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「余裕ですよ。そもそもあたし、具合が悪いわけじゃないので」
「え? じゃあ、なんで保健室に?」
「サボリに決まってるじゃないですか。他に何があるんですか?」
何を言ってるんだこいつは、みたいな顔をしてその少女は僕を見る。
その顔したいのは僕の方だ。
「あなたもサボリじゃないんですか?」
「僕は違うよ。ほら、見てごらん。この立派な右足首を」
「……捻挫、ですか? すごい腫れてますね。はやく手当した方がいいですよ、これ」
「そういわれても、肝心の先生がいないからね」
毛先を指で弄りながら、その少女は何かを考え込むようにしながら僕の足下を見つめている。
何かに苛立っているようで、目に見えて不機嫌そうになっていた。
すると数秒経ってから、盛大に溜め息を吐くと、何やら保健室の棚を漁り出す。
「なにしてるの?」
「うるさいですね。そこに座って下さい」
「ん? なんで?」
「いいから、座って下さい。次口答えしたら、保健室で寝てたらあなたに襲われたって学校中に言いふらします」
「悲しいかな。現代日本では今の君に勝てない」
人生が社会的に終わる前に、僕は大人しく近くの椅子に慎重に腰を下ろす。
そのままぼけっと一分くらい待つと、どこから取り出したのか、ゆるふわヘアーの彼女が、僕の腫れた右足首に保冷材を包んだタオルを当ててくる。
「あっ、気持ちいい」
「変な声出さないでください。折りますよ」
「……手当してくれてるのか、そうじゃないのか、どっちなんだいったい」
しばらく冷やした後は、テキパキとテーピングもしてくれる。
足の裏をぐるりと回り、足首の辺りもきっちりと固定してくれて、それは素人とは思えないほどの手際の良さだった。
「手当めちゃくちゃ上手いね。もしかして保健室の先生のお孫さん? だからサボリが許されてるし、ココアも買ってきてくれるんでしょ」
「違います。あなたは見かけ通り阿呆ですね」
「じゃあ、娘さん?」
「前言撤回します。見かけ以上の阿呆です」
綺麗なテーピングをしてくれた後は、またアイシングをしてくれる。
口は悪いが、優しいところもあるらしい。
「……部活のマネージャーをやってたので。こういうことを学ぶ機会があっただけです」
「なるほど。マネージャーさんなのか。何部のマネージャーしてるの?」
「人の話はよく聞いてください。やってた、と言ったんです。もうやめました」
どうしてこんなに手際よく手当ができるのか不思議に思ったけれど、どうやら部活のマネージャーの経験があるようだ。
しかし、どうやらそれは過去のことらしい。
「あ、そうなんだ。もったいない。どうしてやめちゃったの?」
「……あたしが可愛いから、ですかね」
「へー」
「……むかつく人ですね。やっぱり折りましょうか」
毒を吐きながらも、彼女は時々当てる場所をこまめに変えながら、アイシングを続けてくれる。
なんだか不思議な子だ。
「まあ、とりあえず応急処置は終わりました。由美子ちゃんがいないせいで、変に悪化したら嫌ですからね」
「え? もしかして、自分のせいで土居先生が不在になってたから、責任とか感じちゃったの?」
「は、はあいっ!? か、勘違いしないでください! ただあたしは、由美子ちゃんの評判が下がらないよう気を遣っただけです!」
「うーん? 僕が言っているのとそれ、同じことじゃない?」
「全然違います!」
なぜか急にゆるふわ頭の彼女はぷんすか怒り出す。
女性とはなんと難しい生き物なのだろう。
僕の対応能力はさゆりに特化しているので、中々あの可愛らしい幼馴染以外の女子と仲良くなることができないのだ。
もっとも、べつにさゆり以外の女の子と仲良くなるつもりもないのだけど。
「……じゃあ、あたしはもう行きますから」
「え? ココアはいいの?」
「……あなたにあげます」
すると知らない間に顔を真っ赤にしていたその少女は、そのままバタンと勢いよく保健室から出て行ってしまった。
しまった。お礼を言い忘れた。
僕は几帳面にも用意してくれていた、別の保冷材に手を伸ばしながら、今度会ったらきちんとお礼を言おうと心に誓う。
「優ちゃん、戻ったわよ――ってあら? 君は?」
「あ、僕は一年八組の佐藤葉月です。ちょっと捻挫をしてしまって」
しばらくすると、今度は本物の保健室の主である土居先生がやってくる。
どこで買ってきたのか、ペットボトルのココアを片手に土居先生は、不思議そうな表情で僕のことを見ている。
「あら、そうなの? でも、もう手当は終わってるみたいね。これならもう後は、もう安静にするくらいね。優ちゃんがやってくれたの?」
「え? はい、たぶん、そうです。名前は知らないですけど、同じ一年生の、こう髪がふわっとした感じの女の子にやってもらいました」
「そうそう、その子が優ちゃんよ。一年六組の蕪木優ちゃん」
じゃあ、これは君にあげるわね、と言う土居先生から受け取ったココアはまだ暖かい。
蕪木優。
どこかで聞いたことのある名前のような気がするけれど、よく思い出せない。
とりあえずまあ、このさゆりの次の次に可憐で優しい美少女に次会う時は、ココアを三本くらいは奢ってもいいなと思った。