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◇
博士からの報せが届いてから三か月経った。
私はまたしても副所長と主任に施設を任せて大神殿を訪れていた。今回は数名の所員も連れている。動けない主任の代わりにその目で生まれ変わったリリトを見てもらうためであった。
そう、今回は休暇を利用した訪問ではなく、あくまでも仕事であった。それでも、リリトに会えるのは変わらない。前回会ってからそう間も空いていないが、やはり愛娘に会えるような嬉しさはあった。
大神殿にたどり着くと、以前よりも少し大きくなった巫女ルーエさまと彼女に優しく寄り添う聖女ドロテアさまにお会いできた。
しかし、以前のようにじっくりと挨拶は出来ず、ほぼ直行する形でとある場所に案内された。
応接間などではない。純潔の扉という地下室へと続く排他的な空間をくぐり、博士の研究室へと案内されたのだ。
純潔の扉の向こうには実験施設の他に、ルーエさまが一週間に一度のペースで身を清められる清めの間という空間がある。もちろん、見せてもらえるはずもなく、傍を通るだけだった。
博士の研究室は、施設の半分ほどの広さであった。
だが、リリトにのみ特化した作業を行うためか、それで不十分だということはないらしい。部屋にはすでに博士と生まれ変わったリリトが待っていた。
私たちを出迎え、リリトはにっこりと笑った。前もそうだ。リリトの笑みには心が宿っている。だが、私はその瞬間から、心臓の効果を知ることになったのだった。
「お久しぶりです、所長」
たおやかに礼をする彼女の姿は、記憶にあったものとは次元の違う様子だった。
人間によく似た機械人形ではない。むしろこれは、機械人形によく似た人間ではないのか。そう思ってしまうほどリリトの仕草は人間そのものだったのだ。
「驚かれましたか? わたしも同じです。鏡を見る度に驚いてしまいます。博士のくださった心臓のおかげで、こんなにも人間らしい姿になれるなんて」
「リリト、見違えたよ……また会えて嬉しい」
「わたしもです、所長。またお会いできてとても嬉しいです。あなたの姿を見ると、施設で過ごした日のことを思い出して、胸になにか温かなものが生まれるのです」
胸に手を当てて目を閉じるリリトの姿に、私は感動した。
これこそ、私が求めてきた姿だったのではないだろうか。心の宿る人形と会話がしたいという願望。それが、たった一つの心臓によって実現してしまったのだ。
しかし、遅れてやって来るのは不安だった。リリトはもはや人形ではない。血が通えば国民だと若い頃の博士が言っていた意味がようやく分かったような気がしたのだ。
「素晴らしいでしょう、所長」
その博士は人が変わったように得意げだった。
「これは凄い。すごいことですよ、博士」
「レポートを読むのが楽しみです。ああ、生きているうちにこんなにも素晴らしい作品を目にすることが出来るなんて……」
私と共に来た所員たちは純粋に感動している。
リリトはそんな彼らをにこにことした表情で見つめていた。
「リリト」
声をかけてみれば、リリトは実に自然な動作で私に視線を向けてきた。
「……その……不都合はないかね?」
その問いかけに博士の機嫌をやや損ねたことを自覚したが、気づかなかったふりをしてただリリトだけを見つめた。リリトは不思議そうに首をかしげる。
「不都合ですか? いいえ、全くありません。体もとても軽くて快適なんです。今まで以上に視界も明瞭で思考も疲れませんもの」
疲れる。
そんなことをリリトは言ったのだ。以前の彼女がそんな表現をしただろうか。心があるといっても、疲労を感じて訴えることなど博士からの手紙にはなかった。
これもリリトに魂が宿った証拠なのだろうか。
私にはよく分からなかった。
「……ただ」
と、そこでリリトは少しだけ小さな声で言ったのだった。
「少しだけ怖いこともあるのです」
「怖い事かね?」
「ええ、博士には、この身体で人を殺せると聞きました。それが怖いのです」
「ふむ、それは何故かね?」
「分かりません。ただ、人の死を見るのは前から苦手でした。ドロテアさまやルーエさまを御守するべく戦わなくてはいけないことも御座いましょう。でも、やっぱり怖いのです。それが、心臓をいただいてから、さらに怖くなったのです。敵と言われましても、人の身体が壊れるところを見るのが恐ろしいのです。私はきっと戦闘には向かないのだと思います」
リリトの言葉は非常に人間らしかった。
その姿に、博士も所員たちも感心していた。私も同じだ。研究者の一人として、リリトの人間らしさには興味がわく。
しかし、その一方で、複雑な思いが生まれたのだ。
リリトは今、幸せだろうか。
いつか、苦しくなることはないだろうか、と。
◆
まったく所長は何を考えているのだろう。
昨日の夜に届いた手紙の内容に、私は苛立ちを覚えていた。
〈心臓の大量生産について、いまの君はどう思うかね?〉
どう思うも何もない。
信頼の天使の教えは人の生活を豊かにするためにあるのだ。これまでの私はそんなことも忘れ、明文化された聖典の教えに拘りすぎていた。
だが、よく考えてみろ。
心臓のあるなしで機械人形の一体あたりの製造費用が半分以上減るとなれば、国費の消費も抑えられる。
いま、国が優先すべきは国民の保護だ。大戦後の失態で窮地にいる国民たちを出来る限り保護し、就職させ、犯罪予防に繋げなくてはならない。
もちろん、その他にも片付けるべき問題が多いため、実現には時間がかかるだろう。
しかし、いずれにせよ大事なことは、抑えられる費用は抑えることなのだ。リリトもそれをよく分かってくれた。人の役に立ちたいと言ってくれたからこそ、彼女に心臓を宿すことに成功した。その、何がいけないというのだ。
そもそも、心臓を作ることを期待していたのは彼の方じゃないか。
大神殿の隅で苛々とした感情を美しい光景で紛らわしていた。
ここは荘厳な大樹に守られる穏やかな世界だ。しかし、その平穏は番人たちや信頼の杖である聖女ドロテアさまのご活躍の上に成り立っている。
彼らを脅かす悪人どもは世の混乱から生み出されるわけだ。心臓作りは世の中を安定させることにも繋がるのだ。
それなのに、何故、所長はあんなことを。
「博士……! ここにいましたか……!」
沈黙の時間に浸っているところへ、やってきたのは番人の一人だった。
確か、本殿の内部警護を担っている部隊の中堅の男だ。番人の大半がそうであるように、魔物の血――たしか人犬と呼ばれる種族――の血を引いており、その能力を頼られている。
今はそこらの人間と変わらない姿をしているが、強敵と戦う際は半人半犬の姿になるらしいが、その光景は観たことがない。出来れば見ないでいたいものだが――。
「どうしたのだ、慌ただしい」
「侵入者の報告が入りました。どうやら突破され続けている様子で……」
「何? 相手は何者なのだね……?」
「それがただの人間の男に見えるが、得体のしれない魔術に翻弄されているのだとか」
「ふむ……変わった魔術師というわけか。魔術師には私が発明し、お前たちに授けた遠隔武器のいくつかが有効だと思うのだが」
「それが、通用しなかったのです」
「なに……」
その報告に、真っ先に苛立ちを感じた。だが、だんだんと事の重大さに気づいた。
通常の魔術師とは思えない相手が近づいてきている。何のためなのかなど、分かり切ったことだろう。
「ともかく、ここも危険です。私と共に避難してください」
「……分かった。従おう」
中庭の方角をふと見つめる。
聖樹の姿はここからでは見えない。だが、その根元に今日もルーエさまはいらっしゃるはずだ。大丈夫だろうか。心配だった。
◇
――わたしを抱きしめてくださいますか?
頭の中で在りし日のリリトの声が響き渡った。
大戦があれば、ここで生まれた多くの発明品が残骸となって戻って来るものだ。
それらは解体され、新しい製品の材料となる場合もあるし、次なる発明の為の研究材料として残される場合もある。
先日、大神殿で起こった惨事は帝都や施設のみならず信頼の国全体に知らされたらしい。
侵入者は惨死しており、身元の特定は大変難しいところだが、恐らく大戦からの不祥事で生活基盤を奪われた若者の一人だろうとのことだった。
悲劇が悲劇を生み、多くの人の命を奪っていったのだ。
国民全員が喪に服し、慎んで生活をする中にあっても、我が施設の人間たちだけは忙しいままだった。
送られてきた残骸は、騒動で壊れてしまった武器や機械人形たちの部品ばかりだ。その中から再利用できるものを選別するという作業は、所員たちに任せている。
私は一人、ある特別な部品の選別を請け負っていた。
目の前に置かれたこの残骸はどうするべきか。見るも無残に焼け焦げた部品の中で、ひとつだけほぼ無傷のまま残っているものがある。
多少の衝撃では壊れない硝子瓶の中で、濁った赤の液体が不可思議な色の炎に焼かれながらぐつぐつと煮えている。この炎は消えない。半永久的に消えない。
炎の中にあるのは魂なのだと聞いたことがあるが、本当かどうかは分からない。
このガラス瓶はもう再利用できないらしい。再利用しようにも、死の記憶が強く残ってしまっているから、新しい体が受け付けてくれないのだとか。
ガラス瓶が送られてきたときに同封されていた手紙にはそう書いてあった。
手紙は数日前に届いた。
手紙の主である博士はどうしているだろう。どんな気持ちでこれを書いたのだろう。
〈だから、リリトを静かに眠らせてあげてください〉
その文字は震えているようにも見えた。
◆
どうしたらいいのだ。私には何が出来るだろう。
本殿の上階の吹き抜けから、私はただただ下の階で起こっている惨状を見ていることしかできなかった。
糸の武器か、はたまた、それに近い魔術なのか。次から次へと侵入者に挑もうとする番人たちが犠牲になっていく。見慣れぬ光景に何度か吐きながらも私は見守っていた。
昨日まで話した人たちが、信念をもって働いていた人たちが、犠牲になった。
番人や魔術師たちだけではなく、非戦闘品であるはずの神官たちにも容赦をしない。あんな悪人が存在していいのだろうか。
中庭を通って逃げようとしている二人の姿が視界に入った。
巫女であるルーエさまと、それを守る聖女ドロテアさまだ。ドロテアさまがしきりに振り返り、杖を構える。
侵入者の狙いはただ一つ。ルーエさまの体内に宿る黄金の果実なのだろう。
ドロテアさまは不死の御方だ。それに、あの杖を使って、どんな魔術師たちも真似できない強力な魔法を使える。
ならば、彼女にならば阻止できるのではないか。
炎の竜・水の鯨・大樹の根・雷の馬。
ドロテアさまの魔法は芸術的だ。だが、それだけではなく、そのどれもが強力なものだった。死人の身体を操り、敵の進行を阻むことだってできる。
ルーエさまの前で気が引けたと思われるが、それさえも行った。しかし、そのどれもが侵入者の接近を阻めずにいたのだ。
「遠慮してはいけません、ドロテアさま!」
誰かの声が響いた。
恐らく番人ではなく非戦闘員の者だろう。
「どうか奴の息の根を止めてください!」
そうだ。ドロテアさまには遠慮があるのだ。
訓練も積んでいることは知っているし、これまで何度も侵入者を撃退したのだと聞いてきた。だが、侵入者を殺したという話は聞いたことがなかった。
多くの悪人は、ドロテアさまが不死であることを目の当たりにすると、恐れをなして逃げ帰ってしまうらしい。だからこそ、ドロテアさまは経験していらっしゃらないのだ。
人の命を奪うことに、慣れていらっしゃらないのだ。
心優しい聖女さまの弱点だろうか。
しかし、それでは……それでは、ルーエさまを失ってしまう。
やがて、ドロテアさまも覚悟を決めたのだろう。
聞いているこちらまで心が張り裂けそうになる悲鳴をあげたかと思えば、杖を構えたのだ。
いよいよだ。
そう思った時のことだった。
「あ……あれは……」
誰も近づけぬ中庭に入り込んでいく人影が見えた。
その人物を見て、私は呆然としてしまった。
「……リリト!」
リリトだ。リリトがドロテアさまの元へと近づいていく。
ほぼ同じ時、侵入者の姿がはっきりと見えた。彼の目線は聖樹の根元にいるルーエさまに固定されているが、その邪魔になるドロテアさまとリリトに向かって指を差した。
たったそれだけの動作で、彼女たちの立っていた辺りの土が激しく跳ねた。
あの力が、大量の人の命を奪ったというのか。
それは、初めて見る禍々しい力だった。
ドロテアさまはそれを避けて後退したが、リリトはそれを避けながら前進した。
何をするつもりだというのだ。
その疑問もつかの間に、リリトは行動に移した。
私の与えた翼を大きく広げながら侵入者に迫り、怪しげな魔術を全て避け、強い力で彼を殴って気絶させるとその体を捕まえてしまった。
そして、空へと大きく飛び上がり始めたのだ。
「リリト!」
ドロテアさまが叫ぶと、リリトの声が響き渡った。
「わたしにお任せください」
その声は震えているように感じた。
「このまま平原に向かいます。後でそこに迎えに来てください!」
大の男一人を持ち上げ、リリトは上昇し続けた。
私は慌てて本殿の屋上を目指した。リリトが飛び去ったのは東側。広大な平原のある方角だ。急いで会談を登ったおかげで、屋上からすぐにその姿を確認できた。
リリトはどんどん神殿から離れ、平原を目指していく。
彼女がどういうつもりで飛んでいったのか、この時点で理解した者もいただろう。
私もその一人だった。
彼女は何故、あれを選択したのだろう。
その体には人体を壊すだけの力があったはずだった。その為の訓練などさせたことはないが、試作品として動かす前のテストでは、人体に近い物質を切り裂くこともできた。
それなのに、どうして彼女は侵入者のみを殺さずに、あんな選択をしたのだろう。
分からない。リリトの気持ちが私には分からない。
人形兵器は兵と同じ。人を殺すことが出来る存在。リリトだって安全に侵入者を排除出来るはずだった。ドロテアさまやルーエさまをお守りしつつ、自分も無事なまま侵入者のみを殺すことが出来たはずだった。
だから、わざわざこんな選択などしなくてよかったはずなのに。
分からない。リリトの気持ちが、心臓の決定が、私にはどうしても分からない。
理解しがたい状況の中、私はいつの間にか泣いていた。まったく未熟な涙だった。説明しがたいことがあることが許せない。
だが、リリトの姿が小さくなるにつれ、私の涙は増えるばかりだったのだ。
リリト。どうしてお前はそれを選択したのだ。
機械の誤作動か、計算違いか、はたまた魂というものがリリトの合理的な思考を阻んでしまったのか、感情がいけなかったのか、心がいけなかったのか、心臓がいけなかったのか。
私は思考に思考を重ね、最後には神に願った。
リリトを返してください、と。
しかし、願いは聞き入れられなかった。
遠く離れた上空。地上には広大な平原が広がるのみと思われるその地点で、突然まばゆい光が生まれた。炎があがり、煙が生まれ、何かが地上に落ちていく。
私はただその光景を見つめていることしかできなかった。