最後の滴が落ちるまで
高校で化学を教えて三十八年になる。
最後の授業の日、私は生徒たちに中和滴定をさせることにした。
もっと華やかな実験でもよかった。炎色反応なら火が赤や緑に変わるし、銀鏡反応ならガラスの内側に銀色の膜ができる。最後の授業なのだから、少しくらい見ばえのするものを選んでもよかったのだろう。
けれど、私は中和滴定を選んだ。
机の上にビュレットを立てる。
細長いガラス管の中に透明な液体を入れ、その下にフラスコを置く。フラスコの中にも透明な液体が入っている。そこへ指示薬を数滴たらす。
「今日は、これをやります」
生徒たちは教科書を開いた。
私が何か特別な話をすると思っていたのかもしれない。最後の授業だから、教師生活をふり返るような話でもするのではないかと。
だが私はいつも通り黒板に式を書いた。
酸とアルカリ。
水素イオンと水酸化物イオン。
それらが出会い、水になる。
「少しずつ落としてください。入れすぎると失敗します」
一番前の男子生徒が言った。
「先生、最後なのに普通ですね」
教室に笑いが起きた。
「最後だからって、化学式が変わるわけじゃないからな」
そう答えると、また少し笑いが起きた。
私はそういう教師だった。
話がおもしろいわけでもなく、生徒に好かれるための工夫をするわけでもない。授業をして、実験をして、試験を作って、点をつける。それを三十八年間続けてきた。
悪い教師ではなかったと思う。
良い教師だったかどうかは分からない。
定年を迎えるということは、そういう答えの出ないものを残したまま学校を去ることなのかもしれない。
生徒たちは班に分かれて実験を始めた。
コックを少し開くと、ビュレットの先から透明な滴が落ちる。
一滴。
また一滴。
フラスコをゆっくり回す。
はじめは何も起こらない。
液体はずっと透明なままだ。
けれど、あるところまで来ると、一滴落とした瞬間だけ、うすい桃色が広がる。
すぐ消える。
また一滴。
桃色になる。
また消える。
さらに一滴。
今度は消えない。
フラスコ全体が、ごくうすい桃色になる。
それで終わりだ。
「先生、できました」
声が上がる。
「濃すぎるな。入れすぎ」
「これくらいでもダメなんですか」
「ダメだな」
「きびしい」
私は生徒のフラスコをのぞきこんだ。
たしかに少し濃い。
「最後の一滴がむずかしいんだよ」
そう言いながら、自分でおかしくなった。
最後の一滴。
私はその言葉を、三十八年間、何度言っただろう。
妻は四年前に死んだ。
すい臓がんだった。
見つかったときには、もう手術ができなかった。
医師から説明を受けた日のことはよく覚えている。
白い部屋だった。
妻は私のとなりに座っていた。
医師はパソコンの画面をこちらへ向け、画像を指さしながら説明した。
私は何度もうなずいた。
転移。
治療。
抗がん剤。
副作用。
余命。
そういう言葉が順番に出てきた。
妻はほとんど何も言わなかった。
病院を出てから、駅まで歩いた。
妻が言った。
「お腹すいたね」
私は少し腹が立った。
そんな話をするところではないと思った。
「何か食べる?」
と聞くと、
「うどんがいい」
と言った。
駅前の小さな店に入った。
妻はきつねうどんを頼んだ。
私は何を食べたのか覚えていない。
妻は半分くらい食べて、もう無理と言った。
その残りを私が食べた。
それが、病気が分かった日の記憶として一番よく残っている。
人間の記憶は変なものだ。
医師の説明はほとんど忘れたのに、妻のうどんに浮いていたねぎの形は覚えている。
治療が始まってから、妻は少しずつ弱った。
髪が抜けた。
食べられなくなった。
階段を上るのに時間がかかるようになった。
私は学校へ行った。
授業をした。
帰宅して夕飯を作った。
妻が食べられそうなものを調べた。
ゼリー。
果物。
やわらかいうどん。
おかゆ。
妻は何度も、
「ごめんね」
と言った。
「何が」
と私は聞いた。
「いろいろ」
「別にいいよ」
私はいつもそう答えた。
本当に別にいいと思っていた。
夫婦なのだから当然だと思っていた。
結婚して三十四年だった。
妻の世話をすることくらい、当然だった。
けれど今になって考えると、妻が聞きたかったのは「別にいいよ」ではなかったのかもしれない。
何を言えばよかったのかは、今でも分からない。
実験室でガラスの触れ合う音がした。
「割るなよ」
私は声を上げた。
「割ってません」
「今の音は何だ」
「となりの班です」
「こっちじゃないです」
生徒たちが笑った。
私は腕時計を見た。
授業はあと二十六分だった。
三十八年の最後が、あと二十六分で終わる。
そう考えると長いような、短いような、不思議な感じがした。
時間というものは、数字になったとたんに正確になる。
六十分。
三十八年。
七十歳。
四年前。
けれど、正確だからといって理解できるわけではない。
妻が死んで四年になる。
四年は千日以上ある。
それでも私は今朝、玄関を出るとき、
「行ってきます」
と言いそうになった。
誰もいない家に向かって。
それくらいには、まだ四年しかたっていない。
妻の最後の入院は二週間ほどだった。
個室ではなかった。
窓側のベッドだった。
妻は外を見るのが好きだった。
病室からは町が少し見えた。
学校の校舎も、遠くに見えた。
「あなたの学校、あれ?」
妻が聞いた。
「ちがう。あれは中学校」
「じゃあ、どれ?」
「ここからは見えないよ」
「そう」
妻は少し残念そうに言った。
三十四年一緒にいたのに、妻は私の学校がどこにあるのか、正確には知らなかった。
私は妻が通っていた美容院の場所を知らなかった。
妻がよく買い物をしていた店も知らなかった。
夫婦というのは不思議なものだ。
相手の寝息を何千回も聞きながら、相手の知らない場所をいくつも持ったまま暮らしている。
最後の日、私は学校にいた。
昼休みに病院から電話があった。
状態が変わったので来てほしい、と言われた。
私は午後の授業を別の教師に頼み、タクシーで病院へ向かった。
道路が混んでいた。
赤信号が多かった。
私は何度も時計を見た。
あと何分。
あと何分。
そのときも、時間を数字にしていた。
病室に着いたとき、妻はまだ息をしていた。
細く、長く息をしていた。
私はとなりのいすに座った。
手をにぎった。
何か話そうと思った。
三十四年一緒にいた。
言うことはいくらでもあるはずだった。
ありがとう。
愛している。
ごめん。
楽しかった。
一緒にいてくれてよかった。
言葉なら、いくらでもあった。
けれど、どれを選んでも足りない気がした。
一つを選べば、それ以外を言えなくなる気がした。
だから私は、妻の手をにぎったまま何も言わなかった。
妻の呼吸の間が少しずつ長くなった。
一回。
少し間があく。
もう一回。
また間があく。
私は次の呼吸を待った。
来た。
また待った。
来た。
その次は、来なかった。
看護師が入ってきた。
医師を呼んだ。
時計を見た。
そして時間が言われた。
それで妻の人生は、数字の上では終わった。
あのとき私は泣かなかった。
葬儀でも泣かなかった。
火葬場でも泣かなかった。
妻の姉に、
「あなた、強いのね」
と言われた。
私は強かったわけではない。
ただ、いつ泣けばいいのか分からなかった。
悲しいという感情は、化学反応のようにはっきり色を変えてくれない。
ここまで来たら悲しい。
ここをこえたら涙が出る。
そんな目盛りはない。
妻が死んだあとも、朝になれば腹が減った。
ゴミの日は来た。
学校へ行けば授業があった。
生徒は宿題を忘れた。
私は注意した。
試験をした。
点をつけた。
春が来た。
夏が来た。
また春が来た。
何も変わらないように見えた。
透明な液体に透明な液体を一滴ずつ加えているようだった。
一滴。
一滴。
一滴。
何も起きない。
「先生」
呼ばれて顔を上げた。
女子生徒がフラスコを持っていた。
「これ、どうですか」
私は色を見た。
ほとんど分からないほど、うすい桃色だった。
「いいな」
「成功?」
「成功」
女子生徒はうれしそうに笑った。
「やった」
私はそのフラスコをもう一度見た。
ほんの少し前まで透明だった液体が、今は桃色になっている。
最後に落ちた一滴は、それまで落ちた何十滴と同じ一滴だった。
特別な液体ではない。
大きな一滴でもない。
ただ、それまで積み重なったものがあったから、その一滴で色が変わった。
四年前の冬。
妻が死んで半年ほどたったころだった。
スーパーでみかんを買った。
袋に六個入っていた。
家に帰って、食卓の上に置いた。
私はみかんがあまり好きではない。
妻が好きだった。
冬になると必ず買っていた。
なぜ自分が買ったのか分からなかった。
習慣だったのだろう。
袋を開けた。
一つ取った。
皮をむいた。
食べた。
酸っぱかった。
そのとき、突然泣いた。
妻が死んだ日には泣かなかった。
骨を拾った日にも泣かなかった。
半年後、スーパーで買った百九十八円のみかんを食べて泣いた。
自分でもおかしいと思った。
食卓に座って、一人で泣いた。
みかんは何も悪くなかった。
それまで何度も食べたのと同じみかんだった。
ただ、それが最後の一滴だったのだと思う。
病院。
空になったベッド。
葬儀。
一人分だけ作る夕飯。
妻の服を片付けた日。
冷ぞう庫に残っていた調味料。
テレビの横に置いたままの老眼鏡。
それらが一滴ずつ落ちていた。
私は気づかなかった。
透明だったからだ。
そして、みかん一つで色が変わった。
「先生、あと十分です」
生徒が言った。
「分かってる」
「最後だからチャイム無視して延長とかやめてくださいよ」
「しないよ」
「先生、たまにするじゃん」
「今日はしない」
教室のあちこちで片付けが始まった。
使った液体を決められた場所へ捨てる。
ガラス器具を水で洗う。
ビュレットを外す。
机をふく。
私は黒板の式を消した。
白い粉が黒板消しについていた。
もうこの黒板に化学式を書くことはない。
そう思った。
何も感じなかった。
少し残念だった。
最後なのだから、もっと何かあると思っていた。
胸が熱くなるとか、三十八年の出来事が一度に思い出されるとか。
けれど、何もなかった。
ただ黒板を消した。
いつもと同じだった。
チャイムが鳴った。
「はい、終わり」
私は言った。
生徒たちは立ち上がった。
号令係が、
「起立」
と言った。
いつも通りだった。
「礼」
「ありがとうございました」
声がそろった。
私は頭を下げた。
「はい」
それだけ答えた。
生徒たちは動かなかった。
「何だ」
私は聞いた。
一番前の男子が言った。
「先生、それだけですか」
「何が」
「最後なんですよ」
「そうだな」
「何か言わないんですか」
私は少し考えた。
三十八年をまとめる言葉など持っていなかった。
私は化学の教師だった。
化学の話ならできる。
「じゃあ、一つだけ」
生徒たちが静かになった。
「今日やった実験な」
私は机の上のフラスコを持った。
うすい桃色の液体が入っていた。
「最後の一滴で急に色が変わったように見える。でも、本当は最後の一滴だけで変わったわけじゃない」
生徒たちは黙って聞いていた。
「その前に落とした一滴も、その前の一滴も、全部必要だった。見た目には何も起きていなくても、中ではずっと変化が続いてる」
自分が何を話しているのか、途中で分かった。
私はフラスコを机へ戻した。
「まあ、人生もたぶん同じです」
教室が少し静かになった。
「以上」
「急にそれっぽい」
誰かが言った。
笑いが起きた。
私も笑った。
「帰れ」
生徒たちは教室を出ていった。
「先生、ありがとうございました」
「元気でね」
「また学校来てください」
「先生のテスト、むずかすぎました」
いろいろな言葉を残していった。
私は一人になった実験室で器具を片付けた。
最後のフラスコを洗った。
水道の水で桃色がうすくなる。
さらに水を入れる。
透明になる。
それを見て、私は蛇口を止めた。
校舎を出たのは午後五時を少し過ぎたころだった。
職員室では花束をもらった。
同僚たちに頭を下げた。
写真も撮った。
長い間ありがとうございました、と言われた。
私は同じ言葉を何度も返した。
「こちらこそ」
それから電車に乗った。
花束を持った老人が夕方の電車に乗っていると、どうしても目立つ。
向かいに座った子どもが何度かこちらを見ていた。
駅を降りた。
スーパーへ寄った。
夕飯を買おうと思った。
肉。
豆腐。
牛乳。
かごに入れた。
果物売り場の前を通った。
みかんはなかった。
季節ではない。
代わりに、青いぶどうが並んでいた。
妻はぶどうも好きだった。
私は一房取った。
値段を見た。
少し高かった。
戻そうと思った。
やめた。
買った。
家へ帰った。
玄関を開ける。
誰もいない。
花束を食卓に置いた。
大きすぎて、少しじゃまだった。
花びんを探した。
妻が使っていたものが、食器だなの下に残っていた。
水を入れ、花をさした。
うまくまとまらなかった。
妻ならもう少しきれいにできただろう。
夕飯を作った。
一人で食べた。
テレビをつけた。
何を見ていたのか、ほとんど覚えていない。
食後、ぶどうを洗った。
一粒食べた。
甘かった。
私はもう泣かなかった。
ただ、
「おいしいよ」
と言った。
声に出してから、自分で笑った。
妻に言ったつもりだった。
もちろん返事はなかった。
私はもう一粒食べた。
食卓の上には退職祝いの花があった。
明日から学校へ行かなくていい。
三十八年間続いた生活が終わった。
妻がいなくなってから四年がたった。
いろいろなものが終わった。
けれど、人間は終わった瞬間には、それが何だったのか分からないのかもしれない。
何かが始まった瞬間も同じだ。
そのときは透明だ。
変化は見えない。
一滴ずつ落ちる。
朝起きる。
学校へ行く。
誰かと出会う。
結婚する。
けんかをする。
仲直りする。
病気になる。
死ぬ。
残された人はまた朝を迎える。
一滴。
また一滴。
いつか色が変わる。
その最後の一滴が何になるかは、誰にも分からない。
みかんかもしれない。
ぶどうかもしれない。
生徒の何気ない一言かもしれない。
私はもう一粒、ぶどうを口に入れた。
窓の外は暗くなっていた。
明日は月曜日だった。
けれど私は、学校へ行かない。
そのことがようやく少しだけ不思議に思えた。
私は食卓に置いたままだった妻の古いマグカップを見た。
四年間、捨てられなかったものだった。
明日もたぶん捨てない。
それでいいと思った。
すべてを終わらせなくても、生きていくことはできる。
私は化学の教師だったから、それくらいは知っている。
反応が終わったあとにも、そこには何かが残る。
形が変わり、色が変わり、名前が変わっても、何もなかったことにはならない。
私は花束の向きを少し直した。
一本の花が横へたおれていた。
手で起こす。
それだけだった。
けれど、そのとき初めて、三十八年間教師をしてきたことが終わったのだと思った。
胸の奥が少し熱くなった。
涙は出なかった。
それでもいい。
最後の滴は、いつも涙とは限らない。




