1-2「ピンチ」
祓魔棟と学院棟の間の回廊に位置し、今回の作戦の中で最も人に見つかる可能性の高い中央階段を周りに警戒しながら慎重に突破したあとは、夜の間は使われていない教室や研究室が並ぶ二階を進んでいくのは簡単だった。
それでも、暗闇に包まれた廊下をヴィーナの明かりと記憶の中の間取り図を頼りに進んでいくのは、二人にとってちょっとした冒険だった。普段見慣れている光景でも、ただ暗いというだけでどことなく妖しい、未知の世界のように感じられるのだ。
バルコニーに出るドアにたどり着くまで、実際の時間は十分足らずだったはずだが、二人にはその二、三倍もの時間に感じられた。
コルとルエナが目を合わせて頷きあい、ドアを開けると、夜の涼しい風が吹き込んできた。バルコニーに出ると、手すりの上に夜の景色が視界いっぱいに広がる。空には数え切れないほどの星が煌めき、左前側には高くそびえる灯台が、巨大な影となって星空を切り取っていた。
コル達はバルコニーを左に進み、手すりが直角に曲がって灯護院の建物と繋がっているところまでたどり着いた。そしてその手すりの先に身を乗り出すようにして、コルのクラスメイトが言っていた回廊の屋根を探す。
それは、たしかにそこにあった。斜め下方に横たわっている、タイルで覆われた細長い切妻屋根だ。しかし、それはコル達がイメージしていたよりも遠くに見えた。
たしかに、冷静に見ればジャンプで届くはずの距離なのだが、高いところからの景色というのは不安を掻き立てるせいか実際よりも遠く感じられるものだ。また、夜であたりが薄暗いのも、距離感を狂わせている原因かもしれない。
「……コル、まさか、」ルエナは中々踏み出さないコルを横目に見ながら言った。「今さら怖気付いてるんじゃないわよね?」
「そ、そんなことないよ……ルエナこそ、足が震えてるんじゃない?」
コルは負けじと言い返したが、その実、図星だった。
「震えてないわよ! だいたいコルなんかさっきから目が泳いでるじゃない。私の足が震えてるかどうかなんてちゃんと見てもないでしょ!」
ルエナも売り言葉に買い言葉で返してくる。ということは、たぶんこっちも図星だ。
互いにむっとした表情でにらみ合い、視線が交錯するところに今にも火花が散るかと思われた時、二人の目の前を黄色い光がさっと通り抜けた。
振り返ると、ヴィーナが楽々と回廊の屋根に飛び移り、そこから二人の方を見つめていた。小首を傾げたその表情は、何を下らない言い争いをしているのと言いたげである。
「ほらぁ、ヴィーナも早く来いって言ってるじゃない。さっさと行きなさいよ。この方法で行こうって言ったのはコルでしょ」
ルエナはそういってコルの肩を叩いた。そもそも灯護院を抜け出したいと言ったのはルエナじゃないかと思いつつも、コルはこれ以上言い争っても意味がないと諦め、腹をくくって手すりに力を込めてよじ登った。
幸い、ヴィーナが屋根を明るく照らしてくれるので、さっきまでよりは距離感が掴みやすくなった。コルは手すりを乗り越えるとその先に十数ディミ(数十センチ)だけはみ出ているバルコニーの縁に立った。
そして、バランスを崩さないように細心の注意を払いながら屈み込む。前を見るとヴィーナが大きな尻尾を振って信号灯の役割を果たしてくれている。コルは他人の精霊を見るたびにこみ上げてくる苦い思いを嚙み潰しながら、思い切って前方に飛び出した。
ガシャンという音とともに着地してすぐ、コルはバランスを崩しそうになった。屋根の傾斜が見立てよりも急だったのだ。慌てて前方に手を伸ばし、棟の部分を掴んむことでなんとか転げ落ちるのを免れた。
コルが体を横にずらして場所を確保すると、今度はルエナが飛び移ってきた。再びガシャンと音がなる。ルエナはコルの前例を見ていたのでバランスこそ崩さなかったが、それでも少しずり落ちそうになったところをコルに手を掴まれてとどまった。
二人は顔を見合わせてふっと息をついた。一番の難所を乗り切ったので、この先は特に難しいことはないはずだ。
しかし、二人が両手両足を使って棟を乗り越え、軒まで這い下りようとしていたちょうどその時、ドアの開く音が聞こえて二人の背筋を凍らせた。
「……なあ、今確かに外で音がしたよな?」
若い男性の声が聞こえる。コル達の背後、つまり祓魔棟側のバルコニーからだ。コルがはっとして右を向くと、機転の利くヴィーナはすでにルエナのペンダントに退避していた。
これで光でばれることはないとひとつ胸をなでおろすも、まだ危険が去ったわけではない。さっきコル達がしたようにバルコニーの端までやってきて下を見下ろされれば、屋根の上にうつ伏せになっている二人の子どもは向こうから丸見えだろう。
そこからの数秒間、コルとルエナは息を止め、祓魔師達が端まで来ないようにとひたすら祈り続けた。