4話 犬と兎の児
7月7日 日本 東京都・練馬区
日本の夏、特に東京都の夏は非常に暑かった。
滴る汗を省みず、燃えるような赤い髪の青年と、金色の髪が後ろにきかきあげられてオールバック気味の髪型の青年が、道場で二人して這いつくばっていた。
二人が半ば睨み付けるようにして見上げる先には、40代位の、赤茶けた髪を肩甲骨あたりまで伸ばし、顔を上下に両断するような鼻の傷痕が特徴の男がいた。
その男、ラビッツ・シルヴァニアは床に這いつくばる二人の小生意気な部下を見下ろしていた。
床に転がり、肩で息をする彼らはアルメルとクリスだ。
「……はぁはぁ…くっそ、まだ勝てねーのかよ…」
「…ちょっと…悔しい……よねぇ」
息切れをする者、途切れ途切れでうまく喋れない者、各々が無念の声を上げた。
「いや、二人とも強くなったな。俺はびっくりしたぞ?」
ラビッツが挑発するように、あるいは本当に感嘆するように、言った。
白の胴着姿で、その凛とした佇まいは定年を迎えたじじぃには見えない。
正に歴戦の覇者たる堂々とした姿だった。
漸く上半身を上げたアルメルが、ラビッツと同じ胴着の袖で額の汗を拭った。
そのときだ。
「失礼します」
勢い良く道場の戸が開かれた。
そこには、黒髪黒目の女性が立っていた。
「おう、カナか…。どうした?」
「はっ、ニア様がご到着しました。至急会議室に集合するようにとのことです」
見事な敬礼を見せてくれた女性は、カナ=コグマだ。
彼女も【銀兎】の一員で幹部の内の一人である。
容姿は黒髪黒目で腰まである長い髪がサイドポニテになっていて整っており、清潔感を感じさせる。
彼女は日本人であり、ラビッツの秘書だ。
「現在、こちらに来ている幹部も召集がかかっています。お三方、急いでください」
「…おう、了解したぜ」
「…んー、まぁ、わかったよ~」
アルメル、クリスの両名はどこか力のない返事をした。
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7月7日 日本 東京都・池袋
空港で一人別れて単独行動に出たシュナイダーは、土地勘のない場所故に迷っていた。
「くっそ、ここどこだよ。なんだ、イケブクロって?つか…『まもなく、電車が出発致します…まもなく…』」
池袋駅にて溢した文句は電車のアナウンスでかき消された。
(だぁぁぁ!くっそ!)
シュナイダーは頭を抱えた。
予定では新宿にて旧友と久々の再開を果たすはずだったのだが、どこをどう間違えたのか、今は池袋に来ている。
(どうすっかな…)
仕方なくシュナイダーは、駅前の道沿いを歩くことにした。
すると鼻孔をくすぐる何とも言えない良い香りがした。
(ん?これは…どこか懐かしいような…)
シュナイダーは懐かしい香りのする方へ誘われるように足を進めた。
道沿いから路地に入り、若干人通りが少なくなってきた。
路地を曲がって三軒目。
赤い暖簾が下がっていた。
(えーと、ら…らーめん?)
幼い頃より、日本語の教育を受けている彼ではあるが、やはり日常的に目にするのは英語なのだ。
日本マニアのラビッツとは違い、日本の知識には疎いのである。
シュナイダーは店先にて立ち込める、良い香りを浴びて腹の虫が鳴った。
手に持っていたスマホで時間を確認する。
現在13時21分。
シュナイダーは今朝から何も食べていないことを思い出した。
(腹へったし、飯だな)
空腹と、食欲をそそる香りは新たな出会いを招いた。
シュナイダーは暖簾を潜って引き戸を開ける。
いらっしゃい!と元気な声で挨拶されるが気にせずそのまま店に入るとカウンターで何やら見たことのある人物が麺を啜っていた。
シュナイダーは絶句した。
その人物とは先ほど空港にて目が合った黒いスーツの男だった。
「!?」
シュナイダーは固まってしまった。
黒いスーツの男もシュナイダーの視線に気付いてこちらを向く。
一瞬、意外そうに目を見張り、何か納得した様子で口内の麺を咀嚼して呑み込んだ。
ちょっとした沈黙の後、先に開口したのは黒スーツの男。
「どちらさ…あー、えっと…ふ、Who are you?」
「……いや、日本語で構わない」
シュナイダーはそう言いながら男の隣に座った。
黒スーツの男はクククと含み笑いを溢した。
「そーかい、そりゃ助かる。でもな、普通は知らん奴の隣に座る物好きはいないぞ?」
「ハハ。何が知らん奴だ。アンタは他とは異質だ。そんな奴は大抵こっちの世界の関係者だ」
シュナイダーの応えに黒スーツの男は、やれやれと肩を竦めて見せた。
「自己紹介がまだだったな。俺ぁ、犬神 隆敏だ。刑事やってる。まぁ、お前らを追っかけんのが仕事なわけだから、繋がってるっちゃ繋がってるな」
「そうか、犬に追っかけられんのは嫌だな。俺は、【銀兎】のシュナイダーだ」
初対面(?)で互いに気楽に接することができるのは、似た者同士だからなのだろうか。
シュナイダーは、黒スーツの男…もとい、犬神に何処と無く親近感を抱いた。
「ククク。口を慎めよ、小僧?逮捕すんぞ」
「日本の警察は令状なしに動けんのか?」
減らず口を…と犬神は含み笑いをもらした。
シュナイダーは無難に醤油らーめんを注文した。
店内の奥の厨房から早速良い香りが漂ってくる。
「…。【銀兎】か。なら知ってるか?」
「何をだ?」
自身が注文していた豚骨らーめんを啜っていた犬神がシュナイダーに訊いた。
シュナイダーは質問を質問で返す。いきなり知ってるか?と訊かれて、うん知ってるとはならないからだ。
「近々日本で大規模なテロが起きる」
「!」
犬神は小狭いらーめん屋でぶっちゃけた。
もしかしたらアメリカで有数のマフィアと謳われる【銀兎】なら何か手掛かりが見つかるか、と推測したからだ。
「…こんなとこでぶっちゃけんなよ」
「ククク。日本の諺には“灯台もと暗し"っつー有名なのがあんだよ」
シュナイダーは呆れたようにため息をついた。
「そのテロは多分、ウチも関わると思うぞ」
「!……ってことはやっぱり逮捕か」
犬神が嬉々として手錠を出す。
(刑事がお昼時にそんなもん持ってんじゃなぇよ!)
心の中ではいくら叫ぼうが関係ない。
「ちげーよ。そのテロの主犯はイグゾーストってゆー闇商人だ。依頼を受けたんだよ。蹴ったけどな」
「そうか。…イグゾーストの狙いは訊いたか?」
犬神の態度は殊勝なものだったがその目は爛々としていた。
「いや、その前にボスが実行の期日だけ聞いて、さっき言った通り依頼を蹴った」
「…期日ってのは?」
「7月12日…あと5日だな」
犬神が目を見開いた。自分が予想していた時期よりずっと早かったのだ。
「…そいつぁ、まずぃな」
「あぁ、どんなテロかもどこでやるかも検討がつかねぇ」
シュナイダーは運ばれてきた醤油らーめんに手をつけた。
犬神と話している間、お預けをくらっていたから、いい加減空腹なのだ。
「ずず……Oh,delicious」
「ククク。うまいだろ?俺の穴場だ」
ついつい素に戻ってしまうほど、うまい一品だった。
近年では第三次世界恐慌で物価がだだ上がりしていたために、良い素材も値段が手を出せないくらいに高くなり、安い素材でしか賄えなかった飲食店だが、そのなかでうまい飯が作れると言うのはその店のレベルが高いことを意味する。
シュナイダーは、また当りを引いたなと思った。
そのとき、彼のスマホが振動した。
だがその場では一旦切る。食事中に席を立つのは提供者側に失礼であるからだ。
だが次に来たのは着信ではなく、メールだった。その内容を見てシュナイダーは顔を青くした。
「すまない、呼び出しだ」
ガタッと椅子を鳴らし立ち上がって店を出た。
急いで地下鉄に乗り、新宿に向かう。
旧友から、メールで呼び出されたのだ。
(久々に逢うなー。元気かな。リョウト)
日本の大学で散々世話になった、ブロンドヘアーで癖っ毛が目立つ、アーモンド型の猫目のアイツ。
シュナイダーは旧友に逢うのを心待ちにしていた。
だが、しかし…とシュナイダーは思う。
(俺は何で初対面の、しかも警察の男に素性をばらしちまったんだ?)
シュナイダーは少々疑問に思う。
そして、自らが犯した失敗をついに自覚した。
(ヤッベ~。機密漏らしちまった。俺、どーなんのかな?やっぱり死刑かな)
電車内で頭を抱えたシュナイダー。
彼が後に、死刑とはいかないまでも、酷いお仕置きを受けたのは別の話。
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一方、らーめん屋ではと言うと。
店主は食い逃げだと叫ぼうとしたが、犬神が止める。
「あー、俺が出しますんで。…はぁ、貸し一つな」
二人分の代金を支払って犬神も店を出る。
犬神はベテランの刑事である。彼が特に秀でているのは捜索は勿論のこと、もう一つある。
尋問である。
特殊な表現や親近感のおぼえる口調、その他もろもろの技法で相手から情報を聴取する。
その効果は、訓練された者でも見抜ける者は少ない。現にシュナイダーも引っ掛かってしまったのだから。
話術を巧みに使い分けれる人物は警視庁には数少ない貴重な人材だ。
「さ~て、イグゾーストとやらについて探るか~」
犬神は久しぶりに爽快な気分を味わった。