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「とりあえず、これ以上ここにいるのはまずい。あの女に気づかれては……どこか話せる場所はありませんか?」
そこで私の小さな粗末な部屋に王子様を案内しました。小さなベッドを置けばあとは着替える隙間くらいしかない部屋です。厨房の下働きだった頃の大部屋に比べれば幾分ましですが、王子様を招くのにはあまりにも失礼です。が、こっそり話せる場所なんて、ここしかありません。
私は恥ずかしくなりました。変装の為とはいえ、ぼさぼさのみっともない髪。荒れた手に、お化粧もしていない素顔。何故、恥ずかしいのでしょう? 今まで私は、自分の力でここまで生きてきたことを誇りに思っていました。与えられるのが当たり前な公爵令嬢だったけれど、自分で働いて生きる事が出来るのだ、と。だけど、レーンさまの前に出ると、昔の自分と今の自分を比べてしまい、どれだけ惨めで醜く見えるだろうと思うと、涙が出て来たのです。
「何故泣くのです、セシル?」
とレーン王子。そう言えば、どうしてかれは私を子どもの頃のように愛称で呼ぶのでしょう? いつからか、セシリーナ殿、と呼んでいた筈なのに。ああそうか、今の私は小間使いのセシルだった。当たり前のことでした……。
すると、レーン王子はまるで私の心を読んだかのように、
「ああ、すみません、安堵のあまりつい気安く……セシリーナ殿」
と言い直されました。
「とんでもない。セシリーナは死にました。私は小間使いのセシルです」
そう言って私は俯き、
「恥ずかしいのです……こんなに身をおとして」
「身をおとす? 貴女は生きる為に、あの下衆女のように男に媚びを売ったという事ですか?」
「……! なんという事を仰るの。そんな事をするくらいなら、あのまま野垂れ死んでいた方がましというもの。わたくしは命の為に誇りは売らないわ!」
あれれ、おかしいです。小間使いの分際で王子様になんて事を言ってしまったのでしょう。
でもレーンさまは怒る事もなく、
「貴女が生きていてくれれば、その為に必要だったというなら、わたしはそれだって受け入れます。ですが、貴女は誇り高いひとでしたね。失言をお詫びします」
と謝って下さいました……。
「何故謝られるのです。わたくしこそ、失礼を……」
「身をおとす、というのが、今の貴女の立場や身なりを指すのならば、全くおちてなどいません。可哀相に、こんなに手は荒れてしまったけれど、貴女自身は、以前に増して輝いていますよ。わたしには解ります」
「どうして、レーンさま……」
私はエプロンで目を押さえないといけなくなりました。どんどん涙が流れて来て、ますます醜い顔になってしまいますから。
「どうしてかは、いずれ申し上げますが、まずは、一体貴女は何故あの女の小間使いなんかになって、夜中にあんな所におられたのか、お話し下さいますか?」
ハンカチを差し出してレーン王子がそう仰るので、私はそれをお借りして涙を拭きつつ、元に戻るつもりはないけれど、国の為に王太子とあの女の結婚は阻止せねばと思い、あの女の不貞の証拠を掴もうと屋敷に入り込んだのだと説明しました。
「なるほど。愚かな兄に聞かせたいくらいの立派なお志です」
と、レーンさまは仰いました。
「ですが、外から見張っていても無駄です。あの寝室には秘密の通路があるのですよ。男をこっそり招き入れる為の。わたしは、兄嫁、王妃となる予定のあの胡散臭い女から晩餐に招かれ、その為人を見抜く機会と思い、それを受けてここに来ました。すると、食事が終わろうという頃に、『この通路を抜けて来てほしい』というメッセージがパンに挟まれて。取りあえずその通りに行ってみた所、あの寝室で、淫らな格好をしたあの女が待っていたという訳です」
と、教えても下さいました。なるほど。それで男性の出入りが判らなかった訳ですね!
「では、それをレーンさまがディーンさまにお教えになれば解決ですね!」
と私は言いましたが、レーンさまは苦笑して、
「そんなに単純な事ではありませんよ」
と仰る。
「兄上はとにかく、あの女の虜なのです。真実を申し上げた所で聞いては下さいますまい。わたしの方が忍び込んだ事にされて断罪される可能性が高い。あの女はそう言うでしょうからね。誘いを断ったわたしに恨みを持ち、今頃はわたしを失脚させる手段を練っている事でしょう。そもそも、貴女の志は立派ですが、公爵令嬢であっても聞き入れられなかった言い分が、小間使いの証言で通ると思いますか? 今夜会えて本当に良かった。貴女が実際に告発していたら、恐らく不敬罪で処刑されていたでしょう」
……言われてみればそうかも知れません。私は浅はかでした。この国の現状では、小間使いが主人を断罪なんて許される筈もありません。
「では、どうすれば。ふしだらの証拠なんて、なかなかありませんわ……」
「聞いて下さい、セシリーナ。あの女の罪は、ただ身持ちが悪いだけではないのです。今はその与えられた富と立場をいいように使って自分が楽しんでいますが、元々、あの女は敵国の間者なのです」
……。…………。…………ええっ?!
「あの女の役目は、王太子に取り入って王妃となり、夫を殺して女王となり、この国を帝国の属国とさせる事なのです。そこまではわたしの配下が掴んでいます。ただ……確たる証拠がないのです。証拠がなければ、誰をも納得させる断罪が出来ない……今やあの女は、両親にも気に入られていますから」
「そんな。なんという事でしょうか。嫌ですわ! この国が、そんな未来を……!」
敵国であるローデシア帝国は軍事国家。徹底的な身分制。属国民は、王族貴族以外は奴隷扱い。私に親切にしてくれた親父さんや店主の顔が浮かびます。あの人たちが奴隷に?! そんな事、許せません!
「セシリーナ。もしかしたら、貴女だけが国を救えるかも知れません」
「えっ?」
「あの女は、寵愛を失わない為に浮気の証拠隠滅には躍起ですが、肝心の任務に関しては、うまく行ったと思い、自分の愉しみに耽っています。あの女の部屋係である貴女なら、あの女が不在の折に、隠した密書などを見つけられるかも知れません。それさえあれば、皆の目を覚ませる筈」
「な、なるほど。わたくし、やってみますわ。今までは、情事のあとばっかり気にしていましたから!」
……それもはしたない発言だったかも知れないと思ったけれど、言った事はもう戻りません……。幸いレーン王子は何も気にしていないようで、にこりと笑い、
「では、お願いします。もし危なくなったら、助けを呼んで下さい。この屋敷は、私の部下に見張らせていますから」
そう言って、改めて、
「貴女が無事で良かった。これからはもう、目を離しはしませんから」
と私の手に、淑女にするようなくちづけをしてお帰りになりました……どういう意味でしょうか?
もう、夜が明けかけています。ああ、仕事が辛いのに、寝る暇が……。