トレス、社会デビュー
約束の日曜日、いよいよ社会デビューとなるトレスは緊張していた。
戦場へ赴くのとは違った妙なものである。
外出する服は、空がバイト先のディスカウントショップで買い揃えた物である。
グレーのVネックに青のチェック柄のシャツ、ストレートジーンズと定番中の定番だが、一緒に外出すると決めてから同年代と思われる男性の服装を観察した集大成だ。
渡されるがままに着てみたものの、剣士の時より軽装な自分にトレスは困惑していた。
「本当にこれで大丈夫か!?」
「大丈夫って!!」
多分、と小声で付け足す。あまりにもトレスがしつこく訊いてくるので、空もさすがに不安になってくる。
「あと、これ」
空から手渡されたのは黒いキャップだった。
目が「?」の彼に屈むよう頼むと素直に従った。
頭に被せると、トレスの特徴である藍色の髪が一瞬にして隠れた。
「へえ!!」
鏡に映った自分の姿に感嘆の声を上げる。
「目深に被れば目も隠れるから目立たないよ」
「こうか?」
鏡の前でつばを押し下げるトレスは、そこらの若者となんら変わらない。
「うん。似合う、似合う」
今時の若者に変身した彼の腕を引っ張って、玄関のドアを開けると……。
あまりの眩しさに、思わず手を翳して光を遮る。
急に視界に広がった世界は、テレビで観たものより鮮やかだった。
及び腰のトレスの腕を掴んで空が歩き出す。
「どう?」
と、振り向いた空は失笑した。
部屋ではあんなに冷静で堂々としていた彼の目は泳ぎ、口元は緩みっ放し。まるで、子どもが初めてお使いするドキュメント番組に出演しているようだ。
明らかに、その笑いが自分に向けられていると知ったトレスが睨んでいる。
「何が可笑しい!?」
「ちょっと可愛いかなって」
「か、可愛い!?」
生まれてこのかた、縁がなかった単語にトレスの声が裏返った。
「仮にも俺は剣士だぞ!!」
「はいはい」
空はうんざりした口調でやり過ごすとバス停で足を止める。
「これに乗って行こうよ」
指差した先にはテレビで観た『バス』という長細い自動車が近付いてきた。想像以上に大きかったのでトレスの顔に緊張が走る。
「近場でもよかったんだけど、どうせなら一番賑やかな所で慣れるのが手っ取り早いかなって」
近くの商店街などに二人で並んで歩いたら、彼のことをあれこれ詮索されるに決まっている。
異世界から来た剣士。
誰がそんな話を信じるというのだろうか。
信じないから嘘をつく。
その嘘がまたトレスを苦しめるとしたら……。
その苦しさは、空自身が一番知っていた。
二人の前に止まったバスのドアが開くと、まず空が乗り込みトレスも続く。
窓際に彼を座らせて自分も隣に座った。二人掛けの座席は肩幅のあるトレスと並んで座ると、少々窮屈で必然的に体が密着してしまう。
バスが走り出すと、窓から流れる風景にトレスの目は釘付けとなった。
景色に映る物を小声で空が説明してくれるのは有り難いが、こちらに身を乗り出してくる度に彼女のふくよかな胸が体に当たる。
そして、説明に没頭している空は、そのことに全く気付いていない。
普段は制服やジャージが多い彼女も、今日ばかりはブルーグリーンに白ドット柄のワンピースという軽やかな装いだ。
生地が薄い分、リアルな感触にこの前のシャワー騒動を思い出す。
バスタオル越しに見てしまった空の豊かな胸の膨らみ……。
堅物の剣士といえどもそこは健全な成人男性で、思わずトレスの喉が鳴った。
「聞いてる?」
その音が聞こえたのかと彼は内心焦ったが、空は緊張して無口になったのかと勘違いしていたらしい。
「聞いているからもっと離れろ。暑苦しい」
照れ隠しにぶっきらぼうな言い方をしたが、それはいつものことと空は気にしていなかった。
やや距離を開けて座り直した彼女を、さりげなく横目で見る。
大きな瞳にふっくらした唇、整った顔立ちに揺れる栗色の髪。
この世界の美的感覚がどんなものか解らないが、オバジーンの女性達と比べても見劣りしないだろう。
それにしても、これまで女性の容姿など気にも留めなかったのに、と苦笑した。
バスに乗って十五分ほどで中心街に到着した。
降りた途端に、騒音と大勢の人間が一気に目に飛び込んできたのでトレスは顔を背けた。
「大丈夫? 戻ろうか」
空が心配そうに彼の顔を覗き込む。
「大丈夫だ。慣れれば問題ない」
「だったらいいんだけど、無理しないで」
トレスは大きく息をすると、改めて辺りを見渡してみた。
色とりどりの衣装を纏った若者達や家族連れなど、多くの人々が縦横無尽に行き来している様は、オバジーンの市場の賑わいにも似ている。
そう考えたら少し気が楽になってきた。
「よし、行くぞ」
「うん」
振り向いたトレスは既に落ち着きを取り戻していたので、空は人ごみの少ない通りを案内する。
左右に軒を連ねる店に、興味津々で目を輝かせているトレスを見ていて空は新たな発見をした。
ートレスって意外と童顔だ。
常に眉間にしわを寄せている様子は、良く言えば精悍、悪く言えば仏頂面で怖いが、ふっと気を抜いた瞬間はあどけない表情を見せる。
これが、第一印象で感じた、精悍さと少年っぽさが共存する理由だったのだ。
しかし、また口に出したら嫌な顔をするだろうから黙っておく。
「おい、あれはなんだ?」
トレスが広場の方に指を差したので、視線を送ると緑や赤、金髪など色彩豊かなかつらを被った集団がいた。
「ああ。コスプレしているんだよ」
「コスプレ? あの連中も他の異世界から来ているのか」
確かに、一般庶民ではない格好ではある。
「アニメとか漫画のキャラの格好をして楽しむんだけど、洋服とか手作りなんだって。凄いね」
トレスには何が凄いのかさえ分からないが一応頷く。
「ほら、あの人なんかトレスに雰囲気が似てない?」
二人の前を通り過ぎたのは、巷で人気のRPGのゲームで登場する騎士のコスプレイヤーだ。紫の髪に白いコートを羽織った人物に、トレスはきっぱり否定した。
「似てない!」
「ええ!? 似てるよ!」
「俺はあんなにへらへらしていないし、あの剣だって偽物だろうが」
「そりゃそうだけど……さ」
ーだから、似てるのは雰囲気なんだってば!! 気難しいし面倒臭いな。
空の愚痴は、当然ながらトレスには届かない。届かないはずだが……。
「……今、俺のこと面倒臭いと思っただろう?」
空は体がびくっと跳ねて、ぎこちなく彼を見る。
「なんで分かったの!? あっ!! あの石の力でしょ!! 実は心も読めたんだ!! ずるいよ!!」
もし、そうだったら今までの感情が全てトレスにダダ漏れということだ。それは非常にまずい。
「いや、それは違う。お前の顔に書いているんだよ」
「顔に現れるの!? それも石の仕業なの!?」
空の異常なまでの慌てように、トレスも狼狽する。
「落ち着けって。言葉のあやだ。だいたい、あの石にそんな力はない」
「それ、外して!!」
「やめろって!!」
ペンダントを首から外そうとする涙目の空を、必死に抑えるトレスの姿は、周りからはじゃれているバカップルにしか見えていないことに二人は気付かない。
トレスが首を振ると同時に、黒いキャップが床に落ちて藍色の髪が現れた。
二人は、我に返りおもむろに辺りを見回す。
その場にいた人々は一瞬こちらに注目したが、彼の藍色の髪はあのコスプレ集団に比べたら地味な方で目立つこともなかった。
二人は、慌てて逃げるように広場を後にした。