序-1「落ちこぼれの少年」
パレセリア、そこは太陽の存在しない暗闇の世界。果てしなく広がる濃紺の虚空を飾るのは、儚く瞬く星々と、冷たく地上を見つめる月のみ。その闇の世界には、人を襲う恐ろしい怪物『妖魔』が跋扈していた。
そんな世界の中で、人々にとっての唯一の拠り所は、『精霊の灯火』だった。龍脈に沿ってパレセリアを巡る生命の源であるイリアに、精霊が点火することで生じる灯火には、妖魔を斥ける不思議な力が宿っていた。
しかし精霊は、自分自身で妖魔と戦うような力は持ってはいなかった。妖魔は精霊を堕落させ、自らと同じように変えてしまうことができたのだ。
希望の見えない時代の中、フェルネレル・ハイネルという男が、人類で初めて精霊と言葉を交わしたことから、精霊と人間による妖魔との戦いが幕を開けた。
フェルネレルは、精霊と契約を交わし、共に戦うことで妖魔を倒すことができることを発見し、また、龍脈の集中点に設置することで妖魔を寄せ付けない結界を広範囲に張ることのできる『灯台』を発明した。
そしてフェルネレルとその協力者の努力によって、この世界に最初となる人間の都市、アノシアスが誕生したのである。フェルネレルはその後、灯台を護り拡げていくために『灯護協会』を設立し、その働きは代々後継者に受け継がれ、時代と共に発展を遂げていくこととなった。
しかし、パレセリアを覆う闇は深く、大きかった。灯護協会はこれまで研究と開発を続け、いくつもの灯台を建設し、その麓に都市を開発して来たが、それでもまだ、パレセリアの殆どの地域は、暗闇と絶望に覆われていた。
アグノス灯護院の広い大理石の廊下の中を、焦げ茶色の髪の少年・コルは物思いに沈みながら、たった一人で歩いていた。アグノス灯護院は灯護協会が設立した中でも古参の灯護院であり、その建物は時代の流れによる劣化を感じさせつつも、だからこそ生まれる貫禄と威厳に満ち溢れていた。
休日や休憩時間であれば多くの学院生や精霊師たちが行き交うこの大回廊であるが、今の時間にここを通っているのはコル一人だけだった。他の学院生たちは今頃、契約を交わした相棒であるそれぞれの精霊と、心を通わせる訓練をしているはずだ。
しかしその教練場には、コルの居場所はない。なぜならコルは、未だ自らと心を通わせる精霊と出会っていないからだ。
コルは胸に、ランタンを模した形のトップに涙型の宝石がはめ込まれたペンダントを下げていた。この『精霊石』は持ち主が灯護協会の一員であることの証明であると同時に、契約した精霊を宿すための家でもあった。精霊の宿る精霊石はその精霊の持つ『炎色』に染まるのだが、当然コルのそれは無色透明だった。
通常、人間の目に精霊は見えない。精霊は自ら認めた人間の前にのみその姿を現すのである。人にはただ、それを待っていることしかできない。精霊に選ばれる条件は人には分からないが、出会うべき精霊と人はいずれ必ず出会うものとされていた。
しかし、現実はそういつまでも運命を待ってはくれない。灯護協会では精霊師になる見込みのない学院生に見切りをつけるために、満十二歳になるまでに精霊と出会うことのできなかった学院生は、退学させられることに決まっていた。そしてコルにとっては、その期限はわずが半年後に迫っていたのだった。
コルは大回廊の途中にある十字路にたどり着くと、そこを右折して脇道に入った。その先には、アグノス灯護院が誇る大図書館があるのだ。そこはコルが精霊がいないために授業に出られない時に決まって訪れる、憩いの場所だった。
大図書館には精霊やイリア、灯台や妖魔に関する学術書から遠い昔の伝説に関する叙事詩まで、広範な書物が所蔵されていた。コルは学問が取り立てて得意ではなかったが、歴史や伝説などの物語が好きで、そういう本ならいくらでも読んで時間を過ごすことができた。
もっとも最近では、過去の高名な精霊師の伝記などを読んでも、却って落第寸前の自分と比べて鬱々としてしまうことも多いのだが。
廊下を進んでいくと、右手にアグノスの町のある南側に向かって開いた窓にたどり着いた。何とは無しに窓の外を見やると、目下に町の風景が広がった。
アグノス灯護院は小高い丘の上に建っているので、そこから眺める下町の風景はなかなかのものだった。町を照らし出す灯台は灯護院の北端にあるので、協会から見下ろす町は順光を受けて明るく照らし出されて見える。
赤茶色の三角屋根を持つ白い家々が建ち並び、その間を蜘蛛の巣状に道路が走っている。そしてそれらの道が交錯するところに広場があり、広場の先に市場通りが続いているところまで、一目で見渡すことができた。
そして、市街地の先には農民たちの暮らす、草に覆われた丘陵地が見える。緩やかなウェーブを描く丘を越えた先には、灯台の光の届かない荒地、極夜域が続いていた。そしてそこから目を上げると、地平線の上に広がるのは瞬く星々に飾られた暗い空だった。