その2
ある日、ベッドで眠っていた空は、玄関のドアが閉まる音で目が覚めた。
携帯電話で時刻を確かめると朝の五時で、居間で寝ているトレスの布団は既に畳まれている。
当初は空がベッドでトレスは居間で寝ていたのだが、気の毒になった彼女が寝床について提案した。
「ベッドは交代で使おうよ」
「俺は、何処でも寝れるから大丈夫だ。むしろ、堅い床がいい」
「でも……」
「俺はいそ、いそろ……」
「居候?」
「その居候の身だから文句はない」
ーへえ。居候なんて言葉、どこで覚えたんだろう。時代劇が好きみたいだけど……。
見知らぬ世界へやって来て一カ月近くになるが、真面目な性格もあってトレスの進歩は著しい。
今では、体が鈍ると言って早朝と夜に近所をランニングするのを日課にするくらいだ。なので、今朝も出掛けたらしい。
また、ベッドでうとうとしていたら目覚ましのアラームで起きた。
眠い目を擦りながら洗面所へ行くと、ジャージ姿のトレスと鉢合わせとなった。
「お早う」
「起こしてしまったか」
「もう起きる時間だから。走って来たんだ」
彼の額にうっすらと汗が滲んでいる。
オバジーンにいた頃は暇さえあれば鍛錬をしていたものだが、ここへ来てからは戦う必要もないので暇を持て余す毎日だった。
筋トレは部屋でもやれるが剣術の『型』ともなるとドタバタと騒がしいので、下の階の住人にも考慮して控えるよう空から注意を受けたばかりである。
鍛錬の虫であるトレスが場所で不自由をしている姿に見兼ねた空がランニングに誘った。
「夜や朝だったら、人も少ないし思い切り走れるよ」
「ランニングか。いいな」
早速、その日の朝に二人はランニングに出掛けた。といっても、空は自転車である。
「なんでお前だけ楽しようとするんだ?」
「だって、トレスって速そうだもん」
空の先導でトレスが走り出した。最初は加減して自転車を漕いでいた空だが、まだトレスに余裕があるのでスピードを上げる。
ーこの光景ってまさに青春よね。「あの夕日(実際は朝日だが)に向かって走れー」とか叫んじゃったりして。
「なににやけているんだ。気味悪い」
並走してきたトレスが眉をひそめていたので、空は咳払いで誤魔化した。
後に、バスケ部の玲奈から五キロコースと知らされて筋肉痛が一気に空の脚を襲った。
空もバイトと学校があるので毎日は付き合えないが、道を覚えたトレスは一人でも走れるようになった。
ただ、少々方向音痴なので違うコースを開拓しようという冒険はせずに、走り足りない時は同じコースを回っているとトレスに聞かされた時は意外な弱点につい顔がにやける。
ーそんなこと、黙っておけば分からないのにほんとバカ正直なんだから。
それは空も同類である。
「面白い発見あった?」
「特に何も。挨拶を交わす住人が増えたくらいだ」
思い掛けない答えに空の方が一瞬戸惑った。
この世界に馴染んできたのはいいことなのに、それを素直に喜べない自分に気付いたからだ。
ートレスが異世界から来た剣士ということを知られたくないから?
見え隠れする深い感情を探る寸前に、トレスが「まずかったか?」と不安げに訊いてきたのでそこで思考がストップする。
「そんなことないよ。へえ、凄いね」
「それから空が綺麗だ」
「えっ?」
突然の褒め言葉に、空がどきまぎしているとトレスが顔をしかめた。
「お前じゃない。天の空だ」
「そうだよねえ」と、言いつつも釈然としないまま空は朝食作りに取りかかると、トレスは小さく息を吐いた。
目覚ましもなく早朝に起きる彼を「規則正しい」だの「さすが剣士」だの空は言うが、実際は違っている。
起きるのではなく起こされるのだ。
『奇跡の石』を狙って襲ってくる複数の男達、それを容赦なく切り捨てる自分。そして、『時の泉』に身を投げたところで飛び起きると寝汗がひどい自分に苦笑する。これを幾度となく繰り返す毎日だ。
もう元の世界には戻れないと分かっているのに、今の生活に不満はないはずなのに体が欲している。戦いで得られる高揚感と存在感。
この平和な日常に身を置いて、人の命を奪ってまで得られる物など何一つないのに、剣士とはなんと残酷な人間だと思い知らされた。
だから、その忌々しい気持ちを払拭するために走る。全てを取り戻すためではなく、全てを忘れるために……。
朝食を済ませた空が、登校の準備を済ませて玄関に向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」
「出掛ける時は戸締りと……」
「火の用心、だろ? 分かったから早く行ってこい」
「それと……」
今朝の彼女はなかなか行こうとしないので、トレスが痺れを切らせて早く行けと促す。
「俺が信用できないのか」
「そうじゃないんだ。そうじゃないけど……」
「だったらなんだ」
少し間が空き、ぽつりと空が呟いた。
「いなくなっちゃいそうで」
虚を突かれて、今度はトレスに間が空いた。一瞬。自分の存在自体を消そうか、と考えていたのを見抜かれたのかと焦った。
「行く当てもないのにか!?」
まだ渋る空に小さく笑ってやると、安心したのか今度こそ玄関の外に出て行った。
ー参ったな……、あの人好しは心も読めるのか。
以前、初めてトレスと街へ出掛けた際、『奇跡の石』に人の心が読める力があるのでは……と騒いでいたが、彼に言わせれば空こそ読心術の達人である。
こちらが考えている先を行動するところがある。もっとも、大抵は空回りするのだが。
お互い、幼い頃から独りで過ごす時間が多かったせいか、相手の心に敏感になってしまったのかも知れない。
トレスは、押し入れからバスタオルに包まれた長細い物を取り出した。中から現れたのはいぶし銀の剣だ。
鞘から抜いた刃は、オバジーンにいた時よりも気のせいか輝きが鈍くなっている。
取り敢えず布で磨いたものの、トレスの心同様曇っていた。
苦手な古典の授業もクリアして、ようやく昼食となり例によって玲奈、智美の三人で弁当を広げた。
「ねえ、空。彼氏でも出来た?」
玲奈の単刀直入な台詞に、空と智美は食べ物を吹き出した。
「ちょっと、汚いなあ!!」
「玲奈が変なこと言うから!」
智美は、眼鏡を外してハンカチで拭いている。
「だって、最近付き合い悪いし」
「ごめん。立て込んでいたけど、落ち着いたから大丈夫だよ」
「じゃあ、彼氏はいないの?」
一瞬、藍色の髪が脳裏を横切る。
ー彼氏はいないけど、男の人と同居しているってバレたら大変だろうなあ……。
智美は恋愛沙汰には興味がないから良しとして、問題は玲奈だ。バスケ部のエースは、ばりばりの体育会系で性格も男っぽいので、怒らせたらそこらの男子は太刀打ちできない。あの鋭い睨みはトレスと似て迫力がある。
二人がこちらを見ているので、慌てて首を縦に振ると玲奈は納得したのか特大弁当を食べ始めた。
「それにしても、玲奈のお弁当大きいわ」
食の細い智美は、やや呆れた口調で言った。
「でも、食べても太らないから羨ましいなあ」
玲奈は大食漢だが、太らない『痩せの大食い』の体質らしい。
「そりゃこっちの台詞だよ。空の胸って、何食べたらそんなに大きくなる訳?」
あまり胸が目立たない二人の羨望の眼差しに、空は思わず両手で胸を隠す。
「は、早くご飯食べちゃおうよ!!」
全身真っ赤な空は急いで弁当をかきこんだ。