68.勇者グスカスは、英雄と邂逅し、人としての格の違いを思い知らされる
元勇者グスカスは、リヴァイアサンに食われそうになった。
ボブの手により窮地は脱した。
しかし冷たい海に一人取り残されてしまった。
話は数時間後。
ネログーマ国の王都【エバシマ】にて。
「く、くそ……やっ、やっとついた……」
グスカスは体を震わせながら、エバシマ外壁の門を潜る。
彼は2月の海に突き落とされた後、自力で陸地へ上がり、ここまで歩いてきたのだ。
「さ、さみぃ……し、死にそうだ……」
季節は冬。そして夜だ。
日差しがなければ気温はマイナスにまで達する。
ぬれたからだと衣服で、こんな極寒の夜のなか歩くことは、自殺行為に等しい。
グスカスは体を震わせ、鼻水を垂らしながら、びしょ濡れの体を引きずるように歩く。
足取りは重い。
ここまで来るので、体力をかなり使っていたからだ。
「くそ……あのホモガキ……俺様にひどいことしやがって……後で会ったらぶっころしてやる……」
「やだ……あの人きもちわるい……」
脇を通りかかった通行人が、グスカスを見て不快そうに顔をしかめる。
頭から靴の先まで、全身濡れ鼠のグスカスは、なるほど端から見れば海に落ちて死んだ幽霊のように見え無くない。
通行人から侮辱されても、しかしグスカスは反論しなかった。できなかった。
そんな体力が、もう残っていないからだ。
「ちくしょう……もうだめだ……頭がくらくらする……腹も減った……寒い……」
体が氷のように冷たい。
意識が遠のいていく。
早く濡れた体を拭き、暖まりたい。
だがそれには金がいる。
グスカスが持っている金は、海に落ちたときにすべて失ってしまった。
連れである雫と早く合流しないと凍死してしまう。
だがこの広い街のなか、いくら探しても雫が見つからない。
向こうもこちらを探しているはずなのに、不自然なほど、見つからなかった。
……やがて、どれだけ、雫を探し歩いたか。
だがしかし、彼女の姿は見えなかった。
「……もう、駄目だ」
グスカスは、道路の真ん中で崩れ落ちる。
立ち上がる気力も体力も、もはや無い。
「……おれ、しぬのか」
倒れているグスカスを、しかし誰一人として、気にとめようとしない。
彼らがドライなのか?
否、普通の人なら、こんな怪しい風貌の男に、近づきはしないだろう。
見ず知らずの、しかもびしょ濡れで、人相が悪い男を、いったい誰が助けるというのか。
「もう……だめだ……」
グスカスが生きることを手放そうとした、そのときだ。
「おい、あんた、大丈夫かー?」
グスカスは、うっすらと目を開ける。
そこにいたのは、よく見知った顔。
「……ジュー、ダス」
ジューダス・オリオン。
今はジュードと名前を変えて、田舎で喫茶店のマスターをやっている、指導者のおっさんだった。
☆
ふと、グスカスは目を覚ます。
一番最初に感じたのは、心地よい暖かさだ。
目を開けて、周囲を見渡す。
自分はどこかの部屋の、ベッドの上に寝かされているようだ。
部屋の隅には暖炉があり、火がくべられていた。
窓の外を見やる。
月明かりが室内を淡く照らしていた。
窓にはびっしりと結露が張り付いている。
「……ここは、どこだ?」
そのときだ。
「お? 気づいたかー」
ガチャリ、とドアが開き、ジュードがやってくる。
「……ジューダス」
ジュードはグスカスの寝かされているベッドの脇までやってくる。
手にはお盆。
そしてお盆の上には、温かそうなシチューとふわふわのパンがのっていた。
ごくり……とつばを飲む。
「目が覚めたか。……うん、体力は回復したみたいだな。異常も無し」
「……またお得意の【見抜く目】かよ。相手の許可無く使うんじゃねーよ。失礼だろうがよ」
「すまんすまん。ただ減らず口を言うくらいには体力が回復したみたいで、安心したよ」
ジュードはにこやかに笑う。
……そこに、裏表は存在しない。
彼はいつも超然としている。
余裕がある。
嵐が来てもびくともしない、巨大な樹木のような男だ。
何事もにも動じずにいるその大人の余裕に、グスカスは腹が立った。
「……ここどこだよ?」
「俺の泊まっているホテルだよ。おまえ、びしょ濡れで倒れてたからさ。ここまで俺が運んだんだ」
ということは、ぬれた体を拭き、服を着替えさせたのもこのおっさんということになる。
「……帰る」
「おいおい無理すんなよー。泊まってきな」
「うっせえ。誰がてめえの言うことなんて……」
ぐぅ~~~~~~~~………………。
「腹減っただろ。それ食べな」
ジュードがシチューとパンを指さす。
「誰がてめえなんかから施しを……」
ぐぅ~~~~~~~~………………。
「ほらほら、腹が減ってはなんとやらだ。おまえが食べないんだったら、昔みたいに俺があーんして食べさせちゃうぞー?」
子供の頃の話だ。
風邪を引いたグスカスの看病を、このおっさんが見てくれたことがある。
自分の家族よりも父親よりも、誰よりも先にグスカスの風邪に気づき、一晩中看病してくれたことがあった。
……だから、なんだ。
「やめろやおっさん! キモいんだよ! 近づくんじゃねえ!」
グスカスが払いのける。
「あ、そう。じゃ自力で食べてくれな」
ジュードは微笑んでいる。
……そうだ。
こいつは、いつもこうなのだ。
いくら罵倒しても、彼だけはグスカスの元を離れていかない。
グスカスの周りの人間たちは、少し関わると、みんな嫌な顔をして離れていくのに。
このおっさんだけは、こちらが拒絶しても、近づいてくる。
……しかもグスカスが落ち込んでいたり、弱っているときには、必ず向こうから歩み寄ってくる。
そんなこいつが……嫌いだった。
「……ちっ」
グスカスはシチューの器を奪うと、がつがつがつ! と食べ出す。
……泣きたくなるほど、美味かった。
塩気の強いそのシチューは、グスカス好みの味付けだ。
野菜は少なめで、鶏肉は大きめにカットしている。
パンをかじる。
それはグスカスの好物、ブドウパンだった。
ふわふわで柔らかく、ブドウの甘みと酸味が口の中に広がって美味い。
隠し味にマーガリンが入っている。
……不自然なくらい、グスカス好みの献立だ。
ややあって、グスカスは食べ終わる。
「おかわりいるか?」
「……いらねーよ」
「遠慮すんなって。ちょっとまってなー」
ジュードは立ち上がると、部屋を出て行く。
「い。いらねえよ! それに……おれ……いま……金ないし……」
すると彼は苦笑すると、こういった。
「ばかやろ。金なんて取るかよ。良いから遠慮なんてしなさんな。寝てろよー」
ジュードは柔らかい声音で、グスカスにそう言うと、その場を後にする。
……そこで、グスカスはようやく、気づいた。
「……食堂なんてとっくに閉まっている。……あの野郎が、作ったのか」
グスカスは得心がいった。
どうりで、自分好みの飯が出てくるなと。
「…………」
グスカスは不思議だった。
なぜ、あの男は、追放した張本人を前に、こんなにも優しくしてくれるのだろうかと。
グスカスは、王都を追放されてから今日まで、いやというほど思い知らされた。
自分がちやほやされていたのは、グスカスが王子で、勇者だったからだ。
だがその二つを失ったグスカスに待っていたのは、非情な現実。
人は、何の見返りもなく、優しくしてくれないと言うこと。
王都を一歩出たこの世界では、誰もがグスカスに冷たく当たった。
誰もがグスカスを馬鹿にした。
……けれど、そんな中で、ジュードだけが優しくしてくれた。
酷いことをした本人なのに。
なぜあいつだけが、昔と変わらず、優しくしてくれるのか……。
……ポタッ。
「……ああ、クソッ。なんだよ、なんで、泣いてるんだよ、おれは……」
涙は後から後から、こぼれ落ちてきた。
止めようと思っても無駄だった。
「……チクショウ。チクショウ。チクショウ」
グスカスは気づいた。
これは、うれし涙なんかでは、決して無いと。
グスカスは、悟ったのだ。
いや、痛感させられたと言ってもいい。
元勇者と、指導者の間にある、絶対的なまでの差を、だ。
自分とジュードとでは、人間としての格が違う。
勇者であるグスカスの方が、上であるはずなのに。
自分の周りには誰もおらず、やつの周りには、常に人であふれている。
みな、ジュードを好いている。
ガオカナで見かけた、彼の取り巻きは、みなジュードに好意を向けていた。
キャスコもそうだ。
自分の愛した女は、グスカスではなく、あんな倍以上も年の離れたおっさんに心を奪われている。
昔は、キャスコがジュードに恋心を向けていたことに対して、怒りを覚えていた。
いったい、あんな男のどこがいいのかと。
……だが、今となってはわかってしまった。
わからされてしまった。
あの男は別格なのだ。
強く、正しく、そして……優しい。
誰に対しても、分け隔て無く、救いの手を差し伸べる。
たとえ相手が、自分を追放した加害者であっても。
そこに困った人がいれば、しゃがみ込んで手を差し伸べる。
寒さに震える人には暖を、腹を空かせる人には飯を、無償で施す。
そういうやつなのだ、ジュードという男は。
……そういうやつが、英雄と呼ばれるに、ふさわしいのだ。
「ぐす……チクショウ……認めてねえ。おれは……認めねえぞ……」
口から出たのは、そんな強がりだった。
本当はとっくに認めていた。
ジュードという存在を。
自分の敗北を。
……だが、それを口にしたら、おしまいだと思った。
「俺様は……グスカス。王の息子で、女神に選ばれし勇者なんだ」
ふらつきながら、グスカスは立ち上がる。
そして部屋を出て行く。
「認めねえ。俺様は……絶対に認めねえ……」
ここまで酷い目に会い続けて、彼に優しくされて、安らぎを覚えたこととか。
彼と自分との間にある、人格の差とか。
彼への強い敗北感と劣等感とか。
……そういった諸々を、あそこにいたら、認めたことになるような気がした。
だから、グスカスは。
ジュードに別れも、感謝の言葉も言わず、その場を立ち去ったのだった。




