1.研究室
夜の研究室ほど、怖い物はない。
男はぽつりとそう思った。男は深夜にようやく行っていた実験が一段落付き、帰宅の荷物を取るために学生室に戻ろうとしていた。既に他の学生や教授は帰ってしまっているため、実験室の電気を消して、廊下へと出る。学生室にももう誰もいないはずだ。
ぱっと廊下に明かりが着いた。最近、この棟の全ての廊下の電気をセンサー式に変えたのだ。
しかしながらその闇を照らすはずの明かりが、男をさらに不気味な気持ちにさせた。センサーで反応して光る照明は廊下の半分までで、つまりもう半分は未だ闇のままであった。
どうせならばセンサーが反応したら階の廊下の明かりくらい一斉に付けるようにしたらいいのに。男は大学の節約精神に辟易としながら、一歩、歩みを始めた。
その時、男は不意にどうでもいいことに思い至った。
都会は、夜が消えたという。夜になっても消えないネオンが、都市からほぼ全ての闇を奪い去った。これは中途半端な明かりこそが恐怖を生み出しているからなのかもしれないと思ったのだ。
仮に、いっそのこと初めから全てが闇で覆われたとしたら。確かに歩いたりすると物にぶつかったりして危ないと思うが、それはただの危険の予測であり、そこに恐怖はないのではないか。いやむしろ、どこか安らぎを覚えるのではないか。
太陽になれない中途半端な明かりが、一部だけを映し出してしまうこと。それ自体にもしかしたら人は恐怖を抱くのではないだろうか。
そこまで思った時に、男は暗い廊下の先に、人を見た気がした。白衣ではない、茶と紅のチェックの服をした、多分男だった。しかしそれを認識するかしないかの間に、その男の姿は闇に溶けていた。
見間違え。
そう考えるのが自然だし、男自身もそう思った。パッと、センサーが反応して残り半分の廊下の照明が点いた。果たして、そこにはただただ廊下が続くだけで、誰も居なかった。男は軽く息をつき、首に手を当てた。学生室はこの廊下の先の階段を上がって二階にある。
とにかく男は早く帰って眠りたかった。その思いに先ほどの見間違えは全く影響していない。明日も早いのだ。
ふと、先ほどの夜の研究室がなぜ怖くなるのか、その原因が分かった気がした。
本来、こういったいわゆるオカルトにとって、科学は大の天敵のはずだ。こっくりさん、心霊写真のオーブ、デジタル加工技術、科学はこれまで多くの、怪異と言われていた現象を何でもない自然なことだと解明し、またさらに陳腐なものにさせた。まだ研究者の卵である学生の男にとっても、世の現象はほとんど科学的な規則で成り立っているはずだと考えていた。しかしながらまた同時に、科学はそこまで万能な物ではないのではないかという思いも確かにあった。
世の不思議を解き明かすための機関。その施設で『出た』ら、それはもう本物なのではないかという、全くの論理的でない漠然とした恐怖が、男にはあったのだ。
はたと、階段について上を向くと、目が合った。
二階へと続く階段、その階段から、誰かが見ていた。しかし、姿は見えず、見えるのは二つの目だけ、いや、眼球だけであった。
ぱっと、センサーが反応し、階段の電気が点く。
そこには、果たしてなにもなかった。ただ、二階へと続く階段があるだけだった。
男は一段二段と階段を昇る。目を見たという認識は、既に男の中にはなかった。
男は、考えを続ける。ようやく気づいたのだ。
そうだ、すべては一緒だったのだ。
太陽になれない中途半端な明かりが、一部だけを映し出してしまうこと。
神になれない中途半端な英知が、一部だけを映し出してしまうこと。
知識も同じだったのだ。仮に何の知識も持たなかったとしたら、それを怪異に遭遇したとしてもそれを怪異とは認識せず、極めて動物的な警戒に終始し、そこにオカルト的な恐怖は生じないのではないか。
元を辿れば、恐怖は同じ所から湧いていたのだ。一部だけが見えてしまうから、駄目なのだ。分かる所が解ってしまうから、よけい解らない物が映えるのだ。
二階に近づき、付けっぱなしだった学生室の明かりが見える。
男はふ、と自嘲気味に笑った。感じていた恐怖も既に消え、頭は明日の予定のことを考えていた。
戸を開ける。爛々と蛍光灯に照らされた室内が見えた。
そこに、髪の長い血まみれの女が立っていた。