第003話 フェリシーとリュシアン
リュシアンはソゥヴァジォンの手綱を引き、脚を止めさせる。少し考え、アラスの森の裏側から入るよう、早めに街道を外れた。その方が、薬草の採集が容易になる。
森に入ってすぐ、いつもの空気ではないことに気づく。鳥の声も、虫の囁きも途絶え、静寂に満ちていた。
馬を下り、手綱を引いて歩き出す。周囲を伺いながら、ゆっくり進む。途中で目についた、依頼の薬草を採取する。
森の奥へは入らず、外縁部を巡る。それでも、薬草は揃った。
「どうしようかな。鍛錬は中止して、このまま帰ってもいいんだけど……。やっぱり、行ってみよう。いいよね、ソゥヴィ」
好奇心と冒険者を目指す矜持が、勝った。
慎重に森を進む。すると離れた所から突如、複数の騒ぐ気配が起った。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
冒険者ブリス・アリヨは陶然とした気分で、戯れる子どもたちを眺めていた。
いつか自分も、気立ての良い奥さんをもらって、可愛い子どもたちを持ちたいと思った。少し、そちらに集中し過ぎたのかも知れない。
微かな酔いも手伝ったか、背後から近づく気配に、まったく気づかなかった。
「グルルガァッ!」
飛びかかる瞬間まで、狼たちは無音だった。振り向こうとすると、一頭が牙をむき出し唸りながら、ブリスの肩に激突する。ブリスは、座っていた切り株から、前方に弾き飛ばされた。
無我夢中で、俯せに倒れ込もうとする体を捻り、左手を突く。右手を左腰へ回す。左手をバネにして撥ねた。仰向けに回りながら、勢いを乗せて右手で剣=ファルシオンを抜く。
焦ったためか、狙いは甘くなった。自分を弾き飛ばした狼の、160㎝ほどの体長の半ば、脇腹あたりを斬ったようだ。そう深手ではない。
ファルシオンの重量と遠心力により、狼は吹き飛ぶ。甲高い悲鳴を上げ、地に叩き付けられた。立ち上がろうと、もがいている。
脚に激痛が走り、視線を戻す。ブラカエに包まれた左のふくらはぎに、狼が噛み付いている。布地を通して、牙が深く食い込んでいる。
振り切っていた腕を戻し、剣で払う。狼には当たらず、さっと離れる。
ブリスは、周囲を見回す。そこには、更に七頭の狼がいた。油断なくこちらを伺い、その鋭い眼で睨め付けている。
こちらは片脚を負傷し、機動力が落ちている。
「まずったな、これは。くそっ、やばいぜ」
狼たちに眼を配りながら、大きく口笛を二度鳴らす。散開して護衛している、冒険者二人に戦闘を報せるためだ。しばらくして、応える口笛が短く二鳴き。続いて奥からも同じ口笛。耳をすますと、離れた場所で戦う騒擾が聞き取れた。
これは、合流は望めないようだ。
自分を囲む狼たちは、にじり寄っては飛び退き、剣にも怯えているようではなかった。
「森に狼の群れだ! 注意しろ! 出来れば馬車へ逃げ込め!」
森の外の草原に声を張り、そう子どもたちに叫んだ。
肝心なときにこんな体たらくとは、冒険者失格だ。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
「ソゥヴィ、急ぐよ!」
リュシアンは鞍に跨がり、駈歩でソゥヴァジォンを駆る。速度を落とすことなく、立木を避ける。手綱を左の拳に巻き付け、右手は背の短槍を抜き出す。9歳の子どもでも扱えるよう、柄を50㎝ほどに切り落とし、軽量化されている。
小さめの、笹の葉のような剣状の穂先が光る。穂先の背の部分に鉤が突き出た、フォシャールと呼ばれる槍だった。
巧みに叢を避け、倒木を越え、樹間をする抜ける。
一本の大木の枝の上に、庶民風の服装に防具、腰に短剣を提げた青年が上っていた。背の矢筒から半弓に矢をつがえ、大木を取り巻く狼たちを牽制している。離れようとすると射かけて、狼をこの場所に繋ぎ止めている。見た所、まだ矢は大量にある。
「大丈夫ですか!?」
リュシアンは、馬を走らせながら樹上に聞く。
「大丈夫だ! 伝令を頼む! 左にまっすぐ!」
「了解です!」
狼に追いすがる暇を与えず、馬首を巡らした。襲歩に上げて、樹間に飛び込む。追おうとする狼に、矢が突き刺さる。
言われた方向に進むと、岩場の頂きで屈強な青年がハルバードを振るっていた。
膝丈の単純なゴネルにジャクという短い上着、詰め物のないすっきりとしたオー・ド・ショースに革の短靴という職人風。胴鎧に手甲、脛当てといった防具を纏っている。
「伝令、矢の人は大丈夫! こちらは、大丈夫ですか!?」
「おう、大丈夫だ! この先に……」
「伝令ですね! 了解です!」
ハルバードで斬る、突く、鉤爪で引っかける、鉤爪で叩くと、周囲を囲む狼たち相手に獅子奮迅。三頭が倒れており、また一頭が倒れ伏す。こちらに向かおうとする狼の足を払い、支援してくれた。
森の境界が近づく。先の茂みでは、闘争の気配。こんもりとした叢を、飛び越える。
そこでは、傷だらけの青年が、取り囲む狼たちと戦っていた。
「助太刀します! いくぞ、ソゥヴィ!」
勢いのまま、狼の群れに突っ込む。短槍を振るい、馬蹄にかけ跳ね飛ばす。駆け抜けて馬首を巡らす。三頭の狼がもがき、脚を引きずっている。
「向こうの二人は、大丈夫です」
「助かったぜ、ありがとう」
包囲の中と外で、声を掛け合い狼たちを睨む。
五頭の狼は包囲の輪を広げ、唸りながらこちらを伺う。手負いながら剣を持つ青年と、短槍を構える馬上の少年。手強いと見たか、森の外へ鼻面を向けた。
「まずい、子どもたちがいるんだ! ここはいいから、頼む!」
青年の懇願に、リュシアンは馬腹を蹴る。意をくみ、飛び出すソゥヴァジオン。
草原へ出ると、向こうに二人の男。その背後に五人の少女、三人の女性が怯えて固まっている。車輪型の刺繍のスモックにオー・ド・ショースを着た男たちは、御者らしい。『ラ・キャン』というステッキ術の構えをとって、女性たちの盾となろうとしている。
五頭の狼は、一直線に男たちへ向かう。先に障害をなくせば、後は貪り放題だと知っているように。
「ハィッ! ソゥヴィ、行け!」
リュシアンは、全力のソゥヴァジオンに、更に全力疾走を命じる。栗色の馬体の全身が躍動し、筋肉がうねり、馬蹄が地をえぐる。ぐんぐんと狼たちが近づく。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
「フェリ様、大丈夫ですよ。ナタンとレジスが……、護衛の冒険者もいますわ」
「……ほんと?」
侍女のミレイユが、蒼い顔のフェリシーを、ぎゅっと抱きしめた。皿洗い女中の女の子たちは、一塊に震えている。家庭教師のマチルド女史は、今にも崩れ落ちそうだ。
森から警告の叫びがした後、撤収しようとしたところで、狼たちがやってきた。期を失い、離れぬように寄り添ったのだった。
「ジョゼ、抜けてきた狼は、アタシらで防ぐんだよ」
「……うん、がんばる……」
肝っ玉母さんな乳母マガリーが、幼児の世話係である娘のジョゼを鼓舞する。普段は快活なジョゼも、緊張で固まっている。
「レジスよ、こりゃあ、いよいよ命がけだぜ」
「へい、ひ、日頃の修行の成果、見てくだせぇ」
「すぐに音を上げるくせに」
「それは、言いっこ無しでさ……」
男二人は、背後で竦んでいる女性たちを守るため、一歩も引かぬ覚悟だ。
眼前を、狼たちが牙を剥き出し、土を跳ね上げ、迫ってくる。思わず怯みそうになる心を、叱咤する。
そのとき、森を飛び出し蹄の轟きを伴って、栗色の塊が眼前を横切った。
一瞬の戸惑いを振り払うと、狼たちがなぎ払らわれた後だった。二頭が跳ね飛ばされ、そのうち一頭は馬蹄にかけられたか、立ち上がれずにいる。甲高く鳴きながら後ろ脚を引きずる、もう一頭。三頭は飛び退り、頭を低くして唸っている。
「加勢に来ました! 防御をお願いします!」
馬上の少年が、男たちに声をかける。馬主を巡らし、残った狼に突っ込む。
「た、助かっ……た? って、子ども!?」
レジスが呆然と呟く。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
「もう一度いくよ、ソゥヴィ」
語りかけて、リュシアンは三頭に突っ込む。短槍を突き出し、攻撃する。
すぐに、己の失策に気づく。短槍では、狼に届かない。ぎりぎり刃が擦るが、有効な痛手は与えられない。牽制がせいぜいだ。
更に狼たちはソゥヴァジオンの間合いからも飛び退り、馬蹄を避ける。それぞれが下がっては寄り、を繰り返す。
容易に決着がつけられなくなったリュシアンは、攻めあぐねる。狼たちが自分を抜き少女たちに近づかないよう、ソゥヴァジオンを割り込ませるのが精一杯になっている。
右に寄せ、左に回り、後ろ脚を跳ねる。このままでは、ソゥヴァジオンの体力も尽きてしまう。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
「親方、俺たちも、何かできねぇですか?」
「馬鹿野郎、あの子が必死でがんばっているんだ。万一、狼が抜けて来てお嬢様方に何かあったら、全部無駄になっちまう。俺たちは、ここで備えるんだ」
見ていられないとばかりに、御者助手レジスが逸る。
だが、御者のナタンはそれを抑える。見れば、奥歯を噛み締め、ステッキを握る手は、あまりの力に血の気が引き真っ白だ。
フェリシーは、真っ青な顔をミレイユのエプロンドレスに埋めている。だがその視線は、馬を巧みに操り狼と渡り合う少年に、じっと注がれている。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
突然、草原に野太い咆哮が鳴り響いた。狼たちはびくっと耳を震わし、森を見る。
ハルバードを頭上で振り回す偉丈夫が、鬨の声を上げながらこちらに向けて驀進する。
リュシアンとハルバード使い、前と後ろから攻められる狼たちは、どちらに向かうか迷った。その間に巨漢は戦場に踊り込み、槍斧を振るう。
リュシアンはソゥヴァジオンを、後ろを向く狼の一頭に激突させ、馬蹄に掛ける。
巨漢は、一直線にハルバードを振り降ろし、狼の一頭を両断する。
最後の一頭は、甲高い悲鳴を漏らし逃走した。
リュシアンは鞍から降り、ソゥヴァジオンを労う。槍斧の男と協力し、負傷して這いずる狼に止めを刺していった。
「助かりました。でも、お仲間は大丈夫なんですか?」
「おお、でぇじょうぶだ。ブリス……、脚ぃ怪我した方は、安全な場所さ置いて来た。弓の方は、ちょっくら見てくるかな。もう、追っ払ってるだろうがよ」
リュシアンの問いに、笑って答える。
「しっかし、ちっこいのによくやったなぁ。今に、大物になりそうだ。俺はギー・カルリエだ。見ての通り、槍士だ。そんじゃあ、行ってみるか。あいつらぁ、連れてくるでな」
「僕はリュシアン・ブルトーです。ありがとうございました、また後で」
ギーはのんびりと、森へ歩いて行く。
リュシアンがそれを見送っていると、胸の辺りにぽふっと誰かが抱きついた。
視線を下ろすと、小柄な少女が抱きつき、綺羅綺羅した目で自分を見上げている。
「あなたは騎士様?」
少女が尋ねる。
「僕は冒険者です。お嬢さん」
「私、フェリシー、フェリでいいわ。貴方は?」
「リュシアン・ブルトーと申します。お見知り置きを、フェリさん」
「むー、フェリなの!」
「分かりましたよ……、フェリ」
えへへーと笑い、ぎゅっと抱きつく。
「坊主、なかなか度胸があるな。ありがとうよ」
「お前さんのおかげで助かったぜ、ありがとな」
「お嬢様をお助けいただき、ありがとうございます」
「あんた、大したもんだよ。ありがとうね」
「小さな冒険者さん、ありがとう」
「お礼を申し上げますわ。さっ、皆もお礼を」
「お兄さん、ありがとー!」
全員に囲まれ、お礼を言われ、リュシアンは赤くなった。
「僕だけの力じゃ、ありません。ギーさんが来てくれなかったら、どんなことになっていたか……。それにソゥヴィが、頑張ってくれたおかげです」
自分のことだと分かったのか、ソウヴァジオンが近づき鼻面をこすりつける。
「ありがと、ソゥヴィ」
フェリシーが、ソゥヴァジオンの顔を撫でると、手に顔をすりつける。
「どういたしまして、だって」
リュシアンが微笑み、言った。
その場で、ギーたちを待つ。その間に、撤収作業を手伝った。
しばらくすると、ブリスに肩を貸すギーと、弓士の青年が森から出て来た。
互いに名乗り合う。弓士がイポリト・バイルー、脚に怪我を負った剣士はブリス・アリヨと名乗った。冒険者ギルドの若手優待組だと、ギーがリュシアンに告げた。
イポリトが相手にしていた狼は、半数を失い逃げたそうだ。
「助かったよ。矢が残り少なかったからね」と、笑う。
「残った狼は、討伐依頼が出るな」
ギーが言った。
若手冒険者たちは主に獣を警戒し、徒歩で森まで来て、早朝から周囲を見て回っていた。リュシアン以外、少々狭いが全員が馬車に乗り込むことになった。
短い道行きの後、中門からエルモントに入ると、施療院へ向かおうとする。だが、当のブリスがそれを止めた。冒険者たちは門で別れようとするが、女性たちはギルドまで送ると聞かなかった。
ギルドで別れようとすると、今度はリュシアンが引き止められた。ぜひ、お礼がしたいので、邸まで来て欲しいとのこと。
リュシアンとしては、トゥィッチの厩舎でソゥヴァジオンの世話をしたかった。
だが、ナタンとレジスが「ぜひ、俺たちに世話させて欲しい。この馬にも世話になったお返しに、やらせてくれ」と頼む。
「ソゥヴィ、それでいいかい?」と、聞くとナタンたちに寄って行く。二人は、嬉しそうに撫でる。
そうすることに決まり、フェリシーの邸を目指す。
フェリシーの強硬な要望で、リュシアンは馬車に乗ることになった。ソゥヴァジオンは、大人しく場所に繋がれ曵かれている。
座席に着くと、早速フェリシーが腕に抱きつく。それからは、質問攻めだった。
どこに住んでいるのか、どんなものが好きなのか、普段どんなことをしているのか……。リュシアンは、セドラン家の者ということ以外は、正直に答えていく。
やがて馬車は、高級住宅街の門を越える。
実は、フェリシー付きの侍女であるミレイユと、住み込みの家庭教師マチルドは、リュシアンがこの区域に対してどう反応するかを観察していた。半分は反応を楽しもうという好奇心、もう半分は人物を見極めようと思ってのことだ。
「萎縮するようなら、後々、良からぬ考えを起こすかも……」
だが、その予想は裏切られた。
リュシアンは平然とした態度を変えず、デュボア家の広壮な邸にも気圧された様子はなかった。
リュシアンは、まず客室に通されて、汚れた衣服を洗濯女中に渡すことになった。衝立ての影にはバスローブが掛かっており、次は浴場へ案内される。
そこでは、女性使用人が待ち構えており、抵抗も虚しく体中を洗われた。浴槽に逃げ込み、ゆっくり浸かって疲れをとった後、バスローブで客室に戻る。
そこには凝った造りのシルクのシュミーズ、深緑と銀色の綾織り胯丈のプールポアン、異国風な意匠の黒と銀のオー・ド・ショース、煌めく黒いシルクのバ・ド・ショースに真紅のシャマール、黒の革靴が用意されている。
女性使用人が、主人の使いで呼びに来た。応接間に案内される。
装飾や置物は、上品で高価な輝きを放つ。使用人の態度も、少年に対するものではなく、大人に対するように礼を尽くす。デュボア氏の人物を告げる要素の一つだ、と判断する。
女性使用人が応接間の扉をノックし、執事が中から開き、リュシアンの案内を引き継ぐ。リュシアンが応接間に入ると、待っていた人たちが感嘆の声を上げる。
「騎士様が、王子様になった……」
フェリシーが、うっとりと見詰める。
ミレイユやマチルド、他の女性陣も、リュシアンの放つ気品に打たれていた。決して衣裳の高価ではない、彼の生来のものだと感じさせられた。
シルクのシュミーズに銀糸刺繍の青いプールポアン、緑と白の丸く膨らんだオー・ド・ショースにシルクのバ・ド・ショース。飾りのついた短靴。上着にシャマールを羽織り、緑のビレッタを、片方の耳を隠すようにかぶった恰幅の良い男性が、口を開く。
「君が、リュシアン君だね。私はギャスパール・デュボア、フェリシーの父だ。今回のことは、全く以て言葉もないくらいに感謝するよ。ありがとう。皆も、感謝の意を表したいと言うので、受け取ってもらえると嬉しい」
ギャスパール氏が、家人たちを紹介する。
膨よかで優しい笑みの女性マリー=アンジュ・デュボアは、フェリシーの母にしてギャスパール氏の妻。少しきつめな印象のお姉さんはクローディーヌで、フェリシーの姉。その横の気弱な青年バスチアン・ボードリエは、クローディーヌの許嫁。フェリシー付きの侍女ミレイユ、家庭教師マチルド、乳母マガリー、その娘で幼児の世話係マチルド、執事のクレマン。
それぞれ、感謝の言葉を紡ぐ。
そして、フェリシー。最前から胸で両手を合わせ、瞳が綺羅綺羅と輝いている。
おずおずと近づき、眼前で止まる。
「本日は、たいへんありがとうございました。リュシアン様に出会えて、わたしはとても幸せです。感謝の気持ちを、受け取ってくだしゃい……あぅ」
フェリシーは、真っ赤になった。
頑張ったけど最後に噛んだね、とリュシアンは微笑ましくて、くすりと笑った。
マリー=アンジュやミレイユたちは微笑み、クローディーヌはため息をつく。バスチアンは横を見て笑いをこらえ、クレマンは上品に笑い、ギャスパールは磊落に笑った。
次の瞬間、フェリシーはつま先立ちになり、リュシアンの唇にキスをした。リュシアンが呆然とし、 フェリシーはぎゅっと抱きついた。
「フェリは、リュシアンのお嫁さんになる!」
突然の宣言に、一同は一瞬の沈黙のあと騒然となった。
「あらあら、家族が増えますわね」
「お母様、何を暢気な! フェリ、貴女は家のことを考えて……」
「まあまあ、まだ子どもなんだし……」
「ううう、フェリ様のお気持ちは……、でも冒険者……」
「お嬢様、豪商と冒険者では……」
「ああっ、いいねえ。将来有望そうだよお!」
「お母さん! でも、お似合いかも……」
そんな様々な反応の中、黙って微笑むクレマンと、じっと考え込むギャスパール氏。
「お父様からも、フェリにひとこと言ってやってくださいませ」
クローディーヌの言葉に、意外な応えが返り、部屋は静まり返る。
「良いかもしれんな。リュシアン君、いまだ少年ながら、将来について真面目に考えてもらうことはできないだろうか」
「お、お父様……?」
「あらあら、まあまあ。良かったわね、フェリ」
「はい、お母さま」
「旦那様……?」
当の本人は……、フェリシーに抱きつかれたまま、頭の上に『?』を浮かべていた。
だが、それも次の言葉を聞くまでだった。
「リュシアン君、いや、リュシアン・ブルトー殿。人望厚いル・シャルレ男爵の子息でありながら、自分の実力で立身するため家名を封印。若年ながら、冒険者ギルドの期待の星。文武に秀で、紳士であると聞く。間違いありませんな」
「私は、庶子ですよ。それに、爵位は父が返上しました。今は一介の事業家です。ギャスパール殿が、敬語で話される相手ではありません」
どこからか(父と呼んでくれた〜、もう一度〜)と聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。冷や汗を気力で引っ込め、リュシアンは微笑んだ。
「……。本当に、王子様だった」
誰かが呟いた。
「私とのお付き合いを考えるのは、セドランの名が欲しいからでしょうか」
じっと、ギャスパールの目を見据える。
その気迫に、一同は驚いた。10歳の少年の胆力ではない、と思った。
「ふっ、君はセドランではなく、ブルトーなのだろう。私にも、人を見る目はあるつもりだ。私は、君に興味を抱いているのだ。君はいつか、何か大きなことを変えるような気がしてならない。年甲斐もなくワクワクしているよ」
ギャスパールは、笑みを浮かべて言った。
「それに、フェリシーは家のためではなく、自分の好きな相手と一緒になってもらいたいと思っている。クローディーヌ、バスチアン君、君たちが家の道具だと言っているのではないぞ」
「分かっています。私も、バスチアンを選んだのは、いざというときの男らしさですもの。道具として、ではありませんわ」
「はい、僕もクローディーヌを選んだのは、強気の顔の影では、実は乙女なところで……グホァ! あ、ごめん、ごめんなさい」
「あらあら、まあまあ」
「ホッホッホ、睦まじくていらっしゃいますなぁ」
「ええ、本当ですわ」
「ウホン。……と、言う訳だ。どうかね?」
真摯に答えるギャスパールに、しばらく考え頷くリュシアン。
遣り取りの間、リュシアン胸に顔を埋めていたフェリシーの肩に手を置く。胸から離すと、素直に従った。不安そうな顔で、俯いている。
リュシアンは左足をつき、フェリシーの右手をとる。
「フェリ、僕たちは今日出会ったばかりだね。君も、狼に襲われたショックで、僕に恋をしていると錯覚しているのかもしれない。僕も、いきなり将来をと言われても、正直戸惑っている。嫌だというのじゃない。僕の胸も、なんだかぽかぽかしている」
フェリシーの瞳を見詰め、微笑む。
「だから、友達から始めないか? 一緒に時を過ごして、色々なことを体験しよう。そうやって、絆を深めていけたら、と思うよ」
右手の甲に、口づける。
フェリシーは、真っ赤な顔で「はい、お願いしましゅ」と、また噛んだ。
皆の心からの笑い声が、部屋に満ちた。
この日、リュシアンは愛する女性と、才覚を伸ばす先生と、もう一つの家族を得た。
若きリュシアン
親友との出逢い
糧となる至福の日々
次回『リュシアンとジョスリン』
こぼれる涙は仮面で隠せ