十二 先輩が新しい幼馴染になってくれるので僕は、
やはり日曜日ということもあって、水族館も盛況な様子だったけれど、スカイツリータワーのみたいに入場制限がかかるほどではなかった。
僕は安くはない入場チケットを二人分買う。
世利さんは自分の分はおろか、僕の分まで奢ってくれようとしたが、僕が必死でそれをやめさせた。
元はといえば、水族館になんて来る予定はなかったのだ。
最低限の男として矜持を示すため、僕は世利さんの分のチケットも購入した。
最初は服とか買い物をするつもりで外出していたおかげで、それなりに財布の中に紙切れが詰まっていて助かった。
「ふふっ、奢ってくれなくてもいいのに。葉月くんにも意外に見栄っ張りなところがあるのね」
「見栄っていうのは、可愛らしい女の人の前で張るためにあるんです」
「……ふーん、葉月くんのくせに、言うじゃない」
「見直しましたか?」
「元々見下げてないわよ。あとでなにかでお返しするわ」
「いいですよ。気にしないでください。謝罪の意味も込めてですから」
まあ、そういうことにしておいてあげる、と言って世利さんは上手なウィンクを飛ばしてくる。
それはあまりに魅力的な仕草で、改めてなんでこんな素敵な人と僕は一緒にデートしているのか不思議に思った。
「ほら、行くわよ」
「そんなに急がなくても、魚は逃げませんよ」
「魚は逃げなくても、ペンギンは逃げるかもしれないでしょ? 二足歩行の動物は気まぐれだから」
「一理ありますね。二足歩行の動物はすぐいなくなりますもんね」
二足歩行の動物。ペンギンと人間以外に、いたっけな。
世利さんに急かされるようにして、僕は水族館のゲートをくぐる。
暗めな照明と、どこか心の落ち着くBGM。
人が多いということもあって、半強制的に遅々としたペースで、それぞれの水槽を眺めていく。
「ほら、葉月くん、見て見て。クラゲがいるわ。可愛い」
そこまで広くない通路を進んでいるうちに、優雅に小さな水槽の中を泳ぐクラゲに出会う。
琴線に触れるものがクラゲにあるのか、世利さんは珍しくきゃぴきゃぴとした高い声を上げていた。
変なところでノリの悪い僕は、正直にクラゲへの興味のなさを口にする。
「えー、可愛いですかね。触手とか、にょろにょろですよ?」
「にょろにょろでも可愛いじゃない。ゆらゆらと自然体で浮かんでいて、でもちょっと毒もあって……あ、なんかそう考えると、クラゲって葉月くんに似てるわね」
「それ、僕が可愛いって意味ですか?」
「そう言ってるのよ」
「……やりますね。さすが世利さん。今のは効きました」
「うふふ。惚れちゃった?」
「ぎりぎり耐えました」
「あら、むりしなくていいのに」
薄暗がりの中で見る世利さんは、いつにも増して色っぽい。
僕にさゆりという圧倒的な幼馴染がいなければ、ころりと落ちていたかもしれない。
でも、僕にはまだどこか違和感というか、計り切れないものがあった。
世利さんから見て、僕はいったいどういう存在なのだろう。
性格的なこともあって、旧知の仲のように楽しい時間が過ぎ去っていくけれど、実際は違う。
僕と世利さんはまだ知り合ったばかり。
自分で言うと悲しいけれど、僕は一目見るだけで誰かの関心を惹けるようなタイプじゃない。
どうしてこの高校一の美女として有名な先輩は、こんな冴えない一般人の僕をデートに誘ったのか。
まだ世利さんのことをよく知らない僕は、それでも今の時間を楽しむことにする。
その後も、僕と世利さんは時間をかけて、一つ一つの水槽を見て、心地良い時間を過ごした。
核心に触れないまま、暗がりの通路を進んでいけば、やがて少し開けた場所に着く。
「あ、今度はペンギンだわ」
「本当ですね。逃げずに待っていてくれたみたいですね」
吹き抜けになっている大きな空間の真ん中では、黒と白の縞々と顔のピンク色が特徴的なペンギンが、思い思いに泳いだり、ただぼんやりと立ち尽くしていたりしていた。
ペンギンの近くにはは、階段をちょっと降りると行けるようだったけれど、世利さんは階段を下りずに、見通しのよい場所にいって手すりに身体を寄り掛からせた。
僕もそれに付き添って、世利さんの隣りに立って、上からペンギンを見下ろす。
「僕はクラゲより、ペンギン派です」
「ふふっ、なにそれ。それはつまり、わたしのことが好きって意味?」
「いや、すいませんが、それは曲解ですね」
「そこは嘘でも、そうですって言うところよ。本当に、葉月くんはお世辞が下手なのね」
岩から飛び降りて、ペンギンが陸の上の時には想像もできない速さで泳ぐ。
どこに焦点が合っているのかわからない蒼い瞳を、世利さんはペンギンの群れに向け続けている。
いつもは饒舌な世利さんは、今は沈黙に耳を澄ましているようだった。
「……ここはいいわね。高くて」
「そういえば、高いところが好きって言ってましたね。これくらいの高さでよかったんですか」
「うん。これくらいでいいわよ」
穏やかな雰囲気の世利さんは、水中にいるみたいに、くぐもった話し方をする。
その横顔は、相変わらず嘘みたいな美しさだったけれど、どうしてか少し寂しそうに見えた。
「ねえ、葉月くん、どうして猫が高いところが好きなのか知ってる?」
「いや、知らないです。世利さんだけじゃなくて、猫も高いところが好きなんですね」
「……猫はね、身の安全を確かめるために高いところに登るの。高いところは、遠くまで見渡せて、自分の周囲にどんな危険が潜んでいるかがよく分かる。見られる側から、見る側になれるのよ」
僕はふと、思い出す。
そもそも世利さんが僕に興味を持った一番最初は、さゆりと僕が朝に遅刻してきたのを見たからだと。
朝の校門を見るのが趣味。
それは冗談なんかじゃなくて、世利さんの本質を表す一部。
世利さんは、ずっと見ていたんだ。
見られるんじゃなくて、その時だけは見ることができた。
僕たちだけじゃなくて、朝、学校に登校してくる人たちを上の階にある教室から、世利さんは眺めていた。
いつも他人にじろじろと、無遠慮に視線を浴びせられてきた世利さんが、唯一、他人に視線を浴びせる側になれるのが、高いところから他人を見下ろす時だったんだ。
「君と白鳥さんを初めて見たとき、わたし、羨ましかったわ。白鳥さんは、自分が誰を見ればいいのか、わかってる。それが、羨ましかった。誰もがわたしを見るから、わたしは誰を見返せばいいのか、わからない。でも、白鳥さんは違った。わたしと同じ様に、誰もが彼女を見ているのに、彼女は誰を見返せばいいのか、ちゃんと知っていた」
誰を見返せばいいのか、わからない。
その感覚は、理解はできても共感できないものだった。
僕のことを見てくれたのは、幼馴染のさゆりだけだ。
だから僕が、迷うことはこれまでほとんどなかった。
「ねえ、葉月くん、どうして君は白鳥さんと幼馴染であることを隠そうとするの?」
「それは……」
ペンギンから目を逸らすと、真っ直ぐと世利さんは僕の弱い瞳を覗き込む。
僕がさゆりと距離を置こうとする理由、それは僕があまりに相応しくないからだ。
世利さんの感覚を理解できても共感できないように、きっと僕はさゆりの感覚も本当の意味で共感することはできない。
僕と、さゆりは違う。
今はよくても僕は、さゆりや世利さんと、ずっと一緒にはいられない。
「相応しくないからです。さゆりは可愛くて、きらきらしてます。僕みたいな冴えない奴が幼馴染だって皆に知られたら、さゆりの評判が下がるじゃないですか」
「……へえ。評判ね。葉月くんって、そういうの気にしない人だと思ってたわ」
「基本的には気にしません。僕が他人にどう思われようと、どうでもいいです。でも、さゆりだけは特別なんです。さゆりの足だけは引っ張りたくない」
「ふーん。なんか。葉月くんにしては、つまらない理由ね」
「……え? つまらない、ですか?」
「うん。つまらないわ。今の葉月くん、全然面白くない」
幼馴染に対する気持ちを正直に吐露した僕を、世利さんは見損なったような視線で睨みつけてくる。
瞳に映るのは退屈というよりは、苛立ちの混じった深い蒼。
つまらない。
大好きな幼馴染の評判を下げたくない。
そんな当たり前のことを口にしただけなのに、どうして世利さんが怒っているのか、僕にはわからない。
「白鳥さんが、そう言ったの?」
「え?」
「君と一緒にいると、評判が下がるって、白鳥さんが一言でも言った?」
「いや、それは、言われてないですけど……」
「白鳥さんは、他人にどう見られてるか、気にするタイプなの?」
「えと、どっちかっていうと気にしないタイプだと思いますけど、でも、実際高校に入ってからさゆりは変わったし……」
「決めつけないでよ」
「え?」
「白鳥さんの気持ちを、君が勝手に決めつけないで」
世利さんは、視線を逸らさない。
僕はきゅっと胸が締め付けられるような感じがして、息が苦しくなる。
戸惑いに支配されて、僕は言葉を失う。
「君と一緒にいたら評判が下がるとか、相応しくないとか、全部君の思い込みじゃない。それにもし仮にそうだとして、どうして君は距離をとるっていう方法を選ぶの? 違うでしょ。本当にそうだとしても、君が選ぶべき道は、白鳥さんに相応しい人になれるよう努力することじゃないの? 白鳥さんの隣りにいても、誰にも相応しくないなんて思わせないような人に、なるべきじゃない?」
「……でも、僕には、さゆりや世利さんみたいな輝きはないんです。努力して、なんとかなるものじゃない」
「また、つまらない答え。わたし、今日葉月くんと一緒にいて、相応しくないって思ったことなんて、一度もない。本当に楽しかったわ。君は面白い人だった。……でも、今は別。今というか、白鳥さんの話になった途端、君はどうしようもなくつまらない人になった。はっきり言って、今の葉月くんは、君の言う通り白鳥さんに相応しくないわ」
それは雷鳴に打たれたかのような衝撃だった。
どこまでも容赦なく、世利さんは僕を切り捨てる。
一切の手加減なく、これまでの優しさを全て消し去って、躊躇いなく僕に言葉を叩きつける。
「あがきなさいよ、少しくらい。君は、白鳥さんの幼馴染でいたいんでしょう? 好きなんでしょう? 一緒にいたいんでしょう? だったら、そう伝えるべきよ。現状維持で構わないとか思ってるかもしれないけど、立ち止まったままじゃ、この先本当に置いていかれる日が来るわ。走り続けなさいよ。君が本当にしたいのは見送ることじゃなくて、一緒に並んで走ることのはずよ」
僕はさゆりの幼馴染でいたい。
僕はさゆりのことが好きだ。
僕はずっと一緒にいたいと思っている。
そんなの、どう考えても、当たり前のことだ。
それなのに、僕はどうしてこんな馬鹿なことをずっとしていたんだろう。
分かっていたのに。
結局、僕は逃げていただけだ。
幼馴染をやめるとか言っておいて、本当にやめる気なんてこれっぽちもなかった。
さゆりは変わった。
より綺麗に、可愛くなった。
でも、だからなんだって言うんだ。
見た目が変わっても、周囲の環境が変わっても、さゆりはさゆりのままだ。
僕の大好きな幼馴染は、何も変わっちゃいない。
蒼い想いが、再燃する。
僕は根本を間違えていた。
僕はさゆりと幼馴染でいたいんじゃない。
僕は、さゆりとずっと一緒にいたいんだ。
もしただの幼馴染のままじゃ、ずっとは一緒にいられないなら、幼馴染なんてやめてやる。
「……ありがとうございます。世利さん。僕、なんか、目が覚めました。僕ちょっと、さゆりに会いに行ってきます」
「ふふっ。そうね。それがいいわ。もう高いところにも来れたし、ペンギンも見れたし、今日はこの辺でお開きね」
「本当にすいません。今日はありがとうございました」
今から学校に行って、間に合うだろうか。
いや、今はそんなこと、どうでもいい。
学校にいなかったら、電車に乗って、家に向かえばいい。
家にいなかったら、その時は、見つかるまで走ればいい。
夏より早く、僕は幼馴染に会いに行く。
「僕、世利さんのこと、世界で二番目に好きです」
「……最低のプロポーズね。間違ってもわたし以外の人に言っちゃだめよ、その台詞」
「言いませんよ。世利さんにだけです」
「それでも、あんまり嬉しくないわね」
「じゃあ言い直します。世界で一番の幼馴染はさゆりですけど、世界で一番の先輩は世利さんです」
「ふふっ、馬鹿ね。それもそこまで嬉しくない。でもちょっと面白いから許してあげる。もし振られたら、わたしが君の新しい幼馴染になってあげるから、大船に乗ったつもりで行きなさい」
「新しい幼馴染ってなんですか。だけどそれはたしかに、ペンギンが何匹でも乗れそうな大船ですね」
世利さんは、最後まで綺麗に笑う。
僕は真っ直ぐと世利さんの目を見て、最後は笑顔を返す。
「それじゃあ、世利さん、僕、行ってきます。」
「うん。行ってらっしゃい。葉月くん」
また可憐なウィンクを飛ばす世利さんに、僕は一度会釈すると、踵を返して走り出す。
ペンギンが水の中を泳ぐように、僕は人混みの中を通り抜けていく。
幼馴染が自分のことを美少女だと気づいてしまったので僕は、幼馴染をやめることにする。
だって僕はさゆりの、幼馴染以上の存在に、なりたいから。
――――――
借りっぱなしの折り畳み傘を鞄から取り出して、わたしは溜め息を吐く。
「返し損ねちゃったわね……」
水族館は外の世界と遮断されているような感じがして、どこか時間がいつもより遅れて進んでいるような気がした。
紺色のマリンキャップを深く被り直すと、わたしは上から黒と白の縞々が可愛いペンギン達を見下ろす。
何を考えているのか、何も考えていないのか、ずっと身動き一つしなかったと思ったら、いきなり勢いよくプールに飛び込むペンギンを見ていると、どうしてもちょっと面白い後輩の彼のことを思い返してしまう。
「なにやってんだろ、わたし」
最初は、ただの好奇心だった。
外見を含む生まれ持った幾つかの才能と、人との距離の測り方の上手いわたしは、学校ではいつだって皆の注目の的だった。
トウコウ選抜総選挙。
そんな呼び名のコンテストでも、わたしはいつだって一番。
それは少し油断すると、妬みや嫉みで周囲から浮いてはみ出し者になってしまうわたしにとって、上手に学校での居場所を見つけられていることの証明だった。
そんな総選挙で、中間発表だけれど、わたしを差し置いて一番になった一年生がいると聞いた。
わたしは、きっとその子は同類だと思った。
本当の意味での理解者はいなくて、隣りに寄り添ってくれる人なんていない。
そういう意味での、同類。
だからわたしは白鳥さゆりに興味を持って、彼女のことを自然と探すようになった。
そんな時だった、偶然にも、いつものように教室から朝の校門を眺めていた時に、白鳥さんが一人の男の子と一緒に登校してくるのを見たのは。
その子と一緒にいる時の白鳥さんは、どこまでも自然で、幸せそうだった。
他者の感情の機微に聡いわたしには、一目で分かった。
彼らが惚れ合っていると。
だから今度は、その男の子に興味を持った。
わたしと似たような白鳥さんを、あそこまで夢中にさせるのは、どんな子なんだろうなって、思ったの。
その男の子の名は、佐藤葉月くんと言って、白鳥さんの幼馴染だった。
転校の多かったわたしには、幼馴染なんて存在はいない。
だから、わたしは知りたいと思った。
白鳥さんの幼馴染を。
葉月くんを。
知りたいと思ったのよ。
「馬鹿ね。わたし。こんなことしたって、わたしにはなんの意味もないのに」
でもわたしは、知り過ぎてしまった。
手元に残ったのは、初めて会った日に葉月くんから借りた折り畳み傘だけ。
わたしの隣りには、誰もいない。
それはいつものことで、今日に至っては自分で望んだことなのに、どうしてか、とても寂しくなる。
「いいなあ、幼馴染」
もし、もっと早くに、彼と出会っていたら。
彼の幼馴染が白鳥さんじゃなくて、わたしだったら。
なんて考えてみても、意味がないってことくらい分かってる。
葉月くんと白鳥さんを初めて見たときに思った、羨ましいという気持ちは、むしろ今の方が大きい。
どんなに高いところに登っても、欲しいものは手に入らないと、本当は知っていたわたしは、こちらを見つめ返すペンギンに気づかれないように、少し熱くなった目元を借りっぱなしの折り畳み傘で覆い隠した。