調査兵団の出陣
日本幕府は未曽有の大地震により、国土が転移した。最初にそれに気付いたのは各藩の海軍奉行などであった。
港に、大小様々な船が打ち上げられていたのだ。だが、八戸藩や七戸藩、盛岡藩など太平洋側の諸藩はこの以上に気付かなかった。なぜなら、そこには海があったからである。しかし、対馬藩や土佐国を除く四国諸藩、東海近畿諸藩など海上交易の拠点を失うなどの大損害を被った。
そして、フランスからの支援がなくなった幕府陸軍は関口製造所での新兵器の開発と製造に力を入れると共に旧肥前藩の精煉方の田中久重や旧薩摩藩士の村田経芳らも幕府は登用し、兵器開発や製造にあたらせた。
その頃、中国大陸では張三姉妹が黄巾の乱を起こしていた。
漢王朝の皇帝である霊帝は諸侯に対して黄巾党討伐の命を出した。
その知らせはもちろん転移してきた日本幕府に接している荊州の袁術の元にも届いていた。
「松平容保殿、会津藩兵を主力とした調査兵団を送るように。」
「しかと、承りましてございます。」
幕府の使者は会津藩主の松平容保にそう告げた。
徳川慶喜は会津藩藩主の松平容保に命じて会津藩兵を主力とした東北諸藩の部隊を調査兵団として松前藩を経由して送ることが決定した。
調査兵団の指揮を執るのは幕府陸軍歩兵奉行の大鳥圭介が執ることとなった。
そして、幕府からの命令が下った1週間後、大鳥圭介率いる調査兵団2万は会津藩を出発した。各藩はそれぞれの大名家の旗を持ち、移動し始めた。
調査兵団は装備もバラバラで新式銃を装備した各藩兵もいれば、槍や刀で武装した藩兵もおり、装備状況は複雑だった。
荊州でも黄巾党が暴れており、北が本隊、南が分隊とされていたが南の分隊から奇妙な土地を発見したと聞いた大賢良師は10万の手勢を南側に回し、15万の軍勢で近隣の諸侯と対峙することにした。
調査兵団は陸奥国を通り過ぎ、船で津軽海峡を航行中だった。
時を同じくして、北の黄巾党本隊を撃破したとの報告を客将である孫策から聞いた袁術は南の分隊を撃破するために城を出撃したが、その南の分隊は奇妙な土地への進軍を開始した。
本来ならば荊州より南にいけば交州があるはずだが、黄巾党を襲ったのは寒さだった。寒さに震えながらも黄巾党は進んでいった。
そして、黄巾党の目に入ってきたのは箱館の町と五稜郭だった。
明らかに漢よりも進んだ町を目にした黄巾党の兵士達は歓喜したが、その町の郊外にあるのが五稜郭だった。
黄巾党は五稜郭を攻略するために進軍を開始した。
五稜郭には箱館奉行があり箱館奉行であった杉浦誠は兵士からの報告により、松前藩に伝令を送るとともに箱館の町の住人を五稜郭の中に避難させた。
松前藩は直ぐに部隊を編成し、五稜郭に向け、進軍させた
史実では大賢良師=張角ですが、この作品では別人設定です
関口製造所:、江戸幕府が幕末に設置した兵器製造工場である。「関口大砲製造所」とも呼称された
田中久重:、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。国内初の国産蒸気機関車や蒸気船の模型を作る。また、反射炉と呼ばれる鉄の精錬を行う施設や大砲製造に大きく貢献した。
村田経芳:村田銃の開発者として知られている。
大鳥圭介:幕府陸軍の歩兵奉行。箱館戦争の際は箱館政権の陸軍奉行を務めた。
箱館奉行:遠国奉行の一つ。
杉浦誠:杉浦梅潭とも名乗ってる。最後の箱館奉行でもある。




