73.勇者グスカスは、ボスを前に完全に無力
元勇者グスカスは、ネログーマ近くの海底ダンジョンまでやってきた。
一人先行したグスカスは、突如襲ってきた水流に飲まれてしまう。
「ゲボッ! ゴボッ! く、くるじぃ~……」
激しい水の流れに、グスカスはなすすべ無く翻弄された。
嵐のなかに放り込まれた木の葉のようだ。
「げぼっ! ガッ……! だ、だずげ……だずげ……!」
必死になってもがく。
だが今の彼の力では、この激流から脱することは不可能。
「ガハッ……!」
ついにグスカスは、体から最後の酸素が出て行った。
脳に酸素が行かず、気を失いかけたそのときだ。
ガシッ……!
誰かがグスカスの襟首を、掴んで持ち上げたのである。
「だ、れ……」
もうろうとする意識のなか、ぐんっ……! と強い力で後ろへ引っ張られる。
ざばーんっ!
「ガハッ……! はぁ……! はぁ……! はぁ……! はぁ……」
気づけばグスカスは、水流から脱出できていた。
むき出しの地面に仰向けに倒れ、荒い呼吸を繰り返す。
「げほっ! ごほっ! し、死ぬかと思った……」
グスカスはゆっくりと半身を起こす。
「……大丈夫ですか?」
「なっ!? ぼ、ボブ……てめえ……」
そこにいたのは、黒髪で小柄な少年ボブだ。
髪と服から水をぽた……ぽた……としたたらせている。
「てめえが、助けたのか……?」
「……ええ、不本意ながら」
ボブが、実に嫌そうに顔をしかめる。
どうやら本当は助けたくないみたいだった。
「ちっ……! 余計なことするうじゃあねえぞ。誰が助けてって頼んだよ」
「……みっともなく泣き叫んで、助けを求めてたのは、どこの誰ですか?」
「うっ、うるせーよ!」
グスカスは犬歯を向いて叫ぶ。
「俺様は自力で助かったんだ! それをてめえが余計なことしやがって!」
「……はぁ」
ボブが大きくため息をつく。
「んだよ態度悪いなぁ!」
「……もういいです。あなたには何も期待してません。……くしゅんっ」
ボブがくしゃみをする。
水のなかに飛び込んで、体が冷えてしまったのだろう。
「いっとくが礼は言わねえからな」
「…………」
ボブは無視すると、おもむろにシャツを脱ぐ。
「なっ!? お、おまえ……」
それを見て、グスカスは大きく目を見開く。
「……? なんですか?」
「いやおまえ! 【女】だったのかよッ!」
……そう。
そこにいたのは、黒髪ボブカットの……可憐な少女だったのだ。
「は? ……何言ってるんですか、ぼくは男ですよ?」
確かに少年のような細い体つきだ。
だがしかし、うっすらとだが胸のラインがあり、腰はくびれていた。
「どう見たって女だろうが! 早く服を着ろ! 痴女が!」
「……変な人。まあわかってましたけど」
ボブはため息をつくと、いそいそと服を着る。
「てめえ俺様を騙してたのか? 女のくせに男っていいやがってよ」
「……だから、ぼくは男ですよ。変なこと言わないでください」
……よくわからないが、この女。
自分を男と思い込んでいるようだった。
だがその裸身はまさしく少女。
しかもよく見れば、雫やキャスコに負けず劣らずの美少女だった。
「ちっ……まあどうでもいいけどよ」
グスカスには雫という、愛する女がいるのだ。
「ところで……ここはどこだよ? ダンジョンのなかだよな」
「ええ。さっき居たところから、大分流されましたけど」
周囲を見渡す。
そこで、グスカスは気づいた。
「なんだぁ……あの扉は?」
進んでいった先に、巨大な石の扉を見つける。
「まさか……迷宮主の部屋か……?」
「……グスカスさん。何やってるんですか、いったん戻りますよ」
「あぁ!? 俺様に命令するんじゃあねえぞボケカスがぁ!」
グスカスにとって一番腹が立つのは、誰かに命令されることだ。
「……どうしてあなたは、そう偉そうなのですか?」
「偉そう、じゃねえ! 俺様は偉いんだ! 女神に選ばれた特別な人間なんだからな!」
「……意味不明です。ほら、帰りますよ」
ボブがグスカスの手を掴もうとする。
「うるせえ! 帰るならてめえ一人で帰りやがれ!」
グスカスは扉に手をかける。
「ちょっと! 何をしてるんですか!?」
「決まってるんだろ、ダンジョン探索だ」
「馬鹿ですかあなた!? リーダーが言っていたでしょう!? 単独行動は危険だと!」
「っせーな! 手柄は俺様のもんだ!」
だっ……! とグスカスが走り出す。
「あっ!? ちょっと……って、通信魔法? ジュードさん!」
ボブが止まって、耳に手をやる。
「ええ……ええ。実は迷宮に……はい。迷子になってしまって……ええ……」
なんだか知らないが、ボブはジュードと会話しているようだった。
好都合だ。
今こそ、手柄を独り占めにする時!
「そんな……今デート中だって……え? あっ! ちょっとグスカスさん! どこへいくんですか!?」
グスカスはボブを無視して、扉を開ける。
ごごごごご……!
扉がゆっくりと開き、グスカスは中に入る。
「なんだぁ……? 馬鹿広いホールみてえだな……。あん? なんだあのクリスタルは……?」
何もないホールの奥に、台座に収まる青い結晶があった。
「アレだ! きっと迷宮核ってやつだ! ラッキー!」
だっ……! とグスカスが走り出す。
アレを破壊すれば、任務完了。
「手柄は俺様のもんだぁああああ!」
グスカスが迷宮核へと、手を伸ばした……そのときだ。
じょきんっ……!
ボトッ……。
「………………あ?」
足下に、何か重いものが落ちたような音がした。
一瞬何が起きたのかわからなかった。
「腕……え? ……おれの、腕……え? ……ない?」
あるはずの、自分の利き腕。
それが、肘から先が、なかったのだ。
「う……うで……腕がぁあああああああああああああああああああ!!!!」
遅れて、凄まじい痛みが、切断面からする。
ぶしゃあぁああ! と利き腕から激しく血が吹き出る。
「あぁああ痛い痛い痛い痛いぃいいいいいいいいい! 痛いよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
グスカスはその場に倒れ、無様に転がる。
眼前に切断された自分の腕があった。
それを視認して、ようやく、グスカスは状況を飲み込んだ。
突如として腕が、何者かに斬られたのだ。
では……いったい誰がやったのか?
「GUROROROROROROROOOOOOOOOOOOOOO!」
グスカスは気づいた。
自分のすぐそばに、【巨大な何か】がいることに。
「か、蟹ぃ……?」
そこにいたのは、巨大な蟹型モンスターだ。
ただし、ただのモンスターではない。
6つの腕を持ち、鋭利なハサミもまた6つ。
背中の甲羅は、ともすれば人面に見えなくもない。
……勇者パーティ時代に、見たことがある。
「【阿修羅蟹】……SS+ランクの……モンスターじゃねえか……!」
☆
迷宮主がいると確かに聞いた。
だがそれが、こんな化け物だとは思わなかった。
かつて、勇者だった頃、グスカスたち勇者パーティは、こいつを倒したことがある。
だがあのジューダスをもってしても、倒すのにかなり苦戦を強いられていた記憶があった。
……グスカスやキャスコは、後ろで見ていただけだが。
それはさておき。
「GIROROROROROROROROROOOOOOOOO!」
巨大な6腕の蟹が、その大きすぎるハサミを持ち上げる。
「ひっ……!」
グスカスは、立ち向かうことはおろか、逃げることすらできなかった。
腕を切断されたからだろう。
いつもの虚勢すら張れなかったのだ。
ぐぉっ……!
阿修羅蟹がハサミを、グスカスめがけて、槌のように振り下ろす。
死んだ……と思ったそのときだ。
「たぁああああああああああ!」
彗星のごとくボブが飛翔し、阿修羅蟹のハサミを蹴り飛ばしたのだ。
ガギィイイイイイイイイイイン!
凄まじい衝撃とともに、ハサミは後方へと弾かれる。
「いっつぅ~~~~~~!」
ボブは着地すると、自分の足を押さえてうずくまる。
「お、おい……だいじょぶか……?」
「逃げて! 早く!」
グスカスは気づく。
ボブの足が、真っ赤に腫れ上がってることに。
「お、おいおまえ足が……」
「良いからさっさといって! 死にたいのですか!?」
ボブが前方をにらみつける。
阿修羅蟹は何事もなかったかのように、グスカスたちを見下ろしていた。
攻撃を当てたはずのハサミには、刃こぼれひとつない。
「そんな……あのボブの蹴りを食らって、まだピンピンしてやがる……」
グスカスは戦慄する。
彼……いや、彼女の強さは、間近で見てきたグスカスがよく知っている。
ジュードには劣るものの、十二分すぎるほどチートな強さを持ったボブだ。
それでも……かすり傷一つつけられない。
それが、SS+ランクモンスター。
魔王四天王に比肩するほどの、強力な存在の実力と言うことか。
「GUROOOOOOOOOOOOOOOOOO!」
阿修羅蟹が両手を広げ、巨大なハサミで、文字通りグスカスを挟撃しようとする。
「くっ……!」
ボブはグスカスを俵のようにかかえると、その場から跳躍して回避。
ザシュッ……!
「あっ……!」
彼女の右足に、ハサミがかすった。
健康的なふくらはぎが、ざっくりと裂ける。
ボブはグスカスとともに、地面に転がる。
「……はやく、あなただけでも、逃げて」
ふらふらとボブが立ち上がり、構えを取る。
「GUROOOOOOOOOOOOOOO!」
阿修羅蟹がまたハサミを振り上げる、6腕を使い、連続してボブに打撃を与える。
ドガガガガガガッ!
ボブはそれを、凄まじい早さで拳をくりだし迎撃する。
だが敵の方が手数も速さも増さっているのだろう。
最初は捌いていたボブだが、しのぎきれず、全身に拳を受けて吹き飛ぶ。
ドガァアアアアアアアアン!
「ガハッ……!」
ボブは血を吐いて、その場に崩れ落ちる。
グスカスはその姿を、呆然と見守ることしかできなかった。
腕が切り飛ばされた痛みは、もうなかった。
今あるのは、怯えだけだった。
ガタガタガタガタ…………。
あの最強のボブですらも、かなわない相手。
それを前にして、職業のないグスカスが……いったい、何ができるというのか?
……何もできない。
ただ、自分は食われるだけ。
「いやだ……嫌だ嫌だ死にたくない……死にたくない……」
グスカスはボブがピンチだというのに、体を小さく丸めて、ことが過ぎるのをじっとまった。
立ち向かうこともせず、ただうずくまり、ひたすらにビクビクと怯えることしかできない。
……しかし、その一方で、ボブは立ち上がる。
グスカスの前に立ち、ファイティングポーズの構えを取る。
「まだだ……ぼくは……守る。たとえ……相手が誰であろうと、力なき人のために戦う……」
満身創痍のみであっても、ボブの闘志は潰えていない。
燃える瞳で、ボブは阿修羅蟹をまっすぐ見やる。
「ぼくの力は……そういう人たちを守るため、ぼくに与えられたんだ! だからぼくは逃げない! 絶対に!」
「GUROOOOOOOOOOOOOOOOOO!」
阿修羅蟹の6腕が、ボブに殺到しようとした……そのときだ。
「よく言った、少年」
ザシュッ……!
突如として、6つあったその腕が、一瞬にして切断されたのだ。
「あなたは!」
ボブは、希望に満ち満ちた目を。
「てめえは!」
グスカスは、怨嗟に満ちた目を。
「「ジュード!」」
魔剣を片手に現れた、英雄の姿に……向けるのだった。




