チョコレート狂騒曲
「実家、金持ちなんだろう?」
俺がそう舘花に聞いたのは、確か、秋。
紅葉は赤く、銀杏は黄色く色づいた、秋の公園のベンチでのことだったと思う。
そう思うのも今、俺の目の前にある銀杏の絨毯、銀杏の臭い、それと同じものがあの時も目の前にあった気がするからだ。
でも、残念ながらその細部までは覚えていない。
だから、あの頃の俺は、まだ秋の景色の美しさになんて、ほとんど関心などなかったのだろうと思う。
なぜなら景色というものは、いつだって記憶と密接に関わっているからだ。
だからこそ、俺の記憶の細部は欠けてしまっている…たぶん、そんな気がするのだ。
でも、なぜだろう……
不思議な事に、毎年秋になると俺の頭の中に不意にあの時の情景が浮かぶ。
「ん?」
俺の突然の言葉に驚いたふうに舘花は振り向いた。口にはフライドポテトを咥えている。
だから俺はもう一度
「実家のことさ」
と念を押し、ハンバーガーを齧った。
すると舘花は
「へへっ、そういうことか…」
と、誤魔化すように笑った。
でもそれが、特に嫌なことを聞かれたふうでもなく、怒ってもいないのだということは、俺にはすぐにわかった。
なんだかんだで密度の濃い付き合いをしてきた仲だ。それも普通の友情なんかではない、もっと特殊な共犯関係の日々を……
俺は幼い頃に精神的な疾患があると診断された。それは具体的に言うと
「俺には通常は持っているであろうと思われる感情がほとんどなく、多くの感情が欠如している」
というものだった。
そして、その疾患を逆手に取り、俺の一番の才能は「人を殺してもなんとも思わないことだ」と発見したのがこの舘花だった。当時、高校のクラスメートだった舘花が俺にこう言った。
「なぁ、シロちゃん。その才能を使って商売をしないか?きっと、俺とお前ならバカみたいに稼げるぞ」
悪びれもせずに言ったその言葉が、俺の後の人生を根こそぎ変えてしまった。
そうして俺は、高校生の時に舘花に殺し屋に仕立てられた。
そして、そのお陰で今の俺がいる。
実に不思議なことだが、俺は多くの人を殺すことによって、だんだんと感情を自覚できるようになり、心を取り戻していっていたのだった……
「なんだよシロちゃん。ほんとに最近は、色んなことに疑問を持つようになったなぁ」
舘花はベンチに深く腰掛け直し、脚を組んだ。そして、紙袋から俺と同じくハンバーガーを取り出して、ガブッと齧る。
このハンバーガーにしたって一番安い、パサパサしたやつだ。ケチャップの味しかしやしない。
とても金持ちが食べるようなものではなかった。
でも、俺ももう一口食べた。
別にまずいと言う程でもないのだ。むしろ、その頃の大学一年生の俺達の胃袋には丁度いい食べ物だった。
しかし。俺達はやはり、決して普通の意味での大学一年生ではなかった。
こんなものを食わなくても良いくらいに、いや、それ以上に、唸るほど金を持っていて、そして、その金は言うまでもなく、とてもまともな金ではなかった。
それ故に俺と舘花は、実に色々なものから、ずっと逃げ続けなければならなくなっていた。
つまり、俺達の人生は大学一年生の秋にして、既に崖っぷちまで追い込まれていたと言っていい……
でも、俺達は決してそのことに悲観的にはならなかった。むしろ
「ま、俺達の自業自得さ」
とよく二人で笑い合ったりもしていたものだ。
だから、そんなことはとっくに納得済みで、その上での俺の疑問だった。
「なんでだ? なんでこんな殺し屋なんて?」
改めて言って、俺はビールを飲む。
やっぱりポテトにはビール。秋の公園にはビールだ。俺の口の中を甘く、苦い味がじんわりと染み渡っていく。
舘花も同じものを飲んでいた。そして、
「ははは、シロちゃんこそなんだよ。今更、当たり前の疑問を持ちだして」
と、俺を茶化そうとしたから、俺は
「今までは当たり前じゃなかったんだ。わかるだろ?」
と言った。すると、それを聞いた舘花は
「ぷっ……あはははは」
と、爆笑した。いかにも愉快だという感じで。
何がそんなに可笑しいのか? 人が真面目に聞いているのに。俺は少し頭に来て
「わかった。そうやって舘花は俺のことを、ずっとバカにしていたんだな」
と言う。
すると、その俺の言葉に舘花はピタッと笑うのを止め、
「……俺は、シロちゃんのことをバカにしたことなんて一度もないよ」
と真剣な顔で言った。
でもその真剣さの中には様々な、のっぴきならない感情が入っているようにも見えた。
「じゃあ、利用していた?」
「……それは、言いっこ無しだ。そういう約束だろ?」
そう言うと舘花は、ハンバーガーを食べきり、手をついて
「よっと…」
とベンチから立ち上がる。
そして、うーん、と伸びをした。
秋の強いような、優しいような光が舘花の栗色の髪の毛を透き通らせる。
どんなことをしても絵になる奴だった。
あの顔で金持ちのお坊ちゃまなのだ。やはり俺なんかとこんなことをしているのは、おかしい。
俺がそう思い、口を開こうとすると、それよりも前に
「なぁ、シロちゃんは後悔してるのかい? ……俺と組んだこと」
と聞いてきた。
もちろん、俺は後悔などしていなかった。
それは今でもそうだ。
でも、当時の俺は、そんな簡単な問いかけにも、即答することができなかった。
「……たぶん、後悔していないと思う。ごめん、でも、最近よくわからないんだ。俺には……正直、それすらもよく……」
俺が舘花の気持ちなど想像せずにそう言っても、それでも舘花は
「そっか……へへっ。まぁ、なんだ。それもいっそ羨ましいよ」
と、また笑ってくれた。
そして、よく聞こえなかったけれど、最後に舘花はそっぽを向いたまま
「大丈夫、心配すんな。シロちゃんの居場所は、俺が必ず残してやるから…」
とも言ったのだと俺は記憶しているのだが……
それもやはり、今となっては確かめようもなかった。
○
その日の始まりは穏やかなものだった。
俺がいつものビル清掃の仕事に出勤する前に、事務所で朝刊を読んでいると、つけっぱなしにしていたテレビから、聞き覚えのある名前が聞こえてきた。
事務所、と言ってもカッコイイものではない。
俺は一応この《掃除屋・猫の手》の社長でもあるが、従業員は俺一人だけだ。こんなのは社長でもなんでもない。
事務所の中は掃除屋のくせに、やたらと散らかっていて、テレビの音もろくに聞こえないくらいだ。こんな感じで胸を張って自営業者だと言えるわけがないと、俺は常々思っている。
「ん?」
その聞き取りづらいテレビ音声に釣られ、俺は顔を上げてテレビの画面を見る。
そこには国会議事堂内部のあの赤い絨毯が映っていた。そして、そこで今一人の男が、誇らしげに記者の囲み取材を受けている。そんな様子が画面いっぱいに広がっていた。
それを見て、俺が
「なんだ? どっかで見たことのある顔だな」
と、思っていると画面横にテロップが出た。
〈自由党 衆院議員 播磨朔二郎〉
と。
「あっ」
それを見てようやく俺は思い出す。
なんのことはない、遥か昔の依頼人だったのだ。
確か、あの頃はまだ議員秘書だったはずだが……そうか、お付きの議員が亡くなって、地盤を引き継いで当選したんだな。へぇ、頑張ったものだ。
俺はそう思っただけで、それが一体どんな内容のニュースかも把握しないまま、テレビを消してしまった。
関心がないわけではないが、もう行かなければならない時間なのだ。
俺は椅子から立ち上がると、飲み残していたコーヒーを飲み干し、作業服の入ったカバンと業者のライセンスを持ち、事務所を出た。
そして、別に盗まれて困るものなど何もないが一応鍵を閉め、見慣れたボロボロの階段を降りる。
この薄汚れた雑居ビルの階段についた窓から入ってくる風に、あの夏場の鼻につく潮の匂いがないことから、俺は秋の深まりを知る。
都会ではそんなことからしか季節を感じられないのだ。情緒も何もあったものではない。
「今日は帰りに公園でも寄ってみようかな」
と、俺は思う。
俺は秋が妙に好きなのだ。だから、この時期をちゃんと感じないのはもったいない。
そんなソワソワした気持ちを抱えたまま、俺はビルを出、場末の町をオフィス街に向け歩く。
今日もいい天気だった。
○
俺はいつから秋が好きになったのだろう?
時々そう思うことがある。
そして、きっとこれも、誰かから貰った感情だった。
だとしたら俺は、実は本当の季節の醍醐味など知らないかもしれない。
なぜならば、季節は巡ってやってくるものだからだ。
その流れを自然と楽しみ、そして苦しまなければ、その季節の本当の有り難さや季節感などわからない。
俺にもそのくらいのことはわかっていた。
夏の暑さの後、冬の寒さの前、春とは違う色に染まる秋。
それは単体ではわかっていても、俺の場合、どうしても途中で分断されてしまっている気がしてならなかった。ずっと、俺の中で、その季節の巡りというものが、ひとつに繋がってこないのである。
俺はそんなことを考えている時、いつも迷宮の中を一人で歩いているような気分にさせられる。それも、出口のない迷宮を。
俺はたぶん、一生この迷宮から出ることは叶わず、彷徨い、苦しみながら死んでいくのだ。
「俺は本当は何一つ知ってなどいないのだ」という、この暗い迷宮から…
ダメだ。わからない……俺は、俺はどうしたらいい? どうしたら、俺はここから抜け出せる?
そのために…
次は誰を殺したらいい?
そう尋ねても俺の側にいた、案内人はもういなかった。
でも道標は時々、他人がくれる。
その命と引き換えに。
○
仕事を終え、結局公園に行くのは着替えてからにしよう思い、事務所に戻ると、ドアの鍵が開いているのに気がついた。
それを見て俺は、公園のことや仕事の疲れなど、何処かへ吹き飛んでしまう。
そしてすぐに理解した。
来客だ、と。
しかも、普通の清掃依頼の客じゃない。
本業の方の客だ。
普通の客は鍵など開けないし、そもそも直接、事務所になど来ない。皆電話依頼だ。もちろん空き巣でもないだろう。俺の事務所に盗む価値のあるものなど何もない。だとしたら、例の依頼以外はあり得なかった。
しかもこの気配…中にいるのは、おそらく、同業者…!
「誰だ……? ここを知っている人間など、限られてくるが……」
俺はそう思った。
しかし、躊躇していても埒があかないので、思い切ってドアを開ける。
すると、事務所の俺の机の上に一人の女が座っているのが見えた。
「あら、お帰りなさい。シロちゃん。ふふっ、随分久しぶりね。元気だった?」
女は俺がドアを開けると、こちらに振り向き、微笑みながら言った。
その女の顔を見て俺は、思わずドアノブを握っていた手に力を入れる。久しぶりに背中もピリピリと痛んだ。
何で今更、こいつが…? と。
大体、俺を昔の名前で呼ぶ人間に、ろくな奴はいないのだ。その中でも、この女はその代表格みたいな奴だった。
「未杉今日子…… まさか、お前もここを知っていたとはな……」
今日子は俺の様子に満足気に微笑むと、ブルーのタイトジーンズを履いた脚を組み替え
「あら、知らなかったの? それは残念ねぇ。せっかく、この間もひとつ仕事を回してあげたのに…」
と、特に残念そうでもなく言う。
この間の仕事? もしかして、あの上品な高齢女性の依頼のことか…
俺はそう表情に出さないように考える。
そんなちょっとした駆け引きを楽しむ感じも、昔とまるで変わっていなかった。
変わっているとしたら、さすがにちょっと老けたことだったが、それでも今日子のその、全ての男の視線を吸い込むような美貌は、今でも健在と言ってよかった。
しかし、そんなことは俺にはどうでもいいことだったので、
「この間の仕事……なんのことかな?」
と言って事務所に入り、ドアを締めた。そして、さり気なく施錠をする。事の次第では今日子を帰すわけにもいかなくなるかもしれないからだ。
見ると、今日子はおそらくそれに気がついているのだろうが、それにも関わらず余裕の表情を浮かべている。
今日子の清潔で皺ひとつない白いシャツが俺の目にチカチカと眩しい。
「ふふっ、相変わらずのプロ根性ね。聞きたいことは山程あるのに、依頼があったことは決して明かさない。やっぱりシロちゃんに振って正解だったわ」
俺が考えていると、今日子は確認するようにそう言い、おもむろに持っていた小さなパーティーバックに手を入れた。
その動きに、俺は咄嗟に身構える。
が、そこから出てきたのは小型の銃などではなく、小さな茶色い紙の箱だった。
俺は意表を突かれた。
「ん? なんの箱だ?」
そう思っていると、今日子はその箱からチョコレートを一粒つまみ出し、口に入れる。
そして、ゆっくりと溶かすように口の中で転がして食べ、また満足そうに口角を上げた。
俺はそんな今日子の仕草を黙って、じっと見てしまった。
なんとも人を食ったような態度だ。
でも、俺はこの今日子に昔から、散々煮え湯を飲まされてきたので、なんとか気にせずに話を元に戻す。
「で? 用件はなんだ?」
俺が冷たい口調で聞くと、今日子は
「あら、なぁに? 用がないと私はシロちゃんに、会いに来ちゃいけないわけ?」
と拗ねたような声を出す。本当に、よくやるよ、と俺は思った。
「ああ。できれば用があっても来て欲しくはないんだがな」
「あら、随分ね。でも、用件を聞くってことは今回は大目に見てくれるってことでいいんでしょ?」
「まぁ、今回だけはな」
それに今日子は小声でやった、と言う。
結局はこうなってしまうのだ。今回の場合は前回の依頼の件を持ちだされた時点で、最初から俺が不利になってしまった。もしかしたら、それも予め計算に入れていたのかもしれなかったが、俺はやはり探りを入れることもできない。こういう女を強かと言うのだなと俺は改めて学んだような気分だった。
「じゃあ早速だけど、これに目を通してくれる?」
そう言うと今日子は俺に一枚のコピー用紙と二枚の写真を渡してきた。
俺はそれを受け取る。それらからは、もれなく香水の臭いが漂っていた。バラのような、ハーブのような……百貨店の化粧品売場のような臭いと言ってしまえばそれまでだが、まぁ、そんな感じだ。
俺は臭いを気にしつつも用紙に目を通し始める。
「片咲瑛大、38歳、第一矢渕重工業株式会社、営業部勤務、勤務地千代田区、既婚、現住所目黒区………」
簡潔なプロフィールだ。俺は目を通しざっと記憶すると、今度は写真の方を見る。どちらも一人の男しか写っていなかった。
男は写真のそれぞれで違うスーツを着ている。なかなか仕立ての良さそうなスーツだった。吊るしなどではない。それはそうか、第一矢渕と言えばかなり大手の会社だ。しかも、ここ数年で業績が著しく伸びてきているとも聞く。営業部で、もし成績が良ければ給料もなかなかのもののはずだ。給料。俺にはついに、とんと縁がなかったが、いい響きである。
次に男の顔に注目する。とりとめて特徴のある顔ではなかったが、笑顔がよく似合う、実に人の良さそうな顔をしていた。良い給料とは縁があっても、とても殺し屋なんかとは縁のなさそうな、そんな顔だ。
「この男がターゲットか?」
「ええ。そうよ」
俺はそれだけ確認すると、その用紙と写真をすぐに今日子に返した。
そして、懐からタバコを取り出し、口に咥えて
「で、いくらだ?」
と火を付けながら聞いた。
依頼人が素人なら引き受けるかどうかの際に、俺は色々な段取りを用意するが、今回のように同業者が依頼人なら話は別だ。この話を聞いてしまった時点で、俺は引き受けるしかなくなってしまっているのである。だったら話は早い方がいい。
そのことは今日子もわかっているだろう。でも、彼女はあえて焦らすように
「あら、いいの? シロちゃんはいつも値段は自分で決めるんじゃなかった?」
と聞いてきた。
余程、俺を苛つかせて、目先を狂わせたいらしいが、これでは余計に怪しんで冷静になってしまうだけだ。いや、わざと怪しませるのが狙いか?
…とにかく、今日子の考えていることは単純そうで、実は根が深いから注意しなければならない。
「いつもならな。でも、同業者からの依頼に相場なんてないだろう? 俺は損はしたくないんでな」
「ふふっ、それもそうね。大丈夫よ、ちゃんと金額は決めてあるから。1000万でどうかしら?」
今日子は机から下りて言った。それに俺はタバコの煙を吐き出しながら
「1000万か…やはり、何か裏があるヤマなんだな?」
と言った。それに今日子はくすっと笑う。
「……聞きたい?」
「いや、いい。知る必要はないからな。俺はただ、言われた通りにターゲット殺す。それだけだ」
俺はまた煙を吸い込んだ。
そんな俺の態度に、今日子はつまらなそうにする。
が、やがて
「とか言って…また途中で気になってきて、余計なことにまで首を突っ込んじゃうんでしょ? シロちゃんの悪い癖よ。好奇心で身を滅ぼす。だったら、初めから事情を聞いておけばいいんじゃない?だって……」
「それで御影ちゃんは死んじゃったんだから」
と、今日子は何気なくそう言った。
何気なく。そのように言ったふうにはしていたが、それが俺を挑発するために言ったのだということは明白だった。
そして、そうわかっていても俺は、その言葉にだけはどうしても反応してしまう……
「おい、気安く舘花の名前を出すんじゃねぇ。次は、許さんぞ」
俺がそう言うと今日子はあら、ごめんなさいと応え、肩をすくめた。もちろん、悪びれた様子など微塵もない。
「あ、そうそう。よかったらこれも使って頂戴」
目的は達したのか、話を変えるように言うと、今日子は今度こそバックからハンカチに包まれた小型の銃を取り出し、俺に渡してきた。
女スパイがスカートの中に忍ばせているような銃だ。でも、俺はそれを今日子に押し返す。
「いや、遠慮しておく。前にお前の用意した銃を使って、足がつきそうになったことがあるからな。とてもじゃないが、信用できない。自分のを使う」
「あ、そう。私って、よっぽど信用がないのね」
今日子はそう言って、銃に関してはあっさりと引き下がった。
俺は「当たり前だ」と心の中で言う。
「前金は200でどうだ?」
俺がそう言うと、今日子はわかったわと言い、またチョコレートを口に入れた。
そして俺の元へ近づいてきたかと思うと、
「じゃあ、ついでにこれもあげる」
と言い、そのまま唇を口に押し当ててきた。
口の中に柔らかい感触とチョコレートの味が広がる。苦く甘い味だった。
抵抗しようとするとかえって、今日子は無理矢理、口の中に入ってこようとする。
だから俺は仕方なく諦め、身を任せた。なんだか懐かしくもある、強く長いキスだった。
「ふふっ、これで前金にならない?」
唇を離すと今日子は言った。
それに俺は
「なるわけないだろう」
と、口を拭いながら言う。もう口も手もチョコレートでベタベタだった。
そんな俺の様子を見て、今日子は満足気に笑うと
「ふふっ、大丈夫よ。前金はもう、シロちゃんがいつも使ってるコインロッカーに入れといたから。ちょっと多いけど、ま、受け取ってちょうだい。じゃ、健闘を祈るわ。またね」
と言い、鍵を開け、事務所を去って行った。
あとには香水とチョコレートの香りだけが残った。
「本当に……嫌な女だ…」
俺はそう言うと、棚からウイスキーを取り出し、一口飲んだ。
まだ、口の中のチョコレートは消えてくれない。まるで嫌な記憶みたいに、いつまでも俺の口の中にこびり着いている。
「コインロッカーの位置も替えないとな……ちっ、あいつはいつも、俺の周りのものの位置を少しずつ、ずらしていきやがる…」
俺は悪態をつくとウイスキーをもう一口飲んだ。
いよいよ、公園どころではなくなっていた。
○
今日子が来た翌日は仕事がたて込んでいたため、俺が調査に乗り出したのは、その次の日からだった。
朝、かなり早くから自宅の前を張り込んでいると、7時半頃ターゲット、片咲瑛大が姿を現した。
玄関のドアの前で、奥さんと二人の子供に見送られ、これから会社に向かうようだ。
なんともほのぼのとした光景だが、俺の仕事に支障はない。
とりあえず、後をつけることにする。まずは身辺調査からだ。
事前にこの辺りの地図と地形は把握してあったから、片咲が最寄りの駅に向かって歩いているのは、すぐにわかった。
しかし、そのルートは最短ではなく人通りの多いメインの道を歩くルートだった。こういった時、普通通い慣れた道ならば一番近い道を通りそうなものだが、引っ越してきたばかりなのだろうか?
その辺りの事情まではまだ知らなかったから、とりあえずその疑問は置いておくことにする。
俺は一定の距離を保ち、うまく人混みに紛れて尾行を続けた。
駅構内で電車を待ち、満員の電車に一緒に乗り込む。
降りるだろう駅はわかっていたから、見失う心配はない。ないのだが、一応イレギュラーに備え、目の端にターゲットが入っておくようにはする。だが、それが満員電車の中ではなかなか苦労した。俺は久しぶりにこの時間帯の電車に乗ったが、本当に辟易する。今日特に変わったことがなければ、明日からは会社に出勤した、その後の時間帯から尾行を開始しようとすら思ったくらいだ。
「皆、こんな中を毎日か……俺なら是非田舎で就職したいね……」
そうやって特に変わったこともなく、片咲はほぼ予定通りの時間に出社し、ビルの中へと消えていった。
巨大な全面ガラス張りの「第一矢渕重工業 本社ビル」である。
今日もガラス清掃に余年がない。
この面積のガラスをいったいどうやって、そして何人がかりで掃除しているのか知らないが、もし人出が足りないなら、是非俺も一枚噛ませて欲しかった。ガラス清掃には自信があるのだ。それに、ここならきっと日当も良いに違いない。
俺はそんなことを考えながら、入口の前を素通りする。さすがに中まで入っていくわけにもいかない。かと言って、ここには警備員の目があるから、入口の前をうろちょろしていることもできないため、俺はちょっと離れた街角の喫茶店に入り、そこで片咲が出てくるのを待つことにした。
しかし、結局片咲はほとんど会社から出てこないのだった。
お昼休みに一回と、三時過ぎに一回、それと夕方に一回入口まで来客を迎えに来ただけだ。
「なんだ? 営業部勤務ではなかったのか?」
それとも、今日は偶々か?
俺はすっかり氷の解けたアイスコーヒーを飲みながら思う。なんだか、勝手に一日中、外回りをするものだと想像していたが、片咲はあの歳で、既にそこそこの責任者のポジションにいるのかもしれない。
それならそうと、今日子のやつ、一言ぐらい書いておいてくれればいいと思うのだが、聞かれても質問をしなかったのは俺だから何も文句は言えない。
それに、やはり俺の仕事に先入観はいらないのだ。何もかも、自分の目で確かめるのが一番正確である。
しかし、その日は確かめる術もなく、帰宅の時刻になってしまった。
もう辺りはすっかり暗くなっている。
最近は日が短くなったものだ。でも、毎年思うがこれくらいがちょうどいい。
片咲は駅前で同僚達と別れ、電車に乗る。
しかし、間一髪のところで前の電車を逃し、次の電車を待つことになってしまった。まぁ、よくあることである。
人の一時的に少なくなったホーム。
これでは顔を見られる危険性もあると思い、俺は遠巻きに様子を見ることにした。
列の先頭で片咲は電車を待っている。
特に変わった様子はない。
俺はそう思いながらも、目を離さずに観察を続けた。
そして、あることに気がついたのである。
それは、彼の後ろを人が通り過ぎる時だ。
その時、片咲は少し過敏なほど背後を気にするのである。
もちろん、一見しただけではわからないであろう仕草だった。ちょっと後ろを振り向いたり、時計を気にするフリをして横を見たり、ゴルフのスイングの練習をするフリなどをして周りを気にするのだ。
周囲は、少し落ち着きのない人だなとは、思うかもしれないが、普通はそれだけで背後を警戒しているのだとは思わない。だって、そんなことに何の意味があるというのだ。これではまるで……
「誰かに後ろから突き落とされると思っているみたいじゃないか……」
俺は急にその疑念に気づかされ、多少狼狽えた。
もしかしたら、自分の依頼内容がリークされているのかもしれないと思ったからだ。そんなことをするとしたら、今日子しかいないが…しかし、それこそ、そんなことに何の意味が?
疑念が消えないうちに次の電車が来てしまった。
俺は少し迷いつつも同じ車両の一番遠くに乗り込む。
「いや、さすがに今日一日で俺の顔が割れた可能性は低い。どういう原因があるかは知らないが、とにかく仕事には支障はない」
俺はそう思うことにして、片咲を始末する場所を探るべく、尾行を続けた。
すると、片咲は自宅の最寄り駅の一個手前の駅で降りたのだ。
危ないところだった。やはりイレギュラーを警戒し、同じ車両に乗っていてよかった。
その後も落ち着いて後をつけると、片咲は駅を出た所のコンビニに入り、缶ビールを買った。
これもなんだか、意外な行動だった。
ビールを買うだけなら最寄りの駅前にもコンビニはあるのだ。なぜ、こんなところで? でも、その答えはひとつしかなかった。片咲は店を出て、少し歩き人通りの少ない脇道に入ると、ビニール袋からビールを取り出し、飲んだのである。
「飲み歩きか。本当に意外だな」
昼間の勤勉な様子と、朝のあのほのぼのとした家族の光景からは、想像しろと言う方が難しかった。
彼は細い道をどこへ向かっているのか、ゆっくりと、しかもどこかビクビクしながら歩く。時折、ビールを煽り、後ろを振り向いて。
なんともやり辛かった。
こんなことをされては尾行どころではない。すぐにバレてしまう。
「くそっ、やはり気がついているのか? どうする…今日は引き上げるか?」
と、俺は思ったのだが、ふと横に植えられている街路樹を見て、彼の行き先を察することができた。
「そうか……片咲はこの先にある…」
そう思うと俺は元来た道を急いで引き返し、回り道をして、彼の向かっているであろう公園へと走った。
俺は一足先に公園に着き、片咲を待つ格好になった。
こんなことなら俺もビールを買ってくればよかった。しかし、周囲にはコンビニもなく、辺りはなんだか薄暗い。街頭が少ないのだ。
都会には珍しい型の公園だった。
しかし、立派な銀杏が何本か生えていたので、俺は退屈しのぎにそれを眺めることはできた。ひょんなことから公園で銀杏狩りができたというわけだ。やっぱりビールがないのが悔やまれた。
そうこうしていると片咲がやってきてベンチに座った。やはり、予想は当たったのだ。手にはビールともう一本チューハイみたいなものをビニール袋に下げ持っている。
最初は彼も銀杏狩りの同好かと思ったが、どうやら違うらしいとわかった。
先ほどから、うなだれてばかりで一向に上を見上げようとはしないからだ。
何をしているのだろうか? でも、何をするでもない。
そうやってただ、時間だけが過ぎていった。
彼はビールの空き缶と、飲みかけのチューハイをゴミ箱に捨てると、やっと家路につく。
時刻はもう9時を回っていた。足取りは重い。
玄関で片咲は家族に迎え入れられる。
その顔は、笑顔だがどこか疲れたような、今にも泣き出しそうな顔にも見えた。
俺は久しぶりに頭が混乱した。
これはもう少し調べる必要があるか…?
「……いや、大丈夫だ。知らなくても仕事はできる。支障はない。俺はただ殺すだけだ」
そんなことを思いながら、その日は俺も大人しく家路についた。
「大丈夫。支障はない…はずだ…」
○
「はい、これ」
「ん? なんだこれは?」
アジトでのことだ。俺は舘花から新聞紙に包まれた謎の物体を手渡された。妙にずっしりと重い。俺はその中身を確かめるべく包みを取る。
すると、中から出てきたのは一丁の拳銃だった。
「こ、これって…」
「へへっ、遅くなって悪かったな。これでシロちゃんも仕事がしやすくなるだろう?」
舘花は得意気に笑う。俺はその笑顔を見つめた。言葉が出てこなかったのだ。なんだか現実味がない。モデルガンを持っている気分だった。
俺が何も言えないでいると
「なんだ? 気に入らないのか?」
と、舘花は聞いてくる。だから俺は
「いや、そういうわけじゃない。ただ……うまく扱えるかなって」
と応えた。
「大丈夫さ。ちょっと貸してみ」
「おう」
俺は言われるがまま、舘花に銃を渡す。すると、舘花は実に慣れた手つきで、素早く銃を解体し始めた。そして、解体し終わると次は組み立て。鮮やかなものだった。俺はそれを終始、感心して見ていた。
「へへっ、これだけ覚えるのに一週間かかっちまった」
完成した銃を虚空に構え、舘花は笑う。それに釣られ俺もつい笑顔になってしまう。
「一週間か…相変わらす凄いな」
俺が自信なさげに言うと、舘花は
「そんなことないよ。シロちゃんならもっとうまくやれるさ。取扱書も一緒に渡す。だから…もっと喜んでくれよ」
と、いつもの前向きさで言った。
なんだ、結局そういうことなのだ。舘花は俺が喜ばないと、いつも寂しがる。
時々そういうところが子供っぽい。
俺はそれを察し、
「ああ。ありがとう。いつも助かるよ」
と言った。
「へへっ、いいってことよ」
「ところで、この銃はなんて言う銃なんだい? なんだか変わったトリガーの形をしているけれど…」
銃の知識が全くない俺が聞くと、舘花はさも嬉しそうに
「GLOCK19っていう銃さ。小型で、使いやすいと思ってな。ありふれた銃だが、日本ではどうなのかね? 俺は見たことないけど……」
と解説してくれた。
「へぇ、GLOCK19……」
俺はそう呟くと
「はいよっ」
と言いながら、舘花は俺に銃を投げて寄越す。
弾は入っていないとのことだったが、それでも危ない。でも、なんとか落とさずに受け取ることができた。
俺は手の中の銃を見下ろす。そして、
「まぁ、これからよろしくな」
と言うと、それでようやく実感が湧いて来たような気がした。
これはモデルガンなんかじゃない、本物の銃だと。
○
翌日もその翌日も、片咲の行動は大体同じだった。
朝出勤し、本社で仕事をし、昼飯を食べに出て、そして夕方から夜にかけて公園で時間を潰す。
俺も自分の仕事で来られなかった時間帯はあったが、概ねこの行動から外れることはなかった。そして、よくよく観察すると、彼はやはり終始何かに怯えている節があった。
それも、たぶん俺ではない何かにだ。
「……まさか、片咲は俺以外の誰かにも命を狙われているのか?」
俺は当然の帰結からそう思った。そう考えれば、あの公園での様子が腑に落ちるからである。
きっと、片咲はなるべくなら家に帰りたくないのだ。それは家族を巻き込まないため。
そして、家族に不安そうな顔を見せないためだ。
だから、仕事にも普通に行く。行かないと心配させるからな。それと仕事先には多少迷惑をかけても構わないと思っているのだろう。
まぁ、それも当然か。
もし、彼が本当に何者かに命を狙われているのだとしたら、それは仕事絡み以外にはあり得ないだろうから。
片咲のような真面目で普通な人間がそのような状態になるには、それ以上の理由は俺には推測できなかった。だとしたら、会社に匿ってもらうのはひとつの賢い手だ。もしかしたら、それで片咲は内勤にしてもらっているのかもしれない。ということは必然的に、
「会社側も承知済みってわけか…なるほどな。しかし、だとしたらあいつは一体、何をさせられたんだ?」
その日から俺は昼間の張り込みを止め、最近の第一矢渕の動きを調べ始めた。
しかし、結果から言えば、それはかなり苦労を要するものだった。
以前よりも遥かに情報が取り難くなっていたのである。
というのも、今年の初めに施行されたある法律が、第一矢渕を固く守っていたからだ。
秘密保護の例のあれである。
そのせいか、法律を掻い潜り、情報を所持している情報屋もまだかなり少なかった。取れるとしても時間が掛かると言う。俺は一応馴染みの情報屋に調査を続行してもらったが、とても間に合いそうもないので、あまり期待しないことにした。
とは言うものの、俺の情報網は他にはない。
俺の足にも限界があった。手元の情報は新聞くらいしかない。
そして…
「仕方がない…これはもう本人に直接確かめるしかないな」
と、三日後に俺は結論付けたのだった。
もちろん、今日子に聞こうなどとは思わなかった。
そんなことをしたら、嘘を教えられる危険性すらあるからだ。
それくらいなら、やはり何も聞かない方がマシだ。
○
情報調査中のある時、俺はふと、片咲の後をつけながら思った。
「これじゃあ、まるで殺しではなく、片咲のボディガードをやらされているみたいじゃないか……?」
と。
なるほど。いよいよこの「殺人依頼」は怪しくなってきたわけだ。
○
当時、やはり俺は自分の殺しの腕を過信し始めていたのかもしれない。
なぜなら、GLOCK19の初仕事は、散々なものだったからだ。
これもよく覚えている。
簡単な仕事のはずだったのに俺が失敗し、事態を複雑にしてしまった。
そんな苦い思い出だった。
「ま、そういうこともあるさ」
と舘花は言ってくれたが、俺は悔しくて仕方なかった。
それ以来、俺は狂ったようにこの銃を使い続けた。
ひたすら慣れるために。手になじませるように。
そんな気持ちも初めてだったが、なかなか変なところに向上心が眠っていたものである。
しかし、お陰で腕は良くなったが、使い過ぎの弊害はすぐにきた。
旋条痕で足がつきそうになったのである。
舘花が機転を効かさなければ、たぶん俺達はあの時に捕まっていただろう。
それから俺はこの銃を使うのを止め、タンスの奥に仕舞い込んだ。
でも、捨てることはしなかった。どうしても捨てられなかったのだ。
それは、俺にもやっとできた思い出の品だったから……
こうして、俺のGLOCK19は決して使われない銃になった。
○
今日という今日は、俺もビールを買って来ていた。
やはり銀杏が綺麗だ。
俺はビールを飲みながらベンチに座る片咲に近づく。
片咲は明らかに警戒の色を見せていた。しかし、俺が隣のベンチに腰掛け
「何か嫌なことでもおありですか? 毎日ここにいらっしゃっているようですが?」
と話かけると、少し警戒を緩め、
「あ、あなたは? なぜそんなことを…?」
と聞いてきた。だから俺は、なにげなく
「ここのゴミ箱の清掃員ですよ。あと、そこの便所の。だから毎日あなたを見かけていたんです」
と応える。
「あ、そうだったんですか…しかし、私はあなたのことを見かけませんでしたが……」
「それはそうでしょう。いつもあんなに俯いていたら。周りなんて見えていなかったはずです」
「あ、ああ…そうですね。そうか…そうかもしれませんね……」
俺達はそう言い合い、ビールを飲んだ。
苦しい言い分だったが、なんとか納得してもらえたようだ。どうやら本当に周りが見えていなかったらしい。俺はその辺の心境を是非探りたかったが、意外にも先に片咲の方が
「お若いのに、清掃のお仕事とは……その、大変ですね」
と口を開いてきたので、それに応じることにする。
「別に大変じゃあないですよ。仕事なんて大抵皆、大変なものです」
「はは、そうですね。これは、とんだ失礼を……」
「いえ。いいんですよ。それよりも、随分良いスーツじゃないですか。良いところにお勤めで?」
「いや、まぁ、それほどでも」
「ご謙遜もいいですよ。俺は言っても公園の清掃員です。あなたの方が良いところに勤めているに決まってますからね。あ、でも、お気遣いなく。俺も今の暮らしには満足はしていますから。しかし、さすがに時々、悩みもしますが…」
俺はそう言うとビールを飲み、銀杏を見た。それに片咲も上を見る。片咲はそれで初めてそこに銀杏があることに気がついたような顔をした。
「悩みですか…」
「ええ。あなたには無縁の種類の悩みばかりかもしれませんがね……」
「そんな……私にも悩みくらい、たくさんありますよ」
片咲は苦笑いしながら言った。それに俺は
「へぇ、どんな悩みなんですか?」
と、なるべく自然に聞く。
しかし、片咲は一瞬口を開きかけるも、すぐにグッと俯いて
「い、いえ…すいません。言うほどの悩みでもないんです。言うほどの……」
と言ったきり、何も話さなくなってしまった。
やっぱり、そうか。まぁ、無理だよなぁ。ここで言えるなら警察にでも何でも言っているはずだ。
俺は諦め、ただ隣でビールを飲んだ。
そして飲み終わると、さようならだけを告げその場を後にした。
偶然ベンチで隣り合った男の会話なんてこんなものだろう。
でも、後ろから小声で返事があった。
あったが、俺は振り向かなかった。
たぶん次に会う時は、殺す時だろうと、俺は思っていたから。
しかし、この時には、事態は急激に思わぬ方向へ動き出してしまっていたのだ。
○
その翌日のことである。
俺は殺しの場所をあのベンチと決めていた。
だから片咲がいつも通り駅で降りるのを確認した後、先回りし、待ち伏せていたのである。
「今日子に義理はないが、仕事は仕事だ。引受けたからには遂行する。それが俺達の唯一のルールだったからな……」
俺はそう思うと、懐にしまったナイフを確かめるように触り、片咲を待った。
しかし、おかしいのだ。
片咲がいつまで経っても現れないのである。
いつもなら、とっくに現れていてもおかしくなかった。
「どうしたんだ? 今日に限って…まさか、昨日の会話で気づかれたか?」
俺はそう思い、いつもは遠回りして避ける近道を見に行った。でも、そこにも片咲の姿はなかった。
「くそっ、どこに行った…?」
と俺が辺りを見回していた時である。
「ん?」
俺は道の脇の茂みの下に、それを見つけたのである。
それは飲みかけの缶ビールだった。
中身はまだ半分ほど残っていて、触るとまだかなり冷たかった。銘柄から見ても、おそらく間違いないだろう。片咲が飲んでいたものだ。
それが、なぜ落ちているのか……考えられる可能性はいくつかあった。しかし、おそらく…
片咲は、何者かに拉致されたのである。
「ちっ、少しモタモタし過ぎたか……」
俺は唇を噛む。
殺しのターゲットを横取りされるなど、恥さらしもいいところだ。
俺は缶ビールをグシャッと握り潰すと、茂みの中に投げ捨てた。
そして、考える。誰に拉致されたのか、どこに連れて行かれたのかを。
しかし、俺には何の手掛かりもなかった。俺は何の理由で片咲が狙われていたのかも知らないのだ。これではまるでお手上げである。
「今日子に聞くか? いや、そもそもその今日子だって怪しいのだ。まだ何か裏があるのかもしれない…」
俺がそう悩んでいると、ふいに携帯電話が鳴り出した。
見ると、頼んでいた情報屋からである。
もしかしたら、渡りに舟か? 俺はそう思い、すぐに出た。
そして、その電話で俺は片咲の居場所を推測することができた。
やはり、毎朝新聞を読んでいて良かった。
まぁ、きっかけはテレビだったがな……
そう思うと、俺は間髪入れず駆け出した。
タクシーを拾う為だ。そして、新宿のビルに向かう。
「まさか、また過去が俺を喰おうとしていたとはな……」
俺は走りながら呟く。目的地は、昔よく世話になった組織のビルだった。
○
俺がビルの正面に立つと、下っ端が歩み寄ってきた。
その目つきを見る限り、俺のことは知らない様子だ。しかし、すぐに奥から顔見知りが出て来て、下っ端をどかしてくれた。今では幹部になったらしい。時の経つのは早いものだ。
「よう、まさか本当にまだ生きていたとはな、士郎よ」
「あなたも、まさかまだ鉄砲玉になってなかったとはね。やっぱり国会議員の後ろ盾があると、この業界は動き易いのかい?」
俺がそう言うと男は
「ふんっ」
と言った。俺はこいつの顔は覚えていたが、名前までは覚えていなかった。でも、それ以上は何も言わず俺を中に案内してくれた。
事務所の扉を入ると、そこには椅子に縛られた片咲と、いかつい男達がいた。
その真ん中の奥の椅子には組長の三井完蔵が。そして、その横には……
「未杉今日子……」
俺は歯噛みした。やっぱりだ。やっぱり最初から信用などしてはいけなかったのだ。
「やっほー、シロちゃん。ごめんなさいね。私にも色々と事情があるのよ」
今日子は相変わらす悪びれずに言う。もう怒る気にもなれなかった。
「でも、よくここがわかったわね。さすがだわ」
「おあつらえ向きの情報が転がり込んできたのさ。だが、そんなことはどうでもいい。それよりも、俺は三井さんと話がしたい」
俺がそう言うと今日子は引き下がり、代わりに三井が話し始める。昔よりだいぶ老けたように見えるが、それでも70歳とは思えない若々しさだ。
「久しいな。また会えて嬉しいよ。甘津南士郎くん。舘花くんのことは残念だったなぁ」
「ふんっ、何年前の話をしているんです? 俺はそんな与太話をしに、ここに来たんじゃない」
俺がそう言うとこの場が俄に殺気立つ。しかし、それを三井が諌めて
「まぁまぁ、そう急かすな。年寄りの思い出話くらい、付き合ってはくれないか?」
と言う。俺はそのわざとらしさに苛々した。だから、
「これから殺そうって相手に思い出話もないでしょう。それとも、だからこそ語っておきたいのですか?」
と聞いてやった。
それを聞くと、三井はにやっと笑う。
「それもそうだな。いや、すまないねぇ。士郎くん。本当なら君を探し出して始末しようなんて、思わなかったのだがね。何と言っても君と舘花くんは、我が組の影の立役者だ。感謝こそすれ、恨みなどない」
「嘘をつけ。確かに恨みはないだろうがな、俺達は色々と知り過ぎている。だから、三井さん。あなたは昔、俺達を何回も始末しようとしたんじゃないんですか?」
俺がそう聞くと、三井は
「ははは、やはり気づいていたか」
と言う。
「まぁ、君達をそう簡単に始末できるなどとは、当時も思っていなかったがね。でも、君達は隠れてくれた。この業界からも姿を消した。そのうちに風の噂で舘花くんが死んだとも聞いた。それで私は安心したのだ。もう君を放っておいてもいいだろうと。君は口が堅いからな。それに君も今更、我々と事を構えるつもりはないと思ったからね」
「俺は今でもそのつもりですよ。あなた達のことなど、どうでもいい。しかし、今回はそちらからちょっかいを出してきた。どういう風の吹き回しです? それとも、誰か心配性の国会議員でも抱え込んだんですか?」
俺がそう聞くと、三井は大笑いした。この場にいた一同も同様に顔を緩める。皆、感想は同じらしい。
「相変わらず勘だけはいいな。まぁ、簡単に言うと、そういうことだ。あの人は少しでも自分の汚点を知っている人間が、それも組織の外部にいるのが、非常に気になるらしいんだ。そこで君の居場所を教えてもらった。この未杉くんにな」
三井がそう言うと未杉がニコッと笑った。ま、そんなところだとは思った。正直、腹が立つが仕方がない。これも自業自得、自分が過去に蒔いた種だ。いつ芽が出てもおかしくはなかった。
「へぇ。それでこの兵器密輸の片棒を担いだサラリーマンを餌にしたと…よく考えたもんだ。それで播磨の過去の汚点も、現在の汚点も消せる。一石二鳥だものな。片咲と俺を同時に始末したら、片咲殺しの犯人は俺にすれば済む話だ」
俺がそう言うと、三井の顔が曇った。「兵器密輸」と「播磨」という言葉が気に食わなかったらしい。
しかし、俺は平然とその様子を見てやった。今が大事なタイミングなのだ。
俺がこの場を切り抜けられるかどうかの、大事な選択。
ここで間違いは許されない。
「なんのことだね? 士郎くん」
「とぼけなくてもいいですよ。弾道ミサイルの制御基盤のことです。武器輸出の規制緩和により、これから第一矢渕の主力商品となる予定のね。その試作品を秘密裏に某国に横流したみたいじゃないですか。そして、それを政治資金へと変えた。見事な錬金術だ。今時、珍しいね。そんなことをする政治家も。先生譲りかな?」
はっきり言って俺の言っていることに、大した裏付けはなかった。あの電話一本だけだ。
しかし、みるみるうちにこの場の空気は凍りつく。
当たらずも通らずだったのだろう。それは顔面蒼白になっている片咲を見てもわかった。
「な? そうだろ? 片咲さん」
「あ、あなたはなぜ? 清掃員さんじゃあ……」
片咲はなんとかそれだけ言う。
こんなことになっても、まだ俺を清掃員だと思っているのか? まぁ、なんでもいいが、否定しないということはたぶん、彼が命を狙われる理由もそれなのだろう。彼も知り過ぎているのだ。
このままではどの道、俺も片咲もここで消されるな。
俺がそう思っていると、三井が
「君もなかなか頭を使えるようになったな、士郎くん。しかし、それが命取りになった。やはり君には舘花くんのように立ち回るのは無理だよ」
と言い、案の定、部下に合図を出した。
「殺れ」ということだ。
だから俺は間髪入れずに、
「今日子っ!」
と叫んだ。
それに一瞬、全員の手が止まる。
今日子は先ほどからじっと俺の方を見ていて、俺はそのことに気がついていた。
たぶんこれが、この状況こそが、今日子の本当のシナリオだったのだ。
俺を追い込み、俺にこれを言わせる為。
たぶん、この世ではもう、俺とあいつしか知らない事実……
それを突き止めるための賭け。
「五年前の事件……あれの犯人を教えてやってもいいぞ」
俺がそう言うと、今日子は満足気に笑った。
そして、すっと銃を構えると、その次の瞬間には、
今日子は三井の頭を撃ち抜いていた。
声もなく、椅子から転げ落ちる三井。
その状況を誰しもが理解できていなかった。
理解していたのは俺と今日子だけ、そして水を打ったような静けさの中、今日子が俺に
「ふふっ、じゃあ依頼内容を変更よ。片咲を保護。ついでに、こいつら全員片付けて頂戴」
と言った。
俺はそれに了解と小声で答えると同時に、懐からGLOCK19を抜き、立て続けに発砲する。
タクシーでここに来る前に自宅に寄り、取ってきておいたのである。
この場所ならいくらでも撃っても構わないと思ったからだ。
ここなら、たくさんの武器が集まる。
万一、旋条痕が割り出されても、その銃が現在、誰の所持品かなど、いくらでも有耶無耶にできる。
「畜生ーーっ!!貴様らーーっ!!」
怒号が飛び交う中、俺と今日子は次々と組員を撃ち殺していった。
彼らに罪はない。
あるかもしれないが、俺達に恨みはない。しかし、ここで詰めを誤れば、また悪い芽が出かねないのだ。
俺達は徹底的に潰し、パトカーが大挙して押しかける前にマンホールから辛くも逃げのびた。もちろん、片咲も連れて。
片咲は怯え、震えていたが、生き延びたことには涙を流していた。
俺はそんな、もう殺さなくていい元ターゲットの肩を抱きながら、下水道の中をひたすら駆けて行った。
○
片咲は今や俺達の命綱だった。
彼を黙らせるのを条件に播磨には、俺達を見逃してもらう。
俺達が倒れれば、片咲から情報が漏れ、片咲が倒れれば俺と今日子から情報が漏れる。
そのように電子メールをセットしたのだ。
何重にもセーフティーを敷いて。
これで片咲も100パーセント安全とまでは言えないが、前よりも安心して暮らせるだろう。誰も迂闊には手を出せまい。
ただ、俺個人の生活は今までのようにはいかなくなるかもしれなかった。
少し派手に暴れ過ぎたのだ。それに多く殺し過ぎた。
こればっかりは、昔の仲間の目を誤魔化せないだろう。
そして、そいつらは皆大抵、厄介な奴らなのだ……
○
「本当なんでしょうね? この情報」
俺が渡したメモ書きを手に、今日子は言った。
海に注ぐ小さな川沿いの道、モノレールの高架下だ。こんな所には誰も来ない。だから俺は取引によく使っていた。
「ああ。嘘をついてもしょうがないからな。後は煮るなり焼くなり、お前の好きにしろ」
俺はそう言うとタバコの煙を吐き出す。
それを見るでもなく、ただ眺めていた今日子は
「ふーん、わかったわ。ありがとう、教えてくれて。あ、これ報酬の残り」
と言って、俺に紙袋を渡してきた。
中を見ると300万入っていた。それとチョコレートが一箱。
コインロッカーに入っていた前金も300万だったから、合わせても600万だ。これでは話が違う。俺がそう言うと、今日子は
「だって、契約内容を変更したでしょ? そうしたら報酬も変わるわ。当然よ」
と言う。やられた。今回もまんまと口車に乗せられた形だ。
俺がチョコレートの箱を取り出し、しげしげと見つめ、文句のひとつでも言ってやろうかと思っていると、今日子は
「それはおまけよ。とっておいて。じゃあね。またどこかで会いましょう」
と言い、さっさと歩き出してしまった。
その後ろ姿を見ながら俺は、その「また」が来るかどうか、今度こそ怪しいよなと思っていた。
○
その後、片咲はもうあの公園に寄り道しなくなった。
なんとか普通にも暮らせているらしい。
時々、様子を見に行ってやろうかとも思うが、俺が行くとかえって迷惑かもしれないので、まだ考え中だ。
新聞には新宿のニュースも密輸のニュースも出なかった。
ま、そんなものかなとも思う。
しかし、裏社会ではおそらく噂は回っていて、俺の名前も出ている可能性がある。
まぁ、あくまで、まだ可能性だ。本当に困ったことになったら、俺はその時にどうするか考えればいい。とりあえずそう思うことにした。
播磨のブレーキが効いている限りは、そうそう危険はないはずだ。
問題はそのブレーキが効かなくなった時だ。そのタイミングは絶対に見落としてはならない。
俺は不本意ながら、播磨の秘密が他に漏れないことを、ベンチに座り、ビールを飲みながら願った。
傍らには、今日子から貰ったチョコレートの箱。
しかし、その箱にはチョコレートなど一粒も入っていなかった。
その代わりに入っていたのは小さな紙きれ。
でも、そこには驚くべきことが書いてあったのである。
俺は今、その内容を吟味していた。
そんな事が本当にあり得るのか? と……
またいつもの今日子の嘘なのではないかと。
「ったく、何がおまけだ。相変わらず、人を混乱させるような情報を教えやがって……」
俺は悪態をつく。
しかし心は、はち切れんばかりに高鳴っているのを認めざるを得なかった。
俺はその高鳴りをおさめるためにビールを飲む。
これでは理由こそ違うが、まるで片咲のようではないかと、俺は思った。
もうすぐ秋も終わる。
俺は来年もこの秋を感じることができるのだろうか?
来年。
そんなことすらも、俺の中でなかなか現実味を帯びてこなかった。
おそらく、そんな気持ちも、俺は今初めて味わっている。
これは誰から貰ったのだろう……もう随分と殺してきたからわからない。
俺はもう一度小さな紙を見下ろす。
そこには、こう書かれていた。
〈舘花御影は生きている〉
イメージソング
『君を待つ間』
/グレイプバイン
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
他のチーム殺し屋の作品も、是非お目通しください。よろしくお願いします。
ではでは。
降瀬さとる