4-1「クロハ」
コルが執務室の扉を叩くと、ややあって誰何の声が聞こえてくる。コルが名乗ると、「入っていいぞ」との声が答えたので扉を開いた。
コルの視界に、それほど広くはないながらもきちんと整頓された部屋の光景が広がった。そこは、コルが見習いとして師事している上級精霊師・クロハの執務室だった。幅が狭く奥行きが深い長方形の部屋は左側の壁に本棚、右側の壁にはガラス棚が置かれ、それぞれ数え切れないほどの本と道具類で埋め尽くされている。
二つの棚に挟まれる形で、部屋の中央にテーブルが置かれ、左右から二つずつの椅子に挟まれている。そしてその奥にはもう一つ、一人用の机があり、クロハはその椅子に座っていた。
濃紺に金糸の装飾が施されたコートを羽織り、黒い髪は軽い癖っ毛で、肌の色は浅黒い。両肘を机に突いて体の前で手を組み合わせ、その甲に顎を乗せて目を伏せている。その双眸には何か重要な決断を強いられているかのような揺らぎが見て取れる。
ファグイと違って特に思い当たる節はないのだが、その表情を見ていると自分の知らないうちに何か問題を起こしてしまったのではないか、とコルは内心不安になり始めた。息を詰めてクロハの次の言葉を待つ。
「……コル、実はな、今……悩んでいることがあるんだ」
クロハの口から、重々しく言葉が流れ出す。
「悩み……と言いますと……?」
コルは心臓をドギマギさせながら続きを促した。しかしその次の言葉は、コルの想像をいろんな意味で裏切るものだった。
「アグノスの町にあるロフ・ベーカリー……そこのアルベリーパイを食べるかどうか、なんだが……」
「……はゃ……?」
咄嗟にどういう反応をしていいか分からず、コルの口から奇妙な声が出てしまった。そのせいでピンと張りつめていた場の空気も一気にしぼんだ風船並にふにゃふにゃになる。
「いいか、コル、これは大問題なんだ。アルベリーは毎年春にしか収穫できない。当然、アルベリーパイも今月までの期間限定商品なんだよ。しかも私の大好物と来ている」
「じゃあ食べればいいじゃないですか」
コルは一体何を迷ってるのか分からないという風に突っ込みを入れる。しかしその実、内心ではなんとなく話の先が見えたような気がした。
「そう、もちろん、そうなんだが……あいにく今、手持がな」
「お金なら貸しませんよ」
「俺はまだ何も言ってないぞ……」
とこぼしつつも否定しないあたり、やはり図星のようだ。
師匠と弟子の立場が逆転したような情けない会話を応酬させながら、コルは内心でため息をついた。この整った執務室からも分かるように、クロハはしっかり者で優秀な精霊師なのだ——ただ一つ、金遣いの荒さだけを別にすれば。
灯護院に所属する精霊師は、衣食住及び職務上必要な物資に関しては保証されているので、給金はあくまで私物の購入や外食などに使うものだ。灯護院所属の精霊師の生活は税金で賄われており、立場としてはいわゆる公務員なので、正直給金は高くはない。
実際まだ見習いであるコルなどは文字通り雀の涙ほどしか貰えず、休日にちょっと市街地に出かけるだけでどんどんなくなっていくのだが、それにしても上級精霊師であるクロハはコルとは比べ物にならない程貰っているはずである。だからコルの次の質問は至極真っ当な疑問だった。
「……まだ前の支給日から半月も経ってないじゃないですか。給金はどうしたんですか?」
「ん……? ああ、それはだな……」
クロハはいかにも気まずそうに視線を反らしながら、手慰みに着ているコートの襟を正した。その仕草を見ていたコルはふとあることに気づく。
「そういえばそのコート、見たことないですね……っていうかなんで自分の部屋でコートなんか着てるんですか」
「えっと、それは、なんだ……かっこいいだろ?」
「買ったんですね」
「うん、まあ……なんというか」
「買ったんですね?」
「そ……そうだよ悪いかよ!」
まるで親に叱られた子どものようなクロハの開き直り方に、コルは再び心でため息を吐く。なんでこんな人の弟子になってしまったのかとこれまで何度思ったことか。
「買うのは良いですがその挙句に弟子に無心するのは最低ですよ……まさか、こんな朝早くに呼び出した要件がそれじゃないでしょうね……?」
「そ、そんな訳はないだろう。今のはジョークだ、ジョーク。かわいい愛弟子との心のキャッチボールだよ」
何を馬鹿なことをという風にあしらうクロハだったが、もはや麦一粒ほどの説得力もなかった。何しろ人の噂によれば、泣く子も黙るアグノス灯護院祓魔隊長に対して借金を踏み倒したことすらあるというのが、クロハという男なのだ。
それに、キャッチボールというかコルが一方的に投げ付けただけのような気もするが、これ以上突っ込んでも埒があかないので、なんとか口には出さずに踏み止まる。
それに、少なくとも本題は別にあるというのは本当のはずだ。コルとファグイが同時にそれぞれの師匠に呼び出されたのが偶然ということはないだろう。




