第二話 新たな世界の始まり
初春の光が差し込む朝、窓の隙間から差し込む涼しい風が眠っていた俺を揺り起こす。静かに覚醒する頭に、続けて機械的な音声が枕元から耳の中に侵入する。
『ピピピッ、ピピピッ、起きないと―――コ○シチャウヨ?』
「……は?」
枕元に置いてあった時計の碌でもない電子音声に俺の目は一瞬で覚めた。どう考えても朝の目覚めには似合わない、妙にリアリティーのあるその平坦な女性の声は、ぼやけた意識には刺激が強すぎた。恐怖を通り越して一瞬、何を言っているのか理解すら出来なかったほどだ。
――確か、パッケージには『すがすがしい目覚めをあなたに!』などと書かれていたハズだが。これでは詐欺と言っても言い過ぎではないのではなかろうか。
昨年の誕生日に友人から送られてきたもので、つい昨日開けたばかりなのだが……そういえば、やけにこちらへ渡すときの顔がニヤついていた気がする。恐らくこれを分かっていたのだろう。
「とりあえずアイツは後で〆るとして。……起きるか」
未だ鳴り響く時計の声に拳骨を振り下ろし、のそのそとベッドから起き上がる。
洗面所でトドメとばかりに顔を洗い、寝覚めの余韻を完全に吹き飛ばす。
顔を丁寧に吹くと、目の前の鏡には普段通りの眼付きの悪い自身の姿が映っていた。普段メガネをかけているせいで目が細くなっているのだ。元はそこまで悪くない、と思いたい。
そんな自分の顔のことはさておき、一人暮らしの俺は朝食まで自分で作らなければならない。居間に行き、ご飯をよそってインスタントの味噌汁を淹れ、後は生卵と醤油で卵かけご飯の用意を整える。生憎と朝飯を作ってくれる幼馴染なんてものが居なければ、一人暮らしの朝なんてこんなモノなのだ。
「ごちそうさまでした」
シンプルな食事を一気に掻き込み、食器を洗って片付けた後で、ハンガーから掛けてあったワイシャツに腕を通してズボンを穿く。俺の通う高校では夏は制服でも私服でも構わないのだが、センスに自信がない俺は制服派である。制服であれば断然気が引き締まるし、唯でさえ勉学に興味がない俺は私服で授業に集中できる気がしない。
新年度の始業式である今日は、持っていくものも少ない。カバンの中に筆記用具と小説を数冊だけ突っ込んで颯爽と家を出る。磨いたばかりの黒いロードバイクに跨りながら、俺は風を切って通学路を走り抜ける。
早朝ゆえに人通りが少なく、その分思い切ってペダルを踏む足を加速させる。運よく信号に引っかかることもなく、周囲の景色が次々と過ぎ去っていく感覚に身を任せていると、気づいたときには何事もなく俺は校門前までたどり着いていた。
好きな小説の主人公だったら今頃車に轢かれる女の子の身代わりになって転生しているのだが、今日もそんな場面に出会うことはなかった。実はそんな展開をほんのちょっとだけ、期待している自分が居なくもないのだが……そんな妄想、早々現実に起こるわけがないとこの十数年間でしっかりと理解している。
それでもこの代わり映えのない日々の中で。
退屈さを破る何かを、つい期待してしまう俺は間違いなく心の片隅に住み続けている。
「……ないぞぉ!そこ――前――けろ!」
そんな下らない夢に浸りながら、俺は校門の前で足を止める。
――もし自分が異世界に転生したら、その前に神様に出会えるのだろうか。そして死の理由を説明されながら、何かしらの特典を頂けたりするのだろうか。
馬鹿げた妄想に酔っていた俺の意識は、完全に外界からの情報を遮断していた。
「――イ!聞――か!?」
――もし願いを聞いて貰えるのであれば、やはり剣と魔法の世界への転生だろうか。それとも科学の発達した遠い未来の世界か。はたまた……。
と、そこまで考えたところで、俺はやけに後ろが騒がしくしていることに気が付いた。
一体何だろうと思って振り返ろうとして、次の瞬間。
強い衝撃を感じるとともに、俺の意識は暗闇に落とされた。
それが今の俺が望んだとおりの、この平和な世界の終わり方で。
新たな剣と魔法の世界の、始まり方だとも知らないままに。
■■■
「――ここは?」
瞼を貫く日の光に、俺の意識はゆっくりと覚醒した。
咄嗟に目を開いた俺が首を動かして周囲を見渡すと、そこには一面見渡す限りの野原が広がっていた。俺はどうやら予想していた学校の保健室でも病院のベッドの上なんかではなく、ただ一人、雄大な自然だけが存在する風景の中に転がされているようだ。
「えっと、俺はさっき……」
すぐにはこの状況を理解できず、俺は慌てて直前の事を思い出そうとした。その矢先、俺は体に強い衝撃を受けたことを思い出す。
後ろで叫ぶ声を聴いて……その後何かがあったらしいが、それを認識する前に意識が飛んでしまったため、何が起きたのか具体的には何一つわからない。ただあの状況からして、やってきていた車にでも弾かれたのかもしれない。朝早くだったし、何もいないと思っていたのだが。もしかしたら運転手も眠気が飛んでいなかったのかもしれない。
「まあ今はそんなことより、ここはどこかってのが重要なんだが……」
周囲からは、何一つ人の生活する音が聞こえてこない。風が草花をなでる音だけが、柔らかく耳をくすぐるだけだ。そして目で見ても、辺りには人の影は見当たらない。
俺が居るのは本当に何もない、地平線の彼方まで見晴らしのいい草原のようだ。
「この状況を説明してくれる人も居なさそうだし。さて、どうしたモンかね」
取りあえずどこかへ向けて歩いてみるしかないだろうと思い、腰をあげる――その途端、ガチャリと身に覚えのない重さが腰のあたりに引っかかった。
一体何なのかとそちらに目を向けてみれば、左には小さな袋が一つ、右には細長い刀のようなものがそれぞれ新たに吊るされていた。そのどちらにも、身覚えがない。
ならば、この状況を理解するための手掛かりになるかもしれない――そう思って俺は座り直し、それらを外して観察することを試みた。
まずは紐で閉じられた袋の方を開けると、中には貨幣らしき円形の金属が複数と一枚の薄いカードが入っていた。貨幣の方には細かい装飾が施されており、それなりの価値がありそうなことが分かる。しかしカードの方は唯の白い板でしかなく、何も書かれていない。とりあえず少しでも情報がありそうな小さな貨幣の方を眺めていると、何やら記号らしきものが刻まれているのを発見することが出来た。まず見覚えのない文字だ。
その筈だが――。
「……ガリス、ティアナ?」
なぜか、俺の頭は書かれていた文字を素直にそう読み上げた。読み上げることが、出来ていたのだった。
自然とその単語を口にしていたが、どうして俺がそう読んだのかは分からない。
しかし、その読み方が間違っているとは思うことが出来なかった。
「……訳が分からんが、そいつは一先ず置いておくか。とりあえずこれを読んだとおりに仮称:ガリスティアナだとして。しかし、聞いたこともない語だな。単に発音が間違っているだけかもしれんが」
貨幣に刻まれるくらいなら有名な人名か地名だろうに、俺の記憶にはその言葉で思い当たることは何一つなかった。単なる無知を晒け出しているだけかもしれないが。
――と、ここまで来てようやく、俺は一つの可能性に思い当たった。
目が覚めてみれば周囲は全く覚えのない場所にたった一人。そんな中、身に着けているのは全く知らない言葉の刻印された硬貨。
ああ、完ッ全に一つだけ、この状況を説明できる馬鹿げた妄想なら――ある。
「いやしかし、そんなことが現実に起こるはずもないってのは俺自身良く知っている。そうだ、その筈だよな?」
自身に確かめるように、思い当たった妄想を頭の中から消し去ろうとする。
そして思考を別の咆哮へ向けようと、俺は腰に下げていたもう一つのアイテムを手に取った。
最初に目を惹かれたのは、黒塗りに金の桜吹雪が印された|鞘≪・≫。続いてそれに繋がるようになっていた柄と思しき部位。直感に任せてそこを握りしめ、俺は力強く一息に引き抜いた――。
パチンッと何かが外れる音を立て、中に収められたモノが露わになる。反りかえった鋼の刃が陽光の下に晒され、俺の瞳にその白い輝きを映し出す。
「……刀だよな、これって」
試しにその縁を指で軽くなぞってみると、赤い血が玉のように身を伝って流れていく。肉が斬れた痛みすら感じない程の鋭さに、俺は自然と感嘆の息を漏らした。
「しかも模造刀とかじゃなくて、真剣じゃねぇか。仕事しろよ銃刀法――って、ここがまだ日本だったら真っ先に逮捕されるし、やっぱまだニートのままでいいっすよ銃刀法さん」
驚きのあまり言葉が変になってしまったが、そんな冗談はさておき、俺は刀を鞘に戻して改めて立ち上がった。
「さぁて、更に一つ、予測を確実にしそうな材料が手に入った訳だが……」
はてさて、この先どうしたものかと俺は頭を悩ませた。
このまま一人寂しく悩んでいるか、それとも人を探しに練り歩くか――答えはもちろん決まっている。突っ立っていたところで解決策が向こうからやってくる訳がなく、自分から歩いていくしかないのだが――ここで俺は思い出したのだ。
現在俺の懐にある食事が、今日の昼飯用だったカロリーメイトくらいしか残っていないという事を。
活動に使えるエネルギーが限られている以上、むやみやたらに歩き回る訳には行かない。
せめて今日中には人のいる場所に辿り着いて、落ち着いて飯を食べられる所を探さなければ話にならないのだ。
「運よくそんな場所に辿り着けたとして、話が通じるとは思えないんだよなぁ。文字が読めるってことは、話すくらいなら何とかなるかもしれないが……。ご都合主義でそこまで上手くいくと信じちゃって良いものか……?」
生憎と、身振り手振りだけで会話できるほど俺のコミュニケーション能力は高くないのだ。
「むしろ、百歩譲って言葉が通じたとしても失敗する可能性が高いような……」
……いや、それこそ悩んでいる暇はない。そういった事は実際に人に出会えてから考えることにしよう。まさか初っ端から首を斬られることもないだろうし。
ようやく歩き出すことを決断したところで、――がさりと近くの草むらが揺れる。
「え、なんだ?」
そちらに目をやると、豊かな草原の一部がガサゴソと揺れ動いているではないか。風の動きだけでは説明できないその局地的な草の揺れの正体は、なにやらのそのそと動き回っているようだ。どうやら今の俺が欲しかった案内人ではないようだが、一体なんだろう。
こっそりと足音を殺して近づいてみると、その姿を視認することに成功する。
草の中に隠れていたのは、青く透き通ったゲル状の身体に、カタツムリを思わせる二つの触角を生やした生き物らしきなにか。
世間一般に、人はそれを――スライムと呼ぶ。
「うわ、本物かよ……」
ゲーム序盤に現れる、代表的な雑魚モンスター。何というかもうこれで、俺の予想は確実になったようなものだ。少なくとも現代社会には実在すると信じられていなかった存在が、今目の前に存在する。
つまりここは、俺の良く知る世界ではない。要するに異世界という奴なのだろう。もしかしたら夢、といった可能性もあるが……夢は意識した瞬間に覚めていくもの。これだけ意識を持って動くことが出来ている以上、それはないだろう。
しかしまあ、スライムと言う奴は現実で見ると意外と可愛くも見えなくもない。
今もなお、その存在に気付いた俺のことなど気にも留めずに周囲に存在する植物を体に取り込んで消化しているようだ。もしゃもしゃと周りの草花を食べるその姿は中々興味を惹かれるものだ。
……だが。
「ふん」
今は呑気にスライムを愛でる気はない。
俺は早速、腰の刀でそのぷるぷるとした体に一撃を入れてみた。可愛かろうがゲーム上ではたいてい倒すべきモンスターだし、斬ったところで問題はないだろう。それに加えて、所持品であるこの刀の試し切りに丁度良さそうな見た目のコイツが悪い……という事にしておこう。
スライムを斬ることに特に問題はなかったようで、俺が振り下ろした太刀筋に沿ってスライムはさっくりと割れていった。粘液が皮袋に詰まったような構造をしているらしく、どろりと中身の液体が周囲に漏れ出した。
体液が地面に浸み込んで消えていく中、最後に青く小さな石だけがころんとその場に残って輝いた。これがいわゆるドロップアイテムという奴なのだろうか。魔石、とでも呼ぶことにしよう。
その魔石を、一応残った体液に触れないように刀の先で地面に弾きだしてから、ハンカチ越しに摘まみ上げる。ビー玉のように丸く、そして固さを持っているようだ。とりあえず、俺はそのままそれを包み込んで鞄の中に片づけた。
「さて、現実的に有り得ない生き物が居たことで確定したって訳だな――ここが、異世界だってことが」
改めて口に出してみると、続いて「ははっ」と口から乾いた笑いが漏れた。
日本で死んで目が覚めれば、そこは新たなファンタジーの世界。ならばさしずめここ一帯は始まりの草原、といったところか。チュートリアルすら存在しないこんな始まり方を考案した奴は一体どこの誰なのだろうか。せめて最初にある程度の説明位してくれれば良いものを。
「それとも最初に出てきたあのスライムが、ここがファンタジーだっていう、ある意味大大大前提を教えてくれた案内役の一つだった、ってことか?ならぬ案内人より先に案内モンスターねぇ。ははっ、これがドラゴンとかだったら真っ先にアウトでお先真っ暗なただのクソゲー間違いなしだな」
そんな事を呟いても、返事をする人間は周囲には誰もいない。
「虚しすぎて笑えてくるなぁ、おい。……こんな一人で笑ってる場合じゃねぇな。とりあえず、さっさと歩くか」
再度目を凝らしてじっくりと地平線の彼方まで見渡してみると、かろうじて一筋だけ草原の波が消えているのが見て取れた。恐らくあれは道のようなものに違いない。あれをどちらかに歩いていけば、やがて人の居るところにはたどり着けるかもしれない。
だが、そんな一筋の希望が見つかったとは言っても、ここからでは街らしき影はまだまだ見えない。
はてさて、日が落ちるまでに何処かの街か村に辿り着ければ良いのだが。
――それよりも、気が遠くなるほどの距離をこれから歩かねばならないという事実に俺は憂鬱になった。
どうして自転車も鞄などと一緒に持ってこられなかったのだろうか。そんな事を考えながら踏み出した一歩は、早速鉛のように感じられるのであった。
■■■
日は既にとっぷりと暮れ、東の空には薄く星々が瞬き始めた頃。
俺は棒のようになった足で何とか体を支えながら、首を上にあげて鞄に入れてあったペットボトルを逆さまにしていた。その中身はここに辿り着くまでの間でほとんど空っぽになっており、残っていた最後の一滴が何とか喉を潤わせる。
その有難さを噛み締めながら、俺はボトル越しに視界に映る目の前の高く聳え立つ石壁を見上げていた。
「城塞都市、ってやつか。実際に見るのは初めてだが、結構凄いモンだな」
少し視線を左の方へやると、そこには石壁の一部に巨大な門が開かれていた。その前にはそこそこの長さの列が出来ており、どうやら門番が入門審査を行っているらしい。
「まだまだ時間がかかりそうだな……」
歩き続けている間には、もはや数えきれないくらいに自転車がなかったことを呪ったものだ。それだけ現代っ子の足はいい加減限界であるというのに、まだ俺は自身の足に苦労を掛けなければならないらしい。
一応並んでみると、門番の確認を受けるために並んでいた列は意外と早く前に進んでいく。
俺の前に居る旅人たちは門番になにやら小さなモノを渡して、門番はそれを受け取ってから本人と何度かやり取りした後に返却して通行させている。恐らく身分証明書なのだろうが……明かりは門に掲げられている松明だけなので、その手元はまだ細かくは見えない。
だがしかし、どうしたものか。異世界に来たばかりの俺にはそんな身分を証明できるものはない。
「……まあ、どうにかなるだろ」
最悪牢にぶち込まれても、寝床があるだけ幸せと思えばいい。理想とは程遠い環境だが、それでもないよりかはマシだと思う位に今の俺は疲労していた。
「早く寝られないかなぁ」と思考を巡らせる内にも、列は着々と前に進んでいく。
やがて自分の番が近づいてくると、自然と彼らの手元でやり取りされているものが見えてきた。
他の通行者たちが渡しているのはそれぞれ赤、オレンジ、黄色と言った様々な色の小さなカードだった。門番はそれをじっと重要そうに見つめた後で、会話してから彼らを通している。
「そういや、袋の中にあったよな、ああいうの……」
腰から鞄に移した袋の中を手探りで漁り、一枚のカードを引っ張り出す。前の五、六人とは違う真っ白なカード。先ほど見た時には何も書かれていなかったが、念のためにもう一度色々な角度からそれを眺めてみる。
しかし、改めて見ても個人情報どころか文字そのものが一切書かれていない。
果たしてこれで合っているのかと不安になっていると、遂に自分の番が訪れる。動揺を出来るだけ隠しながらそのカードを提出すると、門番は他と同じくじっとその表面を見つめた。……何か俺に見えないものでも見えているのだろうか。
しかし、兜に隠れたその表情をうかがい知ることは俺にはできなかった。
少し待っていると、突然不思議なことに男の手元から淡い緑色の光が発生しカードを包み込んだ。
「リューヤ・タケガミだな?」
「ああ、はい。そうです」
咄嗟に呼ばれた名前に返事をすると、男はカードから目を離してこちらをジロジロと観察し始めた。あの正体不明の光はともかく、そいつのおかげでカードには俺の名前が出てきていたらしい。これなら、どうやら第一関門は突破できたと思って良さそうだ。
「あまり見た事のない服装だが……カードが白い以上、ギルドにも所属していないようだな。その若さで後ろ盾も無しに一人で旅に出ているのか?」
「え、ええ。まあそんなトコです」
「整った服装からして、どこかの貴族か何かか……? まあ、別にそこまで深いことは詮索しない。が、いい加減その年なら何処かの職に身を落ち着けた方が良いんじゃないか?」
「あはは……。ソウデスネ。善処したいと思います」
「そうか。ともかくカードに不正は見当たらん。中に入れ」
やはり身分証明の類だったカードを返却され、大事に懐に仕舞った後に門の中を潜り抜ける。「それでは次の者!」という門番の声から、俺への注意がなくなることが分かる。それと同時に、背中からびっしょりと冷や汗が流れ出た。
「あー、心臓に悪かったぜ……」
目的は達成できたものの、こういう綱渡りのようなやり取りは二度としたくない。この世界の常識を身に着ける方法もその内考えていく必要がありそうだと頭の隅に書き留める。
「しかし、ギルドか……」
この年では既に働いているのが、こちらの世界では普通のようだ。もしギルドと言うのが元の世界と同じならば職業組合のような意味だから、普通に働いていればそこに所属するのが道理なのだろう。
――いや、そんな事よりも気にするべき点があるではないか。
「言葉が、通じてる……?」
先ほどは緊張感のせいで受け答えすることで手一杯だったが、思い返せば俺は目の前の門番の言っていることは何一つ不自由することなく聞き取ることが出来た。逆もまたしかり。俺の言葉も、相手にその意味が通じていたのだ。
「こりゃまた、考えることが増えたな……」
今はまだ、その疑問は置いておくしかない。考えたって結論は出なさそうだし、それよりも俺の脳はとにかくうまい食事を求めている。
「食堂と宿を探さなきゃな。くんくん……こっちから良い匂いがするな」
足もそうだが、お腹の方も本当に限界だ。適当に町中をぶらついた後、とりあえず最初に目についた庶民食堂らしきところへ足を踏み入れる。
「へい、らっしゃい!」
随分と威勢のいい店員だなと思いつつ、見よう見まねで他の奴ら同様近くに開いていた適当な席に腰掛ける。少しの間息を整えていると、姉貴肌のような長身の女性店員が向こうから注文を取りに来た。
「お客さん、注文は何に?」
「ここに来たばかりだし、どれが良いのかサッパリなんで。とりあえず……そうだな」
テーブルの上を見ても、メニュー表などのようなものはない。周囲を見渡すと壁に札が掛けられているのが分かる。そこには「~焼き」「~煮込み」といったものが書かれているのが分かるが――というか普通にこれらも読めるようだ――その具体的な品物が何かは分からない。アルスとかミズキとはいったいどのような食べ物なのだろうか。
仕方なく、俺は財布を開いて、その中に移しておいたこちらの硬貨を見せる。
「この中で支払える範囲で、店員さんの何かオススメのものを一つ。後、飲み物はお酒以外でそれに合いそうなものをお願いします」
それと同時に、食堂に漂う良い匂いのせいで腹が大きな空腹のサインを鳴らした。
羞恥に顔が真っ赤になるのが自分でも分かる。そんなこちらの様子を見た目の前のお姉さんは、それを見て大きく吹き出していた。
「ぷふっ、そんなに腹が減ってんのかい? あい分かったよ――アルスのアッセル焼き一丁! とアレイジュースね!」
彼女は少しの間どこかに消えたかと思うと、木製のコップを持って帰ってきた。
音を立てて机の上に置かれたその中身を覗くと、赤く透き通った液体が顔を覗かせた。
「これは?」
「んあ、知らないのかい?これは最近流行りのアレイっつう木の実の汁を絞り出したものさ。それなら、まずは一杯飲んでみな」
何故かにやにやと笑う店員。それを不思議に思いながらコップを傾け、一口あおる。
「……ッ!?」
それと同時に、口の中を焼く炭酸独特の刺激が奔る。
まさかこんな中世風の異世界で炭酸に出会うとは思ってもみなかったが、とりあえず口の中に溜まった分を一気に飲み干してから口を開く。
「……げほっ。その顔はそういうことですか店員さん」
「あら。思ったより反応が小さいね」
「生憎故郷じゃ似たような飲み物が溢れてたんでね、そのお陰さ。しかしこんなものはビールくらいしかないと思ってたが……ま、確かに初見で飲んだら思いっきりむせるだろうな、そっちの狙い通りに。実際俺も、こっちでこんなのを飲めるとは思わなかったからちょっとは驚いたさ」
「なんだい、今一面白くないねぇ。ま、いいか。料理の方はまだ少しかかるからさ、それまではそいつで我慢してな」
そう言い残して、今度こそ店員は他のテーブルへと消えていった。接客業としてはあるまじき行為のような気もするが、不思議と悪い感じはしなかった。日本の接客のような機械的な言葉ではなかった為か、簡単に気を許すことが出来ていた。
緊張がなくなって猶更空腹感に苛まれることになった俺は、話相手がいなくなったことを嘆きながらアレイジュースをちびちびと飲んでいく。それと同時に手持ち無沙汰に感じられたため、なんとなく周囲の人間の話に静かに耳を傾けることにした。
何故か話の通じるここの人々の話の中にも、それなりの頻度で分からない固有名詞が出現する。それらを鞄から出したメモ帳に書き留めながら、情報を纏めていく。
「はいお待たせー、アルス牛のアッセル焼きだよー!って、アンタ何やってるのさ」
「俺はこの辺りに来たのは初めてなんだって言ったでしょう。何もかもが初めてなので、少しでもここの事を知ろうと、情報収集をば。他にすることも無かったし」
ペンとメモを片付けると、目の前に置かれた巨大なステーキに俺の意識は瞬く間に囚われた。このサイズを日本で注文したらどれほどの値段になるだろうか。それほどの価値があの貨幣にはあったのか。そう驚きながら、俺は香ばしい肉の匂いに誘われてさっそく食器に手を伸ばした。
置かれていたのはナイフとフォークと見慣れたものなので、早速俺はそれらを使ってこの肉を頬張ることにした。
すぐさま切って齧り付くと、噛み応えのある肉の中からジンワリと熱い肉汁が滲み出る。単なる酒場だっていうのに、日本のファミレスで食べた物よりはるかに旨いと感じられるのはなぜだろうか。空腹は最高のスパイスだと言うが、それでも元が良いのかもしれなかった。
一口一口じっくりと味わおうとするが、それでも恐ろしいほどの勢いでアルス牛は俺の腹の中に消えていった。
ずっしりとした感触の肉が溜まった腹をさすりながら、彼女に美味いと感想を述べようとするも彼女はいつの間にか他のテーブルに消えていた。
仕方なく、俺は先ほど閉じたメモ帳を再度開いてその中に書いたものを読み返していく。
「ここは『ガリスティアナ』王国の首都『レイアルス』の庶民街で、通貨は『ルスト』が使われてる。ギルドは『商人』『狩人』といった各職人のものや、そして何でも屋の『探索者』ギルドが存在する。それぞれのギルドの年齢制限は十歳以上、か……」
加えて少し先には国立学園の入学試験が執り行われるらしい。元々学生である身としてはそこに入ることが一番馴染むことが出来ると思うのだが、今の俺には学費を払う余裕もないしそもそも試験を突破することすら出来やしないだろう。精々通用するのは数学や化学などの理系科目ぐらいだろう。
入学には年齢や身分による縛りは無いものの、その方面で考えるのはしばらく後になりそうだ。そもそも世界の社会常識すら欠如している身では集団行動なんて取れないだろう。せめて、まずは文字の書き方から覚えなければ。
「とすると、まずはやっぱり門番の言う通りギルドに所属しなきゃならないんだよな。とは言っても俺には職人技術なんてないし、唯一使えそうな計算で商人見習いになるか? それか何かとロマンが溢れてそうな何でも屋の探索者か。なに、最悪日稼ぎ労働でも生きるくらいには困らんだろうし」
そんな風に安定した道を取るかギャンブルのような先の知れぬ道を取るかで悩んでいると、先ほど注文をとった店員のお姉さんが近くを通り過ぎる。
それを呼び止め、俺は支払いを頼んだ。
「すいません、ちょっと待ってくれ。おあいそしたいんだが」
「ん? ああ、アンタかい。確かアルスとジュースだから、合計九百ルストだね」
「なるほど。それじゃあこの中からその分だけとってくれ」
九百ルストと言われても、俺には貨幣一枚がどれくらいの価値なのか判断できないから仕方がない。ぼったくられる可能性も無きにしも非ずだが、こればかりはどうしようもない。それ位のリスクは甘んじて受け止めるとしよう。
「最近この辺りに来たばかりなせいか、俺にはまだどれがどれなのかも分からんので」
じゃらっと机の上に袋の中身を空けると、彼女の細い手はその中からきっちり銅貨九枚を抜き出した。……一枚百ルストとして考えれば、それで丁度ぴったりなのだろう。
「これで計九百ルスト、丁度ね。後これは親切心だけど、銅が百、銀が千、金が万だからね。さっきの白い紙にそう書き留めときなよ。そう不用心に金を見せびらかすのは良い策とは言えないからね」
「それはどうも。っと、ついでに教えて欲しいんだが。探索者ギルドの場所と、お勧めの宿を教えて貰えないか?」
俺はお礼も含めて余っていた中から更に銅貨を三枚握らせると、彼女はニヤリと笑って素早くそれをポケットの中に突っ込んだ。
「そーいうトコは分かってるみたいね。んじゃ、まずは探索者ギルドなんだけど、この店を出た正面の通りまっすぐ行って、王城に向かって左に進んでいくとギルド区画が見えるからね。その中にある、竜の翼と顎の印を掲げたでっかい赤レンガの建物がそれさ。あと宿だけど、さっき見えたカードの様子じゃまだ何処にも登録してないんだろう? ギルドに頼めば小さな部屋くらいあっちで適当に紹介してくれるさね。ま、そこはホント最低限だから、ある程度稼ぎが出来てからは改めて宿を取った方が良いんだけどね。そん時になったらもう一度来なよ、相談にのってやるからさ」
「あはは……。じゃ、そうさせて貰います。どうもありがとうございました」
「あいよ、っと。それじゃ、またのお越しをお待ちしておりますねー!」
はつらつとした彼女の声を受けて店から出た俺の足取りは、美味しい料理と合わせてすこぶる軽く感じられた。積もった疲労もなんのその。最後の仕事とばかりに強く地面を踏みしめながら、俺の脚は説明された道を辿って探索者ギルドへと向かうのであった。