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Tales 90【光について】

「……『可哀想』と思われたくなかったから、か。蓋を開けて見れば、辛気くさい理由だ」


「キッツい言い方。でも、ルークスの言うとおり、暗いし馬鹿げた動機だ。メリーさん達に一発ぐらい殴られたって文句は言えない」



 ルークスのバッサリとした一刀両断の物言いが、むしろこっちとしてはありがたかったのかも知れない。


 こうして都市伝説に関わる切っ掛けまで語ってきた訳だけど、全うに自分を見つめられる今ならば分かる。

 本当に辛気くさくて、幼稚で、ひねくれていて。

 無我夢中な衝動だったんだな、って。



「あん時は……ホント、切羽詰まってたんだよ色々と。責める時は散々責めてくれた癖に、今更になって可哀想って言われるのが凄く嫌だった」


「大衆ってのは、そういう生き物だろ。個人の背景に寄り添おうとするほど、抱える心の模様には目を向けられない」


「……」


「或いは、履き違えた絵画の観賞と同じか。描かれた絵の中身を理解する事より、理解出来たことで浸れる優越感を後生大事にするような。可哀想より、可哀想と言える人間にありたがる善性欲が、見え透く『同情』……それが何より許せなかったんだろう、お前は」


「……心理カウンセラーになれるよ、あんた」



 全員が全員、そうという訳ではなかったけど。 

 それでも粒光る星を見つめながら断じた(アカ)の他人の、呆気なく素っ気のない言の葉を。

 否定しようとは、思わなかった。

 実際ぐうの音も出ないくらいに図星だし。


 けれど同時に、この謎に包まれ過ぎてる女のことも、少しは分かれたのかも知れない。


 単なる厭世な皮肉家なんかじゃなく、まるで、彼女自身が世界を生きる上で感じた通りの言葉のようで。

 否定は出来ず、曖昧に濁したくもなかったから。


 ただ静かに、並んで星を見上げた。



「仕方のない話は良い。道化の衣装を着込んだ理由より、それからだ」


「それからか。まぁ、衣装だけじゃなくきっちり道化なら芝居もしなくちゃってことで……手っ取り早く、色んな都市伝説を調べてったね。図書館行ってそれっぽい本を片っ端から読み漁ったり、ネットの記事読み漁ったり」


「ネット?」


「あー……超でっかい情報掲示板、みたいなのイメージしてくれたら良いよ。その掲示板に貼り出されてる都市伝説を題材にした記事ばっかり調べてた」


「まるで取り憑かれたかのようだな」


「似たようなもんだろ。実際、底なし沼の呪いにかかったんだとか、悲しみのあまり人格が壊れただとか、散々気味悪がられたしな。お蔭で『可哀想』とは滅多に言われなくなった」


「ふん。目論見通りの様に言うな、馬鹿め」


「むあっ」



 何が癪に障ったのか。

 おもむろに紙袋からハニージュエルを一粒取り出したかと思えば、無理矢理口に押し込まれる。

 道化と形容したのはルークスの方だってのに。

 当の本人は不愉快そうに瞳の緋色を揺らしていた。



「目論見通りって格好付けるつもりないけど……そういう悪評が広まりきった後で『本命』について調べる時に、割と都合が良いんじゃないかって思ってたんだよ」


「本命?」


「そそ。底なし沼のスワンプマン。それを産み落とした発端の萩山区再開発計画について、深く調べるとしたら──『計画の責任を負わされた男の息子』と、『気が触れた自称都市伝説愛好家』と……どっちが"余計な疑い"を持たれずに済むと思う?」


「────」



 かつての萩乃湿原の武将伝説を下敷きに出来た、新たな都市伝説。

 他でもない俺がそれを調べるとなれば、己を傷を抉るという風にも見えるだろう。



「お前は……復讐するつもりだったのか」


「勿論、視野には入れてた。こんな目に遇わせてくれた再開発計画の主導陣営の奴らと、例の市長。そんときはまだ何も持ってない中坊だけど。いつか、機会を掴んだ時の為に……ってさ」


「……」



 まともじゃない。

 気が触れている。

 悲劇に狂った。

 もっともだ。


 だけど、もし復讐すべきと見定める相手に、そう思い込ませられたのなら。

 届かないナイフも、届かせる事が出来る。

 まぁ。ガキの頭で捻り出した、精一杯の合理性。

 可哀想と思われない為の方法と、そういうカモフラージュを兼ねていた、つもりだった。


 もっとも……そんな企みも全部、獲らぬ狸の皮算用にしかならなかったけど。



「……お前の祖父母は」


「ん? 爺ちゃん達がなに?」


「惚けるな。共に暮らしていたのなら、お前の変貌にいち早く気付く筈だろうが。何もなかったのか」


「まるでなんかあって欲しいみたいな口振りだな」


「うるさい」



 機嫌を曲げたままの追求に、苦し紛れの茶々を入れても乗っかってくれるはずもない。

 観念したように一拍置いて、甘さを欲しがる口にもう一つハニージュエルを突っ込んだ。


 思い返さずとも苦々しい記憶の欠片が、蜂蜜の甘ったるさを丁度良く中和していて。

 ほんと、なんとも皮肉な話。



「爺ちゃん達は……意外と、最初のうちはほとんど何も言ってこなかったね。夜中に部屋で、借りた本を読みふけってるのを『ガキが夜更かしすんじゃねぇ! 本なら明るい内に読みやがれ!』って叱られはしたけど」


「……気付いてなかっただけじゃないのか」


「どうだろ。婆ちゃんは俺の部屋の掃除とかもしてくれてたから、色々気付いてた節はあったと思う。そんでもやっぱり、気ぃ遣ってくれてたんだろうね」


「話を聞いた分ではお前の祖父が、そういう遠慮をする人間には思えなかったが」


「ははは。ああ見えて結構繊細な所があるんだよ、うちの爺ちゃん。単に不器用なだけで」



 本人に言ったら鉄拳食らいそうなもんだけど。

 実際のところ、爺ちゃんにも婆ちゃんにも気付かれてはいたんだろう。

 以前の人間味が希薄な状態よりは、精力的な分マシだって事なのかも。



「でも、こんな俺を引き取ってくれるだけ、やっぱお節介なとこもあってさ。何だかんだで爺ちゃんにも婆ちゃんにも、俺の浅知恵なんてまるっとお見通しだったらしい」


「……復讐の事か」


「勿論それも。けど、やっぱり年の功には勝てないってのかな。それよりも奥……もっと"根本的"なとこまで」


「根本、的……」


「そそ。ほんと……ぐうの音も出ないくらい、見抜かれてたもんなぁ」



 それはいつかの夏の夜。

 


『流。ちょいと座れ』



 遠くから届いた潮風の香りと一緒に思い起こされる、鈴虫の鳴き声。

 縁側に胡座をかいた爺ちゃんの隣に置かれた蚊取り線香の煙が、夏の星座が煌めく夜空へと。


 弔いの日の火葬場の、煙突から流れていた煙と同じように。

 細く高く、昇っていた。

 



────

──



【光について】



──

────





『夏休みの自由研究見越して、って柄じゃあねぇんだろう?』


『……なんの話?』


『惚けやがって。儂や湊がこの町じゃ顔が利くって事くれえ知ってんだろが。おめぇのすっとんきょうな評判なんざ、いびきかいてたって聴こえてくんのさ』


『すっとんきょうでも良いでしょ別に。俺は俺が好きなこと好きなように調べてる、だけだし』


『へっ』



 真っ只中に訪れた反抗期の子供みたいに口を尖らせてみたら、爺ちゃんはいかにも下手くそだ、って言いたげに鼻を鳴らした。



『流。野郎が二人、顔を付き合わせてんだ。腹割って話そうや』


『……』



 これまでに見たこともないくらいの真剣味を含んだ眼差しで見下ろされて、口周りの筋肉が強張った。


 それがまるで、境界線を引かれたようで。

 祖父と孫という間柄じゃなく。

 人と人としての話だと前置かれたみたいだった。



『おめえが好きな事を、好きなように調べることの何が悪いか。そりゃもっともだ。そんなもん儂がケチつけて止めさす道理なんざどこにもねぇさ』


『だったら』


『だがよ。どうにも儂の目にゃ、おめえのしてる事が道楽にも酔狂にも映りゃしねぇんだよ。なぁ流。おめえは好きな本を読む時に、どういう目をして読んでっか気付いてんのか?』


『……』


『暗い目だ。真っ暗な海の底みてぇに、暗い目してやがんのよ。てめぇの道楽を楽しんでる人間の目にはどうしたって見えやしねぇ。そんなら湊の手伝いをしてる時のが、よっぽど光ってやがる』


『……っ』


『長いこと生きてる身になりゃ、色んな人間の、それなりのもんを見てくる。例えば──後ろ暗いもんを抱えた人間の目とかな』



 鈴虫が今更ながらに、夜間演奏を止めたのか。

 シンとした静けさがぬるい風ごとやってきて、腹の下に重くのしかかった気がした。


 星空から、膝の辺りへと視線が落ちていく。



『覚えてるか、流? 儂と湊がお前を引き取ったあの日だ』


『……父さんの、葬式?』


『そうだ。あの日のおめえは本当に、何にも残っちゃいない、人間ってもんから感情を全部ひっこ抜いちまったような……脱け殻みたいになっちまってた』


『……』


『儂はてっきり……おめえに憎まれてるんじゃねぇかって思ってたんだ。湊もだ。出会い頭に「どうして助けてくれなかった」って詰められることだって考えた。死んだ後になってのこのこと現れた儂に、一発くらい殴りかかって来るやもしんねぇってな』


『そんなこと、する訳……』


『すんのさ。人間って生き物は、そんぐらいじゃなきゃ立ってられねぇ。例えどんなにてめえ勝手な恨みつらみでも、人間は立とうとすんなら必要とするもんだ。だから情けない話……参っちまったな、あん時は』



 竹を割ったような実直な爺ちゃんには似合わない、歯切りの悪さ。

 だからこそ、俺に責められると思っていたという心情は本当のことなんだろう。



『だがな。湊が言うにはな、流。おめえが──"弱くて、優しい"人間だからなんだとよ。

 弱くて優しくて、臆病な……きっと人を恨むことに向いてない、そういう子なんだろう……ってよ』


『婆ちゃんが……?』


『おう。正直あの時の儂には、アイツの言いてぇ事が良く分かりゃしなかった。だが……おめえと一緒に暮らしてく内、おめえってやつが段々分かってくるもんでな。


 "今なら"儂も、湊の言いてぇことが分かる。

 おめえはきっと、何かを恨んだり────復讐しようとか、そういう気持ちになること自体が下手くそな奴なんだってな』



 どうしようもない奴め、って呆れた顔で。

 ごわごわと、慣れない手つきで俺の頭を撫でる爺ちゃん。


 無意識に身体中に巡らせていた力が、糸を摘まんで引くように抜けていきそうになって。

 まるで藁にもすがるように、俺はその手をはね除けた。



『違う。違うよ、爺ちゃん! 俺は、ちゃんとアイツらを……俺の、母さんを、父さんを追いやった奴らに、思い知らせてやる為に……!』


『……意地の張り方までへったくそによぉ。本当、誰に似たんだかなぁ……』


『意地とかじゃない!』


『馬鹿野郎。復讐や恨み節に……"ちゃんと"、なんて言い回しする奴が居るかってんだ』



 その時の俺は、爺ちゃんの言わんとすることの全てを理解は出来なかった。

 それでも子供染みた反抗心がどうしてか、ここだけは譲れないと胸の内で暴れ狂う。


 子供の癇癪みたいな悪足掻き。

 まるであの日の底なし沼で、胸の空虚を埋め込む為にかき集めて作った狂色の泥のようで。

 


『焦ったんだろ?』


『え?』


『おめえは少しずつだが、脱け殻じゃなくなってった。儂らとの生活がおめえにとって、どういうもんだったかまでは分かりゃしねえ。それでも、少しずついっぱしの人間の顔をするようにもなってきやがった』


『……』


『だが、人間ってのは面倒くせぇ生き物でな。やっと一息って時に限って……考えなくたっていい不安に襲われる。湊もそうだった。喉の手術をする時に、あいつもガキみてぇに震えて恐がってた。もう歌えないって事以上に……歌っていた自分が忘れられちまうんじゃねえか。



 何より自分自身が、"忘れちまうんじゃねぇか"───ってな』



『……!』



『あぁ、ったく。しようがねぇよ、おめえもあいつも、どいつもこいつも。んなもん、忘れたくても忘れられねぇもんだってのによ』


『────』





 爺ちゃんの言葉は、鏡を突きつけるに等しい。


 

 俺が精一杯、すがり付いたなけなしの正体を映すように。


 空洞の根元に深く埋めた、泥の中身。

 それは爺ちゃんの言うとおり、"焦り"だった。


 あの日、『逢魔ヶ刻』に。

 スワンプマンの噂を聞いて、父さんに会えるかも知れないと夢焦がれる子供みたいに底なし沼に行って。


 結局、会えるはずもない。

 何もない、だけしかなくて。

 俺が逢えたのは。

 漠然と。寂しさという名の魔だけで。

 恐くなった。焦ってしまった。



 いつか。俺自身も父さんを、あの事件を。

 綺麗さっぱり何もなく、忘れてしまうんじゃないか──って。



 沈んでは浮かんで。

 沈めたとて浮かばれて。



 そんな焦りが、不安定な一つ足で立つ案山子(かかし)に、泥まみれの藁を掴ませた。

 繰り返していく内に磨耗してしまう孔を埋める為の、泥に過ぎなくて。



『…………じゃあさ』



 憎むことさえ下手くそ。本当にその通りで。

 ぐうの音も出ない。

 慰めのつもりか、代わりに再開される鈴虫の夜間演奏。

 リンリンと鳴る音の最中に滑り込む蚊取り線香の煙が、目に染みた。



『じゃあ、どうすれば、いいんだよ。俺。また、何もないになっちゃうじゃん……』


『んなもん簡単よ。誇れるもんを持ちゃ良い』


『そんなもん、あるわけない』


『女々しいこと言ってんじゃねぇ。無けりゃ作る、そんだけだろう』


『……作るって言ったって』



 鏡を見ることをしなかった案山子に、自分の誇りなんて分かるはずもない。

 だからまた性懲りもなく何かにすがろうとしている。

 方角の分からない迷子が、月を頼るように見上げて。

 白く大きな月は、睫毛をシパシパと瞬かせて、もう一度俺の頭を撫でた。



『儂は、船に乗るのが好きだった。波飛沫の泡立った白さを、水平から顔出す太陽(おてんとさま)を見んのが好きだった。湊もそうだ。あいつは色々あって、歌を嫌いになりかけてた時期もあったが、それでも「好き」を貫いた。その事実が、その経験が儂らにとっての……宝であり誇りだ。挫けた時に支え続けてくれたモンだ』


『好きを貫く……』


『おうよ。突き詰めるってのは大事だ。男なら、これってもんを一つは持っておくべきだろぉよ。箔になるし、矜持になる。例えば、おめえが調べて回ってる都市伝説……ってのも悪かねぇのさ』


『え、でも』



『言ったろ、突き詰めろってな。暗い感情に従って突き詰めんのは間違いだ。そういうのは突き進むが最後、結局回り回っててめぇ自身を陥れる。だが、入り口は暗くとも、最終的に、好きになっちまえば全然違ぇのさ。


 だからな、流。突き詰めるからには、最終的には好きになれ。

 そおすりゃ、いつか。最後にゃきっと────笑えるようになんだろ?』



『…………』



 誇れる何かを持て。

 好きを突き詰めろ。


 筋道も滅茶苦茶な、強い言葉だった。

 始まりは暗くても、最後に笑えれば問題ない。

 好きになりそうなものでなければ、また別の新しい事を始めれば良いと。


 無責任で、乱暴で不安定な。

 けれど強く、人生の縮図のようにさえ思えて。



『おめえなりに考えてみな』



 言いたいことは全部言ったと、すっきりした顔でニヤッと笑うと、人生の大きな先達は一足先に去っていく。

 

 残された俺は、やがてよろよろと立ち上がり、自室へ戻るや洗剤の香りが残る布団の中へと身を沈めた。


 漠然とした浮遊感。

 足がないような奇妙な自由さ。

 熱病に侵されたように曖昧とした頭の中で、爺ちゃんの言葉だけが反芻する。



──その日の晩に、いつもと違う夢を見た。



 首を吊った父さんの苦悩に満ちた姿はなく。

 無表情で去っていく母さんの後ろ姿もない。


 真っ暗な海を、頼りない木船で、灯りもなしに進んでいく夢。

 船に乗っているのは、ぽっかりと空いた孔を泥で埋めた俺一人。


 進んでも進んでも、濃い闇雲ばかりが広がる果てのない果ての中、どうすることも出来ない。

 次第に漕ぐことさえやめて、迷子のように立ち尽くした時だった。



『だからな。

 突き詰めるからには、最終的には好きになれ。

 そおすりゃ、いつか。最後にゃきっと────笑えるようになんだろ?』



 聞いたばかりの爺ちゃんの言葉が脳裏に過ぎって。


 常夜灯が、空洞の胸に。心に点いた。

 空洞を照らす優しい光火が、埋めた泥を乾かしていき、そして。



『──』



 光火が徐々に広がり、暗雲を裂き。

 真っ暗という世界の法則は、いとも簡単に崩れてしまって。


 暗がりが晴れた世界は。

 息を飲むほどに綺麗な、綺麗な──青だった。




 そんな……短くも、優しい夢。


 けれど現実ではそれなりに長い夢だったらしく。

 目が覚めた時には、いつも婆ちゃんと朝食の支度をしている時間はとっくに過ぎ去っていた。




◆◇◆





『おハヨう』


『……おはよう、婆ちゃん』



 リビングに現れた寝坊助を迎え入れたのは、使い終わった食器を洗っていた婆ちゃんの声だった。

 朝食の時間はとっくに過ぎていて、だからテーブルの上には一人分の朝食だけが並んでいる。


 障子が開いた隣の部屋では、胡座をかいてテレビのニュース番組を眺めている爺ちゃんの背中があった。

 いつもならとっくに組合に向かってる時間なのに。

 そんな些細な違和感を口にはせず、おずおずと椅子を引く。



『……?』



 昨日の残りの、魚の煮付け。

 だし巻き玉子。ほうれん草のごま和え。あさりの味噌汁。白いご飯。

 この家に引き取られてから何度も食べて来た朝食のメニュー。

 だから、何も特別ということはない。いつもの通りのはず。



『……ぁ』



 いつもの通り。そう、いつもの通りに、ほくほくと"湯気が立っている"。

 いつもの、暖められたばかりの朝食のように。


 とうに時間は過ぎてるのに。



『……いただき、ます』



 口に運んだご飯は、当たり前のように熱をもっていて。

 舌でほぐれる魚の身も、啜った味噌汁も、当然のように暖かくて。

 いつものように。


 なのに。いつもよりも、ずっと深い味がした。

 醤油の香りが、魚の下味が、玉子の柔らかさが、ずっと鮮明に感じられて。




《どうかしら? 今日の味噌汁。少しお味噌を変えてみたんだけど》


《……ん。美味いな》


《そう、よかった。流はどう? 美味しい?》


《んー……大体いつもと一緒!》


《えぇー……》


《分かんないもん。おかわり!》


《もう……》


《いつもと一緒で美味いってことだろ》


《え? あぁ……ふふ。しょうがない子ね》





 それだけなのに。

 どうしてこんなにも。



『…………っ……ひっく……』



 訳が分からなくて。

 何かが流れ落ちていく。

 胸に埋めたものが、渇いて、溶けて、流れていく。



『ぅ……あぁぁ……ぐすっ……』



 鼻がツンと詰まる。

 ポタポタと雫が、落ちていく。

 湯気が染みて、目が痛い。


 みっともない。

 食事作法に至っては、下手くそどころじゃない。


 けれど、叱りつける言葉はなく。



『……』



 食器を洗う婆ちゃんの手が、水道の蛇口を捻る。


 いつもなら、あんまり多く水を使うことをしないのに。

 とっくに真っ白になってる皿を、大きく音を立てて洗ってる。



『……』



 背中を向けたままの爺ちゃんの手が、こちらの部屋に届くくらいに、テレビのボリュームをあげていて。


 地獄耳ってくらいに耳が良いくせに。



 まるで、泣き声を。


 聞いてあげないように、するみたいにさ。




『ひっく……ぐすっ……う、ぁ……父、さん…………かあ、さん…………』

 



 止めようとしても、我慢しようとしても、涙は堰を切ったみたいに止まらない。


 とめどなく溢れていく。

 それもそうだ。


 父親の死を目にした時も。

 火葬場で立ち尽くしていた時にも。


 俺は。案山子のように呆然とするだけで。


 この"当たり前"を、忘れてしまっていたから。



『うぁぁぁぁぁ……!』




 薄い瞼から、優しくほつれるように落ちた涙。


 必死に埋め続けた泥の、全てを流したその日に。








 空っぽの孔(何もない)を、光火で照らして。



 案山子はやっと、人間になれた。



 鏡を見つめられる────人間になれた。






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