序-2「ルエナ」
これが、僕たちの世界なのだ、とコルは思った。灯台によって安全な生活圏を作ることができるようになったとはいえ、灯台を設置できる場所は限られているし、一つの灯台で照らせる範囲もせいぜいで五十ルグリード(十キロ)程度だ。
その上、灯台の恩恵を受けることのできる地域も、その大部分は食料を確保するための農地に割かなければならない。そういった様々な必要を差し引けば人が住むことのできる地域はごく僅かしか残されない。
フェルネレルがパレセリアに希望の灯火をもたらしてから、すでに長い月日が経っていたが、人々は未だに、世界を覆う暗闇に怯えながら生きているのだ。
とりとめのない思考に身を委ねつつも、コルは窓から目を離し、再び図書館に向かって歩みを進めた。
アグノス灯護院の回廊の天井には、一定の間隔をおいて灯台の光を取り込む天窓があった。灯護院が灯台のすぐ麓にあるので、光は横からは入ってこず、上から降り注ぐのである。また、アグノスの町全体を照らし出す灯台の光は、近くで直視すると目が潰れてしまうほどに強い。
そのため灯護院の天窓は曇りガラスでできており、灯台の光を適度に弱め、拡散して院内を照らすように調整する役割も担っている。ともあれ、そんな天窓の効果によって、回廊は明るく照らし出されていた。
回廊を奥まで進むと、左側に観音開きの扉があった。どっしりとした樫材で、表面には蔦模様の彫り込みがされている。取っ手の金色の塗装は、長い間人々に触れられ続けたことで所々剥げていたが、それは扉の品位を失わせることはなく、却ってそれだけ人々に必要とされ続けてきた誇りすら感じさせた。
コルが取っ手を押すと、一瞬の重い抵抗の後に扉がゆっくり開いた。そして扉の先に図書館の風景が広がった。そこは正八角形の形をした大きな部屋で、壁の内側にそってずらりと書架が並んでいる。
書架は三つの階層に分けられていて、所々に取り付けられた階段や梯子で行き来するようになっている。また、その内側にも書架が何列か輪を作って並んでいる。
そのさらに内側には閲覧用の書見台や机が置かれたスペースがあり、中心にはレセプションのカウンターが設置されていた。現在、カウンターには誰もいなかった。図書館所属の司書は今、コルが所属しているのとは違う学年で授業中なのだろう。灯護院では基本的に部外者が入ってくることはないので、司書が常駐している必要はないのだ。
だから図書館は、精霊と出会えないことに劣等感を抱えているコルにとって、一人きりでくつろげる場所と感じられるのである。
しかし、今日に限っては、そうではなかった。いつも通りの図書館の風景を見渡していたコルの視界に、一人の先客が映ったのである。その人はカウンターのすぐ横にある机に席を取り、目の前に閉じた本を置いたまま、自分の毛先を指で弄っていた。
その髪は明るい金色のロングヘアーで、背中の肩甲骨あたりまで垂れ下がっている。華奢な輪郭と、青い瞳を飾る長い睫毛から、一目で女性、それもコルとちょうど同じ年恰好の少女であることが見て取れた。
コルが図書館のフロアに下る階段を降り始めると、その足音を聞きつけたのか、少女が驚いたように素早く姿勢を正し、コルの方を見やった。
そして束の間、コルの方を疑うようにじっと見つめたので、コルは蛇に睨まれたかのように緊張してその場に立ち竦んだ。永遠とも思える一瞬の後、少女が口を開いた。
「……まさか、メティオ先生に頼まれて来たんじゃないわよね?」
怖がっているような、それでいてどこか開き直っているような声音だった。
「ち、違うよ。メティオ先生がどうかしたの?」
コルは少女の視線に怯んで、自己弁護するように胸の前で手を横に振りながら答えた。
「なんでもないわ。知らないならいいのよ」
少女は見るからにほっとした様子でこわばらせていた肩から力を抜いた。そして今度はにやっと笑ってコルの方を見た。
「じゃあ、もしかしてあなたも授業から抜け出して来たの?」
「ち、違うよ、僕は……」
コルは答えようとしつつ言い淀んだ。クラスの中で一人だけ精霊と出会えないから授業に出られないんだ、などという理由は、男の子が女の子に言うにはあまりにも決まりが悪い。
「まあいいわ、誰にだって他人に言えない事情ってあるものよね。私はルエナ・ハイネル。あなたは?」
口調を和らげたルエナの様子から、あまり問い詰めないでいてくれそうなことに安心しつつ、コルは答えた。
「僕はコル・フィルラー。ところで『ハイネル』ってことは……もしかして君、あのハイネル院長の……?」
コルがそういいかけた瞬間、少し柔らかくなっていたルエナの表情が一気にむすっと不機嫌になった。
「『院長の娘』って言いたいんでしょ? 分かってるわよ。みんなそう言うんだもん。『院長の娘としては』『院長の娘なんだから』『院長の娘であるからには』……私自身がどんな人間で、どういう風に考えてるかなんて、みんな気にもかけやしないんだわ!」
ルエナがいきなりまくしたて始めたので、コルは訳も分からないまましどろもどろになってしまった。
「ご、ごめん……気にしたなら、謝るよ。そんなふうに悩んでるなんて、僕知らなかったから……」
慌てるあまり少し泣きそうになりながら謝るコルに、流石に申し訳ないと思ったらしく、ルエナは程なく怒りの矛を鞘にしまった。
「……そうよね。ごめんなさい、初めて会ったばかりなのに、分かる訳ないよね。ここ最近ずっとそのことでイライラしてたものだから、つい……ほんとうにごめんなさい」
一度波が収まると、ルエナは一転して神妙な様子になった。感情の上がり下がりは大きいけれど、根は素直なたちなんだな、とコルは思った。