その5
トレスは、空が学校に行くと早速テレビのリモコンに手を伸ばした。
この板のお陰で、この世界の情勢を知る手段として大いに役立っている。
まだ断片的しか理解できないが、オバジーンよりかなり文明が進んでいるようである。
そして、ここでも毎日人が争い、尊い命が失われていく……。
たまらず窓を開けた。
住居が乱雑に建てられた街並み、辛うじて残っている木々。何よりも空気が悪い。
原因は、煙を撒き散らして走っている『自動車』という鉄の塊に違いない。
ーとんでもない世界へ来たものだ。
緑豊かでのどかな故郷が恋しくなり、つい首に下げているペンダントを握りしめる。
自分の選んだ道だ。いつまでも落ち込んではいられない。
上を見上げると、青い空が広がっていた。
学校が終わると、挨拶もそこそこに急いで帰る空を友人二人は首を傾げる。
「最近、様子変じゃない?」
「落ち着きないし慌てて帰るし何かあるのかな?」
うーんと唸って、ある結論に玲奈は首を横に振った。
「彼氏ができた!? いやあ、ないない。あの空に限ってそれはない!!」
「でも、結構男子から人気あるんだよ」
「そりゃ可愛いけど、本人自覚ゼロだし鈍いし」
「自分にいないからって否定しなくても」
一言多い智美は、またもや玲奈の関節技の餌食となった。
「ただ今」
トレスが現れてから、頻繁に使う挨拶に空は嬉しくなる。帰ってくると家に誰かいるというのは温かく癒されるものだ。
だが、その気持ちは次の瞬間で一気に吹っ飛ぶ。
「なんで脱いでるのよ!?」
「何って汗をかいたから」
尋常でない汗をかいている半裸のトレスがいたのだ。
狼狽した空は回れ右をしたが、しっかり見てしまった。腹筋が割れているアスリートさながらの肉体美を!!
「部屋、暑かった?」
「いや。それよりもういいか?」
振り向くと、トレスの顔には「早くシャワーを浴びたい」と書いている。
「早くシャワーに行ってよ」
まるで犬猫を追い払う仕草に、お前が話し掛けてきたくせに、と心の中でぼやいた。
奥でシャワーの音がしたので、空も私服に着替えた。
昨日の騒動ですっかり使い方は覚えたらしく、空を呼ぶこともなく浴室から出てくる。
まさか、裸!?と警戒したが、上下ジャージ姿のトレスが現れたので安堵した。
「めっちゃ、汗かいてたね」
「鍛錬をしていたからな」
「ふうん。どんな?」
「腕立て伏せとか腹筋、あと『型』だ」
「ちゃんと剣士してるんだ」
「一日でも休めば腕が鈍る。いざ、戦いとなったら……」
ここまで話すと、トレスが口を噤む。
「どうしたの?」
「もう、戦う必要もないんだな」
トレスは寂しげに呟いた。
物心ついた頃から剣士として叩き込まれた彼にとって、戦わないということは自分の存在を否定されたように思えてならない。
必死に隠していた絶望と孤独が頭をもたげてくる。
「それっていけないこと? トレスも誰も傷つかなくていいんだから幸せと思うけど」
まさに目から鱗が落ちた。
何故、自分は剣士になったのか。『奇跡の石』を守るため? いや、違う。二度と悲劇を起こさないために剣を握る。
戦いに明け暮れて大切なことを忘れていたようだ。
「優しいんだな。きっと両親の愛情に包まれて育ったんだろう」
「いないよ」
わざとらしいほどの明るい声と笑顔だった。
「私が小さい頃に、事故で二人とも死んじゃったから」
言った後でトレスはしまったと後悔した。人にはそれぞれ事情がある。
だから、詫びというわけではないが自分の身の上も語り始めた。
「俺も両親はいない。ある戦いに巻き込まれて、一人生き残った俺を養父が育ててくれたんだ」
「そうなんだ。私も伯母さんのお世話になっているんだよ。なんか、似てるね」
ー似てる……か。
住む世界が違っても、同じ境遇の人間はいるものだと不謹慎ながら親近感を覚える。
「ところで、今日は出掛けないのか?」
いつも慌ただしく何処かへ出掛ける空がのんびりとコーヒーを飲んでいるので、訊いてみた。
「うん。バイトは週三回って伯母さんとの約束だから」
「バイト?」
「仕事してお金を貰うの。トレスも給料貰ってた?」
「ああ。大した金額じゃないが、一人で暮らすには十分だ」
「最高位の剣士なのに貧乏なんだ」
「収入も多いが出費も多いんだよ!」
貧乏の件で、彼のプライドが傷ついたらしく言い方が乱暴だ。
それにしても、女子高生と若者の会話とは思えない所帯じみた会話である。
ー向こうの世界でも、付き合いでお酒飲んだりするのかな。ん? トレスって何歳なんだろう?
「ねえ、トレスって何歳?」
答えるまでに間があったのは、年齢の感覚が違っていたのだろう。やや考えてトレスが口を開いた。
「ここでは二十二歳ってとこだな」
今度は空が頭の中で、彼との歳の差を計算する。
ー私と五つ違いか。お兄さんがいたらこんな感じかなあ。
三つ上の兄がいる玲奈の話だと兄にも色々な人種(?)がいるらしい。
「兄貴がいて羨ましい? 何言ってんの!! ありゃ人類史上サイテーな人種だね。食い散らかすわ、飲み散らかすわ、おまけに脱ぎ散らかすわ。あんなに三拍子揃ってるのも珍しいわ!!」
学年一の頭脳を誇る智美には小学三年生の幼い妹がいるが、宿題を教えたりしてとても可愛がっている様子だ。
しみじみしていたら、トレスに肩を突かれた。
「大丈夫か?」
「あ、うん。考え事」
家族っていいよね、なんて言ったらトレスはまた寂しい顔をするに違いない。
異世界の剣士との同居生活も、三週間目を迎えようとしていた。
長いか短いかと訊かれたら両方だろう。一日は長いが、振り返れば早かった気がする。
彼の接し方はコツを掴んだ。秘境からやって来た外国人と思えば要領を得ることができる。
そして、トレスの性格も次第に明らかになってきた。
無愛想で少し口が悪い。剣士という職業柄か堅物で、おまけに俺様的なところもある。
顔はいいのに、眉間にしわを寄せている場合が多いので不機嫌にみえるのは勿体ないと空を思う。
テレビのお陰かトレスの理解力の速さか、空の部屋だけに関していえば大分慣れてきた。
だが、外に一歩も出ない軟禁状態で二週間過ごしているのは、彼の精神衛生上いい訳がない。
そこで、空はある一大決心をした。
「今週の日曜日、買い物へ行こうと思います!!」
高らかに宣言する空にトレスは眉をひそめた。
「行ってきたらいいじゃないか」
「トレスも一緒だよ」
「は?」
「こっちで暮らすならそろそろ外にも慣れてもらわなきゃ。ということでよろしく」
「お、おい!!」
「剣士ならぐだぐだ言わない!!」
空に一喝されて、つい修行時代の癖で「はい!」と、反射的に返事をすると憮然としてしまった。こういう時は彼女の方が強い。
「よし! じゃあご飯にするね」
鼻歌交じりに料理を始めた空を、トレスは唖然としながら見るしかなかった。