3-1「絆」
コルは、不意に胸元に温かさを感じた。視線を落とすと、胸元のペンダントが輝いていた。ランタンを模した枠に嵌められた精霊石が、かつての無色から明るい朱色へと変化していた。それは、まさにたった今現れたグリフォンと同じ色だった。
同時に、自分の心に何かが外側から触れてくる感覚があった。それは心をくすぐるような、労わるような、あえて視覚的な印象に言い換えるなら、優しく背中を撫でてくるような感覚だった。生まれて初めて感じる感覚にコルは束の間戸惑ったが、これが精霊と心を通わせる感覚なのだと気付いた。精霊には人間のように音声言語で会話する能力はないが、“名付け”によって絆を結んだ精霊師との間には特別な繋がりが生まれ、心と心で直接意志を伝え合うことができるようになる。
これまで知識でしか知ることのできなかったその“交感”を、たった今実体験しているのだと納得するに連れて、コルは生死を分ける状況にありながら深い感動に包まれた。どれほどこの時を待ち望んできたことだろう。
しかし、歯の隙間から息を押し出すような蛇なりの雄叫びに、コルの心は現実へと引き戻される。そう、今は感傷に浸っている時ではないのだ。ルエナと自分自身を生き延びさせるために、現実的な行動を取らなければならない。
コルは自分の心に触れてくるものに対して、心を開き、打ち解けようと試みた。そうしなければ、相棒となってくれた精霊・クッキーと、本当の意味で通じ合うことはできないのだ。知識はあったし、予行演習としての瞑想も習ってきたが、いかんせん土壇場でその成果を発揮するのは至難の技だった。心を開くには、気持ちを落ち着かせ緊張を解く必要があるのだが、それこそ今の状況から最も乖離した心理状態だ。
コルがまごついているうちに、妖魔は新たな精霊に邪魔された混乱から立ち直った。そして憎々しげな視線をクッキーに向け、再び攻撃態勢を取る。
「危ない! 避けて!」
コルはとっさにクッキーに向かって叫んだ。本来なら心を通じて伝えなければならないのだが、それがままならないので次善策だ。それがクッキーにどの程度伝わるのかは、コルには未知数だった。
しかし、コルの言葉が通じたのか、あるいは自分で危険を察知しただけなのか、クッキーはすぐさま横向きに飛び、振り下ろされた妖魔の大鎌のような牙をすんでのところで躱す。
精霊と妖魔の関係は、一方的な強弱関係ではなく、相互に天敵同士だ。妖魔は精霊の発する光が嫌いなので、まずは出くわさないように避けるのが基本だが、いざ鉢合わせすればどちらかが倒れるまで戦い続ける。そういう関係なのだ。
だから、妖魔は人間と精霊を同時に目の前にしたら、精霊を先に排除しようとする。妖魔に対して抵抗力のない人間は、あとでゆっくり捕食すればいい、という寸法だ。
妖魔は二度、三度と繰り返しクッキーに噛み付こうとするが、クッキーはそれを危なげなく回避する。翼がある分、クッキーはヴィーナよりも機敏だった。だがそれでもコルは、その様子をハラハラしながら見守っていた。クッキーは躱すことは出来ても、反撃は一切しなかったのだ。
その理由も、コルは習い知っていた。精霊は本来心だけの存在であり、物理的な力は持っていない。精霊が物質的な体を持ち、妖魔と戦う力を発揮するには、人間——つまり精霊師から力を受け取らなければならないのだ。
人間が“燃料”を提供し、精霊がそれを“炎”に変換する。これが精霊術の最基礎だ。しかし今、コルは心を開けずにいるが故にクッキーに十分な力を供給できていないのだ。
クッキーの心は、今もコルの心を撫でていた。しかしコルにはどうやってそれに応えればいいか分からなかった。
「……コル、しっかりしなさい! ちゃんと心を繋げなきゃ!」
予想外に近くから聞こえてきた声に、コルは茫然自失から引き戻された。振り返ると、そばにルエナが駆け寄ってきていた。妖魔がクッキーに気を取られているうちに、袋小路から脱出してきたのだろう。
「わ、分かってるけど、でも……」
「ほら、私の目を見て。深呼吸して」
『いきなり思い通りになんてできないよ』と弱音を吐こうとしたコルを遮って、ルエナはコルの真向かいに立ってコルの両肩を掴んだ。驚いて吸い寄せられるように覗き込んだルエナの瞳には、決然とした意志が宿っていた。さっきまで、いや今もまだ生と死の瀬戸際にいるにもかかわらず、ルエナは今すべきことに集中していた。それはコルにはない勁さだった。こんな風に勁くなれたら——コルは言われるままに深呼吸しながらふと、そう思った。
「……いい、そしたら心の中で精霊に呼びかけるのよ。名前を思い浮かべるだけでいいの。コルならきっとできるわ」
ルエナはまだまっすぐコルの目を見つめていた。普段ならルエナのような綺麗な女の子とこんなに見つめあっていたらドギマギしてしまうだろうが、ルエナの揺るがない視線は、そんな面映さすらも貫き通してしまったようだ。コルは、次第に自分の心が透き通っていくのを感じながら、精霊の名に気持ちを集中させた。
——クッキー……クッキー……応えて!——
すると、さっきまで心の外側に触れていたものが、自分の中に流れ込んでくるような感覚がした。初めての感覚なので驚きはしたが、不快ではなかった。それと同時に、コル自身のものではない情報や感情がコルの頭の中を駆け巡る。
空中から見下ろす大蛇の映像、背中で羽撃く翼とそれによって生まれた気流に撫でられる感触、敵意、隙あらば突き立てようとむき出した爪、足の下に空気以外何もないという浮遊感——
それらすべてが一度にコルのものとなった。今、コルは自分自身であると同時にクッキーでもあったのだ。そしてコルは、次になすべきことが自然と分かるようになった。
コルが心の中でクッキーに指示を出す。するとクッキーはコルの中から体力を少し受け取って、それを体内で精霊の炎へと変換する。一瞬ののち、それは朱色の炎の羽根となって振り下ろしたクッキーの翼から撃ち出された。




