十一 幼馴染が今はここにいないので僕は、
僕の楽観的予想も虚しく、日曜日の十二時五十分、高校の最寄り駅に朽織先輩はふつうにいらっしゃった。
ほとんど一応の確認のつもりで来ただけなのに、まさか本当に今日僕は朽織先輩とデートするのか。
被りが浅くて、ちょっと上部分がもこっとしている紺色のマリンキャップを被った朽織先輩は、僕を見つけるとニコッと破顔してこちらに手を振ってくれる。
白のセーターと丈の短いホットパンツという、だいぶシンプルな服装だったけれど、むしろそれが朽織先輩の素材の良さを引き出しているように思える。
ホットパンツから伸びる黒のレギンスで覆われた足は膝下の長さがよく分かり、実際に僕より二つ年上なのだけれど、それ以上に差があるような大人っぽさを感じた。
軽く会釈をしながら、僕は朽織先輩の方へ小走りで駆け寄っていく。
「おはよう、葉月くん。さすがに遅刻はしてこなかったわね」
「おはようございます、朽織先輩。まだ待ち合わせ時間の十分前なのに、早いですね」
「だいたい二十分前くらいかしら。ここに着いたのは」
「そんなにですか? さすが上級生ですね」
「どんな褒め方よそれは。上級生とか関係ないから。ただ、久し振りの男の子とのデートだから、そわそわしちゃって」
「久し振り? 意外ですね。先輩、モテそうなのに」
「モテそうとモテるっていうのは、まったくべつなのよ。それにわたし、自分で言うのもなんだけど、高嶺の花っぽいところあるから。もっとも、自分でそういう自己演出をしてるんだけど」
「たしかに。先輩と平気な顔でデートができるのは、よっぽどの自信家か、人の目を気にしない図太い奴かのどっちかですもんね」
「ふふふっ。それ、葉月くんはどっちなの?」
「それこそ自分で言うのもなんですが、後者です」
朽織先輩は口元を手で隠しながら、目尻に皺を寄せて笑う。
先輩の笑い方は、こらえきれずに思わずといった感じがして、どこか可愛らしかった。
「なんだか、意外に葉月くんって喋りやすいのね」
「よく言われます。とくにその意外にってところが」
ほとんど喋ったことがないにも関わらず、それなりに会話は弾みそうだ。
これは僕の話術というよりは、朽織先輩の親しみやすさに起因するところが大きい。
自分自身でも言っていたように、朽織先輩はまさに高嶺の花といった感じで、パッと見とっつきにくいところがある。
そんな第一印象とは裏腹に、どちらかといえば積極的に会話を楽しもうとしてくれるので、僕からすればずいぶんとありがたかった。
家族やさゆり以外の女性と二人きりで遊ぶことなんて、ほとんど経験したことがなかったので、この日曜日は半日以上を気まずい時間として過ごしてしまうのではないかと思っていたけれど、それは杞憂に終わりそうだ。
「それで、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「え? 僕が行く場所決めるんですか?」
「当たり前じゃない。美少女をエスコートするのが、紳士の役目でしょう?」
「美少女は否定しませんが、紳士はどうですかね。ハットもステッキも僕してないですけど」
「うふふ。それなら買いに行く? わたしが選んであげるわよ」
「ありがたい申し出ですが、僕は中身から入るタイプなんで、精神的努力でカバーします」
「そう? まあ、それなら、今後の成長に期待しておいてあげる」
「先輩はどこか行きたいところないんですか?」
「そうね……高いところに、行きたいわ」
「高いところ。敷居的な意味ですか?」
「ううん、物理的な意味で」
「なるほど。先輩、志高そうですもんね。でも高いところか、微妙に難しいですね」
僕は考えてみる。
物理的に高いところ。
どこがあるだろう。
「あと、一ついい?」
「はい。なんですか」
「わたしのこと、先輩って呼ぶの禁止」
「え。これまた難題ですね。じゃあ、なんて呼べばいいですか?」
「世利でいいわよ」
「……世利さん、と呼ばせてもらいます」
「ふふっ、呼び捨てでいいのに。可愛いところあるじゃない」
「後輩は可愛くてナンボなので」
じゃあ、可愛い後輩の葉月くん、わたしをどこに連れて行ってくれるの、と続けた朽織先輩と一緒に、とりあえず電車のホームを目指す。
朽織先輩――世利さんと一緒に、僕は高いところへ向かうのだ。
アイデア力に欠ける僕は、思考停止で都内で一番高いであろうところにやってきた。
ソラマチのスカイツリータワーだ。
僕の地元からもまあまあ近いのだけれど、案外来たことはあまりない。
エスコートを頼まれたはいいけど、そんなに上手く案内できる自信はなかった。
「へえ。けっこう賑わってるのね。海外からの観光客も沢山いるし」
「みたいですね。どうですか。高いですよ」
「なにその言い方。馬鹿にしてる?」
「してませんよ。世利さんって、頭良さそうですし」
「まあね。成績はいつも学年一桁をキープしてるわ。言っておくけど、これ自慢よ。褒めてよし」
「さすがです。世利さんには敵いません。パーフェクトウーマンですね」
「葉月くんはお世辞が下手ね」
気分が良さそうな世利さんは、そのまま僕の半歩分前を歩いて、ソラマチの中に入っていく。
これだけの人混みの中でも、やはり世利さんの美貌は目立つのか、通り過ぎる人のほとんどが僕らの方を振り返っているのが分かった。
彼らの視線の中に、僕が含まれているのかははなはだ疑問だったけれど。
「それでどうします? さっそく登りますか?」
「そうね。最初に一番上に行って、そこから降りていきましょうか」
エスカレーターを使って、丁寧に一階一階上がりながら、僕たちはスカイツリーの展望台へ向かう。
地味に内観は複雑になっていて、スカイツリーの券を買うところまで行くのに、若干手間取ってしまった。
だけどいざ展望台入り口につくと、そんなことは些細な問題だということに気づく。
僕はもっと致命的なミスを冒していたのだ。
「なん…だと…? 九十分待ち……?」
「へえ。凄いわ。まだこんなに人気なのね」
思いつきで来たスカイツリーの展望台は、見事に入場制限がかかっていて、予約をしていない人は一時間半も行列に並ばないといけないみたいだ。
恋愛経験の皆無さがここで露呈してしまった。
デートという舞台に対する経験値がまったくないので、こういった事態を全く予想できなかったのだ。
「世利さん、すいません。どうしましょうか」
「ふふっ、デートのエスコートとしては赤点ね。追試が必要みたい」
「追試はむしろご褒美ですけど……九十分、並びますか?」
「うーん、いえ、いいわ。そこまでこだわりがあるわけじゃないから」
「本当にすいません」
「いいのよ、そこまで謝らなくいいわ。高いところに行きたいって、いきなり言い出したのはわたしの方だしね。責任は半分こよ」
「ありがとうございます。世利さんは優しいですね」
「うふふ。今頃気づいたの?」
明らかな僕のミスなのに、世利さんはそれを笑って許してくれる。
見た目に違わず心が広い。
中身も美少女ということみたいだ。
「それじゃあ、水族館に行きませんか? すぐそこにあるみたいですし」
「いいわよ。水族館デート。そういうベタなの、嫌いじゃないわ」
すぐ近くに水族館の看板を見かけた僕は、とりあえずの避難場所としてそっちの方へ向かうことにする。
僕の拙いエスコートに、内心苛立っていないか、それでも心配になった僕は世利さんの横顔をちらりと窺う。
すると僕の心を見透かしたように、世利さんは穏やかに笑った。
「……ちゃんと、楽しいわよ」
「……はい、僕もです」
穏やかな日差しに照らされる世利さんは、間違いなく世界で二番目に美しかった。
夏の訪れ感じさせる湿った風に吹かれながら、僕は今はここにいない世界で一番目の幼馴染が今頃何を考えているのかな、とそんなことを想った。
―――――
「フォルト!」
今日何回目かわからないサービスミスをしながら、私はぼんやりと幼馴染のことを考えていた。
今頃、葉月は朽織先輩と一緒にデート中のはず。
朽織先輩と何を喋って、何を想っているのかな。
「白鳥さん、どうしたの? イージーなミス多いよ? なんか熱でもある? ぼうっとしてる感じするし」
「ああ、すいません。私は大丈夫です。もっと集中します」
「う、うん。大丈夫ならいいんだけど……」
私は気持ちを切り替えて、部活に意識を集中させる。
練習相手の先輩にも迷惑がかかってしまうのは、よくないよね。
それでも、やっぱり無意識のうちに頭が葉月の方に飛んで行ってしまう。
そもそも、葉月にとって私は、いったいどんな存在なのだろう。
幼い頃から、私たちはずっと一緒だった。
だけど、それはあくまで幼馴染として。
ちょっと寄り掛かれば、すぐに肩と肩とが触れる距離にいたのに、実際に私が葉月に寄り掛かることはなかったし、葉月も私に寄り掛かってこなかった。
そんな変わり映えのしない関係性が怖くなって、私は高校からは少し変わろうと思った。
このままではいけない。
何かを変えないと思って、私は努力した。
これまであんまり気にしてこなかった見た目も気にするようにしたし、運動とかほとんどしてこなくて何となく陰気っぽかったから、運動部に入って雰囲気も変えた。
それなのに、葉月は一向に私のことを幼馴染以上の存在としては見てくれない。
むしろ少し、今までより距離が空いているように感じてしまう。
どうしてなんだろう。
やっぱり、むりなのかな。
私は、葉月の幼馴染以上には、なれないのだろうか。
高校に入ってからも、葉月は何も変わっていない。
もちろん、変わって欲しいわけじゃないけど、それはつまり、葉月は現状からの変化を望んでないってことだ。
葉月が私のことを追いかけてくる日なんて、一生来ないのかも。
幼馴染以上の関係なんて、過ぎた望みなのかな。
私は力なくボールを宙に放ると、コースの定まらないサーブを振り抜く。
弱々しい打ち込みは、相手側のコートまで届かず、ネットに遮られて下に落ちる。
「フォルト! ダブルフォルト!」
再びサービスミス。
迫りくる夏に、私は諦観の気配を想う。
私と葉月は幼馴染。
それだけでもう、十分だと思うべきなのかもしれない。