2-1「妖魔」
人々を包み込む混乱は、アグノスの町の大通りをさながら津波のように席巻した。叫び声、物が倒れる音、逃げ惑う足音。不安を掻き立てる様々な音がコル達の周囲を渦巻き、のたうち回る。さらに騒ぎを聞きつけて目を覚ました人々が家々の窓やドアから顔を出し、何が起きているかを察して混乱に巻き込まれる。
騒動の始まりを告げる最初の地鳴りが聞こえてから、わずか数十秒の間に、アグノスの平和な夜はその様相を一変させてしまっていた。
コルとルエナは、わずかな時間に起きた変化に気持ちがついて来ず、少しの間顔を見合わせたままその場に立ち尽くしていた。しかし、元来意志力の強いルエナがコルよりもわずかに早く状況を受け入れ、その頭に判断力を呼び戻した。
「……ぼーっとしてる場合じゃないわ! コル、早く逃げなきゃ!」
ルエナは声を張り上げたが、周りがうるさいので、コルにはそれでやっとかろうじて聞き取れるくらいだった。それでもその言葉を聞いて、コルも気持ちを持ち直して頷いた。
「そ、そうだね……でも、正面から灯護院には戻れないよ……一度脇道に入って、そこから灯護院の丘を目指そう」
コルがそう答えている間も、周りでは人々が逃げ場を求めて走り回っていた。その上、妖魔の接近を告げ知らせる地鳴りは断続的に繰り返され、しかも少しずつ大きくなっている。こんな状況で、明かりのない脇道に入って行くなどということは、冷静に考えればこれ以上ないほど危険なことであったが、まだ十一歳の子どもであるコルが、混乱した頭で冷静な判断ができなかったのは、ある意味仕方のないことだった。それに、今夜のことがばれれば学院を追い出されるかもしれないという不安は、この頃のコルにとっては妖魔に対する恐怖と同じくらいに重いものだったのだ。
ともあれ、ルエナとコルは雑踏の隙間をなんとか潜り抜け、脇道を通って灯護院のある北を目指した。再び呼び出されたヴィーナによって檸檬色に照らし出される家々では、地鳴りに目を覚ました人々が状況を把握するために呼びあう声が行き交い始めていた。もう少しして妖魔の襲来という事実が伝われば、ここも大通りと同じような混乱に包まれることだろう。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、コル達は町のはずれにたどり着いた。灯護院と市街地の間は、大通りを除いて草に覆われた丘陵地になっている。灯護院のすぐ近くは、灯台の明かりが強すぎるので生活に不便なのだ。大通りだけは、いつでも通行ができるように通り全体が大きなガードに覆われているが、それ以外の場所は人々の生活圏としては利用されていない。もう少しで町を抜け出せれば、あとは丘を登って抜け穴から灯護院に戻るだけだ。もちろん妖魔に襲われている町のことは心配ではあったが、地響きはだいぶ遠のいてきたので、二人とも少しずつではあったが落ち着きを取り戻し始めていた。
しかしその時、再び思いがけないことが起こった。コル達のすぐ近く、後ろの方から、甲高い悲鳴の声が聞こえたのだ。鋭くて高い声音から、少女のものであると思われる。突然のことにびくっとした二人だったが、すかさず互いに視線を交わした。緊張感が二人の心を繋げたかのように、互いにそれと意識することもなく、コルとルエナは視線だけで意思を伝えあった。
地響きが遠のいているのだから、ここに妖魔がいるはずがない、でも現に今近くから悲鳴が聞こえてきた、ということはもしかしたら侵入した妖魔は二体いるのかもしれない、大通りにいる人たちがそれに気づいていた様子はない、現に人々は北に向かって逃げていた、もしもう一体の妖魔が町の北側から侵入してきているのなら、地響きの聞こえる南から逃げてきた人々が別の妖魔に鉢合わせすることになる、誰かが伝えに行かなければならない、それにいくら自分たちが精霊師として見習いだとはいえ、助けもなく妖魔に襲われている子どもがいるのなら見殺しにはできない——
これだけの思考のうち、どこまでをコルが考え、どこまでをルエナが考えたのか、それは二人自身にも分からなかった。それでもその視線のうちに二人は一つの意見の一致に達した、あるいは達したと信じあった。そして全く同時に、二人は踵を返して来た道を戻り、悲鳴のした方角へと向かった。