1-3「アグノスの町」
「……いや、気のせいじゃないか? 少なくとも俺には聞こえなかったぞ」
しばらくして、別の男性の声がバルコニーから聞こえた。
「そうか?……まあ、いいか。特に危険なものがいる気配はないしな……」
一人目は完全に納得したわけではないようだが、同僚に説得されたのだろう。二人分の足跡がした後、再びドアが開閉される音が裏庭に響いた。
それでも念のため、コル達は数分間緊張を解かずに様子を見た。しかし人が戻って来る気配がないことを確認し、二人は目配せをしてから半ばずり落ちるように屋根の上を這い下り、一度軒先にぶら下がってから芝生の上に飛び降りた。
裏庭を突っ切って城壁まで行くのは簡単だった。灯護院には当然窓がついており、内側から屋内の光を放っていたが、灯護院の裏側に面した窓はどれも灯台の光を軽減する曇りガラスだったからだ。
しかしぼんやりとでも光を見られれば当然怪しまれるので、ヴィーナに照らしてもらうことはできなかった。
コルのクラスメイトが言っていた城壁の抜け穴は、裏庭の角にあった。実際に見るのは当然コルも始めてだったが、確かにつつじの灌木に見事に隠されていた。
そこに抜け穴があると知っているか、あるいは城壁を端から入念に確認するのでない限り、穴があることには気づけないだろう。
城壁に空いた穴は、壁を構成する石材がいくつか崩れて抜け落ちたことでできたようだった。それだけだと人が通るには狭すぎたが、御誂え向きに下の地面も掘り込まれている。
当然、かつてコル達と同じ野望を抱いた先駆者が掘ったのだろう。名も知らぬ先人達に感謝しつつ、コルとルエナは順番に穴を這いくぐった。
「ふうーっ。やっと外に出られた……!」
ルエナは穴を抜けると、ぱっと立ち上がって両手を空に突き上げて伸びをした。ペンダントの中に隠れていたヴィーナも呼応するように、ルエナの肩の上に再び出現した。
ヴィーナの発する光に照らされて、ルエナの晴れやかな表情が隣にいるコルにもはっきりと見えた。コルはここまで正直、ルエナの話にうまく乗せられてここまで案内させられた気持ちでいたのだが、出会ってから初めて見るルエナの心からの笑顔に、まあこれはこれで良かったのかな、と考えを改めた。
「……ほら、今回の目的は町に行くことでしょ。ここでゆっくりしてたら時間がなくなっちゃうよ」
しかしそんな風に思っていることをルエナに悟られるのはなんだか少し癪だったので、コルはそう言ってルエナに行き先を示した。
城壁に向かって右側には、夜空の下に点々と明かりを灯したアグノスの町の夜景が広がっていた。
アグノスの町は、昼間の光に照らされている風景も美しかったが、夜の姿も、それはそれで違った魅力を放っていた。
町の大通りには光と熱を発する火鉱石という鉱物を利用した街灯が一定距離ごとに設置されており、橙色の光を石畳の地面に投げかけている。
火鉱石の費用は安くはないので、パレセリアでは夜はほとんど誰も活動しないのが通例だが、アグノスの町で定期的に行われる夜市では、さまざまな店が夜間営業するのだ。
夜市である以上、子どもが近付けない、あるいは近付かない方が身のためである店も多いが、アグノスは全体としては治安がいいので、裏路地にでも迷わない限り身の危険はまずない。
町まで下りるにあたって、灯護院を出入りする人々と鉢合わせすることを避けるために一度大通りを迂回したコル達にとって、大通りに合流した瞬間に目の前に広がった夜市の風景は感動的なものだった。
特に、初めて町に降りてきたルエナには、それは別世界といっても過言ではないほどだった。
五リード(十メートル)ほどもある大通りを両脇から挟む形で、多種多様な店々が軒を並べている。
数えきれないほどの人々がそれらの店を見て回り、あるいは商品を手にとって眺め、あるいは店主との価格交渉に勤しんでいる。
昼の市であれば主な商品は食材や日用品が主であるが、一種のお祭りの要素も兼ねる夜市では、作り売りの軽食や雑貨、工芸品など商品の種類は多岐に渡った。
中にはアグノスの夜市に出店するために別の町からはるばるやってくる芸術家などもいるという話である。
ルエナはそれらの光景にしばらく言葉を失って立ち尽くしていたが、我に返るとさっそくコルのことなどお構いなしに、好き勝手にあちこちの店を物色し始めた。
コルはといえばルエナを見失わないように追いかけるのに精一杯で、とても夜市を楽しんでいる余裕などなかった。この人混みの中では少し目を離すだけでお互いを見失いかねないし、夜市に興奮しているルエナが道に迷った時の帰り道について考えに入れているようには到底見えない。
しかも、コルの災難はそれだけに止まらなかった。蜜を求めて花から花へ飛び移る蝶々のように店々を渡り歩いていたルエナが一つの屋台の前で立ち止まり、コルがやっと追いつけたと胸を撫で下ろしたところで、コルはそれを知ることになる。