Tales 112【サフォーク州の悪夢】
大気そのものにヒビを入れそうなほどに響き渡った産声は、もはや絶叫というより絶唱だった。
空気を割り、時を引き裂く濁音に影を縫い止められたのは、人も馬も魔物も関係ない。
雷鳴と共に現れたずぶ濡れの黒に、誰もが目を奪われている。
ハウンドリカオンに似たシルエットながら圧倒的な異物感を放つ出で立ちに、馬上の「音越え」から生唾を飲み込む音がした。
「おいスケコマシ」
「なに?」
「ありゃ、なんだよ。なんだあの、ずぶ濡れの真っ黒は。犬か? 狼か? それとも魔物かよ?」
「どれにも近く、でも正確じゃないな」
「じゃあ、なんだってんだ」
「⋯⋯"伝説"だよ。さっき語ってみせた通りね」
イーストアングリアの伝説──【ブラックドック】。
古くからイギリスにて言い伝えられて来た黒き犬の名を、一度は聞いた事があるのではないだろうか。
黒い体毛。燃えるような紅い瞳。
暗き夜に現れる不吉の具現たるその犬の発見報告や遭遇記録を辿れば、多岐に渡るほど。
黒妖犬、幽霊犬、ヘルハウンド⋯⋯と、呼び方さえ枚挙に暇がないほどの、英国方面では誰もが知る民間伝説。
それがブラックドックであり、【ブラックシュック】は彼らの中でも一際大きな体躯を持つとされる一種である。
じゃあ何故、今回再現したのはブラックドックではなくブラックシュックなのか?
簡単に言えば──シュックの方が"都市伝説っぽい"のである。
都市伝説っぽいから。
そう聞けばかなり単純かつテキトーな響きかも知れないが、これは『都市伝説を再現する』という異能にも、『都市伝説愛好家』たる俺のこだわり的にも譲れない要素なのだ。
そんで肝心の、シュックの都市伝説っぽさとは何か。
一つは、地域民への捉えられ方だ。
ブラックシュックは、イーストアングリア地方におけるブラックドックの一種だ。
だが、妖精や使い魔的な存在として認知されてるブラックドックと違い、どちらかといえばネッシーや雪男と云った『UMA』的な存在として認知されている事だ。
この違いが、都市伝説的側面を測る時に大きいのは言わずとも分かるだろう。
もう一つは、都市伝説的の大事な要素でもある『近代的側面』だ。
シュックの発祥伝承自体は、目新しいものじゃない。
むしろ最古の物を掘り返せば約五百年以上も昔のものになるほど、かなり歴史ある伝説だ。
けれども近年、ブラックシュック発祥の地でもあるイーストアングリア地方のサフォーク州のとある遺跡にて『全長ニメートル以上の犬の骨』が発見された。
そう。まさにこの巨大な犬の骨が、五百年以上昔から囁かれ続けた伝説の幽霊犬、ブラックシュックのモノではないか、とイングランド中を騒がせたのである。
ネッシーの様に、亡骸から存在が夢想された伝説ではなく。
近代になって存在が再び語られだした、かつての伝説的UMA。
それが──【ブラックシュック】だ。
「伝説、ねぇ。いまいちピンと来ねぇな。ハウンドリカオンもご自慢の犬コロも、俺っちからしちゃ同じにしか見えねぇよ」
「⋯⋯ま、知らない側から見りゃそーかもね」
なんて御高説も、異世界人からすれば良く分からない御伽噺に聞こえるか。
どう言い繕ったって、あのずぶ濡れの黒犬がどういうものかなんて分かりようがない。
UMA、つまりは未確認生物な訳だし。
魔物。妖精。UMA。
どれも近しく、どれも正しくもあるだろう。
けれども最も相応しい形容で、"彼"を語るとするならば──
「でも、ま、強いて言うなら」
「言うなら?」
「──『死神』」
不吉の象徴。死へと結び付く犬。
つまりは、死神。
命を脅かす存在として、きっとこれほど相応しいものはない。
故にその名は、冥き伝説として多く広くに囁かれたのだろうから。
「⋯⋯⋯⋯ハッ。ピンと来やがったぜ」
「そいつは何より」
神妙に顔を歪めるライに頷いて返して、平原に群れる黒と黑を見つめる。
風が千切った草花の破片に目もくれず、合図もなく。
『ギオ』
告死の巨躯が雄大に、その地を蹴った。
────
──
【サフォーク州の悪夢】
──
────
真っ黒な虹を描くような跳躍だった。
跳躍。跳ねて躍る。それだけ。
襲いかかる為のものでもなく、敵を屠る為の予備運動でもない。
ただ跳びたかったから跳んだだけ。
凝った身体を解す為だけの、軽く伸びやかな躍動で、シュックは眼前の群れの前へと降り立った。
けれど。
たったそれだけで、怖じ気を走らせるようにハウンドリカオン達の毛が逆立った。
【グルルル!】
【バウッ!】
【ガウッ!】
魔物と云う異質とて、異質を嫌うもの。
明らかに密度の違う対面の黒犬に、狼たちはこぞって臨戦の構えを作るが、ずぶ濡れの黒は泰然としたまま、狼たちを睨み付けていた。
その赤紅とした血眼で、ただじいっと。
【ッ、ゲアウッ!!】
⋯⋯気に入らない。
狩る側の我らを前に、身動ぎひとつすらしない様も。
ただ墓標を見つめているかのような、血濡れた眼差しも。
危険だと告げる、己が獣の勘も。
至る全てが気に入らないと叫ぶが如く。
群れの一匹が蛮勇に駆られ、目前の"一つ"に飛び掛かってみせる。
勇ましい。まさに狩る側としての矜持を示す、見事な到来だった。
しかし。
『⋯⋯ギィ、オ』
示した蛮勇は所詮、愚かしいものである。
ボウッ⋯⋯と。
耳元で鳴った、焔が疾走る音すら耳に届かない刹那。
黒い狼の体躯は、黒い死神の"灼熱を纏いて朱に染まる爪"に。
呆気なく、焼き千切られて。
『ギィ、オォ⋯⋯!』
その蛮勇の終わりは、即ち。
蹂躙の始まりを告げる、狼煙だった。
◆◇◆◇◆
狩る側が、狩られる側に回った。
繰り広げられる蹂躙劇を形容するなら、まさにそうとしか思い浮かばないのは、狼達からすればなんて皮肉なんだろうか。
「⋯⋯つっよ」
飛びかかってくるハウンドリカオン達が、みるみる内により黒い灰に変わっていく。
赤染めの爪にくびられた一匹は焼き尽くされ、黒い牙に噛み砕かれた一匹は声もなく掻き消え、喉に喰らいついた一匹は強靭な前足に振り飛ばされた。
無論、リカオン達も黙ってやられている訳じゃない。
数の利を活かして次々とシャックの元に到来し、何匹かはシャックの巨体に牙を突き立てている、けれども。
【ガウ!?】
『────』
傍目に見ても、効いていない。
正確にはあの大量の毛に妨げられて"届いて居ない"、が正しいのかも知れない。
事実、喰らいつかれたシャック自身も揺らいだ様相一つなく、煩わしそうに喉元の一匹を燃やし尽くしている。
一対多なんて状況をものともしない。
種のみならず存在としての格の違いを見せ付けるような圧倒っぷりだった。
(想像以上。というよりは、"流石"って感じだな)
想像以上に圧倒的。でも想定外だった訳じゃない。
ブラックシュックは、ブラックドックの親戚みたいなものだ。
つまりは、多少知名度は劣れども、あのブギーマンと同じ『ワールドワイド』な訳で。
かつて「嵐の夜に雷光と共に現れ、二名の死者を産み、教会の金属張りの扉に多くの焼け焦げた引っ掻き傷を残し、そして煙のように消えた」とされる原典からしてみれば、あれほどの力を有しても別段可笑しくないだろう。
「"触れれば燃えちまう爪"に、"牙を通さねぇ毛むくじゃら加減"。しかも吠える度に魔物相手でも怯ませてやがるあの咆哮⋯⋯死神ってのはふかしじゃねぇみたいだな」
「当っ然。都市伝説ってのは尾ひれ背びれは付き物だけど、語り手たるもの『誇張』はしても『ふかし』はご法度だかんね」
「良く分からねぇルールがあんのな」
「ルールじゃないな。言うなれば⋯⋯」
「言うなれば?」
「こだわり、ってとこかな」
「⋯⋯そうかよ」
カラリと吹く風の音に似た、ライの適当な相槌に思わず苦笑が浮かんだ。
現代ですら理解を集められそうにないこだわりだ、そりゃあ分かりっこないだろう。
「⋯⋯たまんないな、やっぱ」
でも。例え理解を得られずとも。
都市伝説を再現する瞬間は。
夢中で追い掛けた物語達が、自分の言の葉で形になってくれる実感は。
やっぱり、何度味わっても最高だった。
しかし、至福の時にこそつまづきやすいのが人の性。
最高の瞬間には、相応のリスクが潜んでいるもの。
とはいえ俺の場合、潜むどころか全力で代償の支払いをせがんでくる訳だ。
「だがな、男がこだわる以上は胸張って鼻高々でなくちゃ締まらねぇだろ。死に体で語ったところで箔はつかねぇぞ?」
「死に体って。俺、そんな酷い顔してる?」
「飲んだ酒に呑まれた朝のへべれけ共とおんなじよーな面構えしてんな」
「あー⋯⋯うん、分かりやすい。おかげで鏡は要らなくなったな」
「口数減らねぇ辺りは、飲んだくれの末路よかマシだぜ」
闘魔祭って大舞台を乗り越えて一皮向けたかなって思えども、強力な能力の反動が軽くなってくれる訳もない。
新規再現と同時再現の反動で、滅茶苦茶しんどい。
きっと、無病息災と縁切りかまされたような顔になってんだろう。
呆れ顔の音越えさんにせめてもの強がりを見せれば、液体の詰まったガラス瓶を突き出された。
「おら、受け取れ」
「これ、ポーション?」
「団長からだ。スケコマシがヘバッたとき用の保険ってとこだろうよ」
「⋯⋯保険ね。気が利く団でなによりだよ」
「うちの団にゃスケコマシみてぇに無鉄砲なバカが多いからな」
「なるほど、あんたが言うと説得力あるね」
「現にヘバッた大馬鹿に言われたかねーな」
試みた反撃もばっさり切られたせいか、ポーションの苦さが一層喉に来る。
けども身体中を蝕む再現反動は、徐々に和らいでいった。
ポーションを予め用意してたってことは、無茶する馬鹿だってすっかり浸透してくれたってことなんだろう。
やっぱ、そんくらいの扱いが心地良いし丁度良い。
セリアにゃ頭が痛い話かも知れないけれど。
「胸張って、鼻高々に、か」
「あん?」
「や。おっしゃる通りだって話」
精霊奏者でも、クリスタルサモナーでもない。
ただ変わった物語を語りたがる、変わり者な流れ者。
そんな身軽さで改めて見つめる【都市伝説】の姿は、やっぱり、たまんない。
『ギィヤォォォォォォォ!!!!』
興奮と安堵の熱に、ひっそりまばたいた視界の先で。
不吉の狼を蹴散らしたサフォーク州の悪夢が、噛み付かんばかりに空へと吠えた。