その2
夢なら覚めてほしい……。
だったら、無視して通り過ぎればよかったのに、とまた友人から言われるに違いない。そして、最後は呆れてこの決まり文句。
「お人好しにもほどがあるよ」
自分では、皆が言うほどお人好しではないと思う。ただ、困っている人を見たら手を差し伸べたくなるだけだ。
とにかく、今は現実逃避している場合ではない。
改めて若者を凝視していたら、顔や体中に大小様々な擦り傷を発見した。
取り敢えず、上着を脱がせて傷の手当てに取りかかったがその間も若者に反応がない。
そして、ある重大な事実に気付くと空の顔が一気に青ざめた。
ーこのまま、死んだらどうしよう!!
そっと彼に耳を近づけた空は、浅く弱々しい呼吸に安堵した。しかし、楽観出来ない状況は素人の空さえ分かる。
若者の生死を確かめるために、三十分置きに彼の手を握って体温を感じ取るという原始的な方法で、この危機を乗り切ろうと決心した。
ピピピピ……
まどろむ空の耳に、いつものアラーム音が聞こえてきた。
ーああ、よかった。今日はちゃんと鳴ってる。
また、眠りにつこうとした空の瞳が突然大きく開いた。
「私、寝ちゃった!?」
徹夜してでも若者の生存を確認しようと決心したはずだが、学校とバイトそして非日常的な体験のお陰で心身共に疲れてつい睡魔に負けてしまったらしい。
慌てて、彼の体を揺さぶってみる。
「ねえ、起きて!! 目を覚まして!!」
応答がない最悪な事態に空のパニック度は最高潮となった。
若者の体を大きく揺らし、しまいには首がもげるのでは……と思うほどの激しさに、やっと呻き声が漏れて空は胸を撫で下ろした。
おもむろに開く瞳は、気のせいかやや迷惑そうだ。
「よかった~。死んだかと思った」
涙目の空を、若者は自分の髪と同じ藍色の瞳で見つめている。
「……」
「えっ?」
彼の発した言葉が日本語ではなかったので戸惑ってしまった。
「ハロー」
怪訝な顔をしたので、思いつく外国の挨拶を試みる。
「アニョハセヨ」
「……」
「ボンジュール」
「……」
「ニーハオ」
「……」
さすがに片手を挙げて「ジャンボ!」と叫んだ時は、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
いずれも外れらしく途方に暮れる空を傍観していた若者は、腰から小さな石が付いたペンダントを取り出すと自分の首に掛けた。
「わあ、綺麗!!」
見る方向で違う色になる神秘的な光を放つ石を見入っていると、不意に彼から抱き締められる。
生まれて17年間、男の人に抱き締められたことはおろか、手すら握ったことのない空は一瞬にして固まった。
ほんの数秒が長く感じる。
若者がそっと体を離したのでようやく我に戻った。
「な、何するのよ、変態!!」
「どうやら、上手くいったみたいだな」
先程まで聞き取れなかった若者の言葉が嘘のように理解できる。間違いなく日本語だ。
「上手くいったって何が……。言葉、分かるの!?」
頷く彼はこちらがドキッとするくらい格好いい。
精悍さのなかにも少年の面影が残る整った顔立ち、藍色の前髪から見え隠れする同色の瞳。
「あなた、アメリカ人?」
「ここは何処だ」
こっちの質問にも答えてほしいと、ぶつぶつ呟いたが彼は全く意に介さない。
じっと答えを待っていたが、やがて若者が小さく息を吐いた。
「……オバジーンじゃないんだな?」
「オバジーン? そんな国あったかな?」
ありったけの知識で、世界中の国を探してみたが見当たらない。
「知らないのも当然だ。ここには存在しない」
「言っている意味がよく分かんないんだけど……」
空は首を傾げているが、若者は状況を把握したのか冷静だった。
「俺は異世界から来たらしいな」
「異世界って、外国じゃないの?」
「最初は言葉が通じなかっただろう?」
そう言えば、と形のいい顎に手を当てて考え込む空に、先程のペンダントを見せる。
「この石の力で、言葉や習慣が違う相手でも意思の疎通が可能になる」
空は何度か瞬きをした。彼女なりに頭を整理していたのだ。
「それには相手に触れ合う必要があったんだが、変態呼ばわれされるとはな」
抱き締めたのはそういうことかと合点がいったが、彼の不満げな視線にさりげなく顔を逸らした。
それにしても、この若者が言っていることは真実だろうか。
異世界から来ただの石で相手のことが分かるだの、もし本当なら摩訶不思議なこともあるものだ。それこそ、漫画の話である。
「信じられないか?」
間が空いたので、若者は傍らに置いてあった物を空の目の高さまで掲げた。
いぶし銀の鞘から抜いた剣は使い込まれている。研ぎ澄まされた刃の部分は、素人の空が見てもよく手入れされているのが分かった。
最初は、感心していた空がまたもや声を上げる。
「というか、これって銃刀法違反だよ!!」
「ジュウトウホウ?」
感心している場合ではなかった。映画などの小道具ならともかく、本物なら申請なしに所持していると立派な犯罪である。
「見つかったら警察に捕まっちゃうよ」
空は、慌てて手元にあったバスタオルで剣を包み出した。
「この世界のことは、全て理解したんじゃないの?」
「投影できるのは言語や習慣だけで、細かい所はよく分からない」
ふうん、と納得してみる。
「その格好からお城で護衛していたとか」
彼が意外な表情をした。
「よく分かったな!!」
ー本当に当たっちゃった!!
漫画や小説では定番のストーリーも、実際自分が体験するとは青天の霹靂だ。
そして摩訶不思議な状況でも、彼の話を信じるところが「超」お人好しの空がなせる業である。
「ここ来れたということは、またそのオバジーンに帰れるんだよね?」
ふと若者の藍色の瞳が寂しげになった。
「……帰る術があったら……な」
現段階で、この若者が元の世界に帰れる手段はないと言うのだ。もしかしたら、一生家族も友人、知り合いもいないこの未知の世界でたった独りで暮らさなければならない。
「これからどうするの?」
「なんとかなるさ」と彼は小さく笑った。その顔は、押し寄せる不安を悟られまいと無理しているものだと空は察した。
そう、自分もよくする笑顔だから。