前世は女性占い師でしたが、異世界転生したら星詠みの美少年になっていました。 毎週恋バナをしに来る彼女の星だけがなぜか読めません
第一章:星詠み師に恋バナは禁物です
「私の星を見てください!」
夜の帳を押し返すような、屈託のない笑顔。
少女が身を乗り出した拍子に、ふわりと陽だまりのような匂いがした。
僕には、誰にも言えない秘密がある。
前世が、女だった。
笑い話のようだけれど、本当のことだ。
前世の僕は、正確には前世の「私」は、霊感の強い占い師の女性だった。
薄暗い部屋で線香を焚き、水晶球を覗く。
次々と訪れる客の星を読み、運命を告げる。
そんな日々を送っていた。
その魂が、この異世界に持ち越された。
器は変わった。今世の僕は蒼い髪の少年だ。
でも中身は、どうもあまり変わっていないらしい。
霊感もそのまま引き継がれた。
人の顔を見れば運命の色が滲み、空を見上げれば星が語りかけてくる。
おかげで王都の東にある古い塔で星詠み師を開業したら、気づけば予約は二ヶ月待ちになっていた。
扉が開いたのは、月が中天にさしかかる頃だった。
――こんな時間に客?
入ってきたのは、静まり返った夜中にまったくふさわしくない、太陽のような笑顔の少女だった。
栗色の髪を揺らし、泥のはねたブーツで軽快に歩く。
どこにでもいる町娘の格好だが、その瞳は期待に爛々と輝いている。
僕は習慣で、すぐに彼女の星を読んだ。
恋愛運、強い。
対人運、良好。
恋の気配、あり。
相手の顔は――
そこで、少し引っかかった。
相手の顔が、霞む。
「……座って。何を占う」
「好きな人のことです」
少女は頬を染めた。
その瞬間。胸の奥で、何かがむくりと起き上がった。
前世の記憶だ。
何十人もの恋する女性たちの相談に乗ってきた記憶。
お茶を用意して、身を乗り出して、
「それで?それで?」と前のめりになった、あの感覚。
あれが一番好きな時間だった。
「……その人、どんな人?」
気づいたら、口が動いていた。
星図はまだ開いていなかった。
「幼馴染なんですけど」
少女は身を乗り出した。
「最近、目が合うと逸らされるというか」
「逸らされる系は……意識してる可能性、高い」
「そうですよね!?」
「目を逸らすのはね、見ちゃうから逸らすんだよ。見たくない相手の目は最初から見ない」
「わかります! あと最近、すれ違ったときに変な声出してたんですよ」
「変な声?」
「なんか……『あうっ』みたいな」
「完全に好きじゃん」
「ですよね!?」
気づけば、二人で卓の上に身を乗り出して向き合っていた。
水晶球は端に追いやられている。
星図は一度も開かれていない。
……僕は今、何をしているんだ。
「じゃあまた来ます!」
少女は立ち上がった。
「あ、私、ノアっていいます」
「レシェルだ」
「知ってます。有名ですもん」
ノアはにこっと笑った。
「なんか、女の子の友達と話してる感じがしました」
「……そう」
「褒めてますよ?」
「わかってる」
わかっている。
前世がそうだったから。
ノアが出ていった。
塔に静寂が戻った。
僕は水晶球を覗いた。
ノアの星を、もう一度読もうとした。
――読める、はずだった。
最初に見たときは、たしかに読めた。
あの星の軌跡も、揺らぎも、はっきりと。
なのに今は、どこか輪郭がぼやけている。
星が霞む。
ノアの星だけが、薄く靄がかかったように、掴みきれない。
見えないわけじゃない。
けれど、確かに“ずれている”。
……なぜだ。
理由がわからないまま、窓の外を見た。
来週、また来るかな。
それは星詠み師としての関心では、なかった気がした。
第二章:お礼はクッキー。ただし、星図は一度も開いていません
ノアは来た。
約束はしていなかった。
でも来た。
「来ました!!」
飛び込むように入ってきた。
手には紙袋を持っている。
「報告していいですか。市場で話しかけたら、向こうから荷物持ってくれたんですよ!!」
「進展じゃん」
「でしょでしょ!? あとちょっと指が触れて……」
「触れた!?」
「触れたんですよ……!」
「それはもう相手も意識してるよ」
「どうしよう、どうしよう……!」
「落ち着いて。深呼吸」
二人でしばらく深呼吸した。
水晶球は今日も端に追いやられている。
「これ、お礼です」
ノアは紙袋を差し出した。
中を見ると、丁寧に包まれたクッキーが入っていた。
「食べながら話しましょう」
気づけば、そうなっていた。
「どうしたらいいと思います? 告白したら重いですかね」
「重くない」
僕は答えた。
前世の記憶が、するすると引き出される。
「現状維持は、時間が経つほど重くなる。早めに動いた方が後悔が少ない」
「レシェルって、なんでそんなに詳しいんですか」
星を読んでいれば、というのは半分本当だ。
もう半分は、前世で何十人もの恋愛相談に乗ってきた経験だ。
ただしそれを言うと前世が女だったという話になり、話が長くなる。
「……星を読んでいれば、色々見える」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「星関係ない感じで言ってた」
ノアは少し笑った。
「経験豊富な感じがします」
「……そんなことはない」
恋をしたことは、一度もない。
前世でも、今世でも。
その言葉は、飲み込んだ。
三週目の来訪。
手土産は焼きりんごのパイだった。
「作りました。今回は焦げてないです」
「……うまそうだ」
パイを切りながら、ふと聞いた。
「君が来るのを……」
「え?」
「……なんでもない」
楽しみにしていた、なんて言えない。
四週目。
ノアが帰り際に言った。
「ねえ、レシェル。悪いこと見えても言わないタイプ?」
手を止めた。
「……なぜ」
「最初に私の星を見たとき、一瞬だけ顔が曇ったから」
鋭い。
「……少しだけ影が見えた。大事には至らない。でも……泣くことがある」
「言わない方がよかった? 言った方がよかった?」
「……わからない。ずっとわからない」
前世から続く問いだ。
どこまで言うべきか。
どこからが助けることで、どこからが壊すことなのか。
答えが出ないまま、一生が終わった。
「レシェルが決めていいと思うよ」
ノアは言った。
「私は、レシェルが見えたものを、レシェルが一番いいと思うタイミングで話してくれたら、それでいい」
目を伏せた。
前世で、一度でも誰かにそう言ってもらえたなら。
「……ありがとう」
声が、少しかすれた。
ノアは気づかないふりをして、笑った。
「来週も来ていい?」
「……好きにしろ」
第三章:いびつなハートのクッキーは、引き出しにしまいました
前世の習慣で、身だしなみには人一倍気を使っていた。
でもそれは、占い師としての舞台衣装を整えるような感覚だった。
なのに最近、鏡を見る目が変わった。
髪を整え、袖の汚れを払い、少しでも見栄えのいい少年であろうとしている自分に気づく。
「……何を、誰のために」
気づいてしまったことがある。
ノアが来ない日は、なぜか長い。
忙しいはずなのに。
予約は相変わらず二ヶ月待ちで、朝から晩まで客が途切れない。
なのに。
長い。
塔の前には今日も行列ができていた。
手紙が十二通届いた。
花束が三つ。
「レシェル様……!」
声を詰まらせながら入ってくる客が、今日も何人かいた。
全員に申し訳ないと思っている。
星を読む仕事がしたいだけなのに。
「レシェル! 聞いてください!!」
夕方、扉が開いた。
ノアだった。
手土産はクッキー。布の小袋に入っている。
「あ、今日もかっこいい」
心臓が鳴った。
「カイとご飯一緒に食べたんです」
「進展じゃん」
「それだけじゃなくて! 帰り際に、また来週一緒に食べようって。向こうから!!」
「それは完全に好きだ」
「ですよね!?」
いつも通り、身を乗り出していた。
気づいたらそうなっていた。
小袋の中を見ると、ハートの形のクッキーが入っていた。
いびつな、不格好なハートだった。
「ハートって難しいんですよ! 型を使ったのに歪んで」
「……うまい」
「本当に? よかった」
ハートの形のクッキーを、僕に持ってきた。
それは、どういう意味だろう。
考えて、すぐに打ち消した。
たまたまそういう形になっただけだ。深読みするな。
そういうことにしておいた。
「なんか、レシェルって……誰かに会うのが楽しい、とかある?」
「……ある」
「誰ですか」
答えようとした。
口が開かなかった。
なぜ開かないのかわからなかった。
職業的に答えに詰まることはないはずだった。
「……クッキー、食べよう」
「逃げた」
「逃げていない。お茶が冷める」
「お茶関係ない」
ノアは少し笑った。
「まあ、いいですけど」
ノアが帰ったあと、水晶球を覗いた。
読めない。
先週より、ひどかった。
ノアの星だけが、ほとんど見えない。
前世の記憶を思い出した。
力が弱まるケース。
疲労、体調不良、強い感情。
感情が、星の声を遮ることがある。
特定の相手に対して強い感情を持つと、霊感が歪むことがある。
引き出しを開けた。
いびつなハートのクッキーを、そっとしまった。
捨てられなかった。
理由は明確だ。
焼き菓子を粗末にするのは罰当たりだ。
食べ物への敬意の問題だ。
では食べればいい。
……食べたくない。
引き出しにしまった。
考えるのをやめた。
第四章:恋敵の運命は見えても、君の笑顔が見たいだけ
その日の朝、なんとなく嫌な予感がした。
予約なしの客が来た。
飛び込みを断るのが常だったが、その日はなぜか通した。
背の高い青年。
青いマフラー。
手に白い花束。
「好きな人が、います」
青年は言った。
「名前はカイといいます」
「好きな相手の名前を」
「ノア、といいます。幼馴染で……ずっと好きだったんですけど、踏ん切りがつかなくて」
僕は星図に目を落とした。
カイの星を読んだ。
誠実な星だ。
真っ直ぐで、温かい色をしている。
本当にノアのことが好きなんだろう。
次に、ノアの星を読もうとした。
霞んだ。
やっぱり駄目だった。
でも、カイとの縁の糸は辛うじて見えた。
細くはない。でも、決定的に赤く輝いているわけでもない。
どちらにも転べる、という感じだ。
正しい答えはわかる。
背中を押せ。星詠み師として、それが正しい。
でも。
「……ひとつだけ、聞いていいか」
「はい」
「ノアの笑った顔が、好きか」
カイは照れくさそうに、でも迷いなく頷いた。
「……はい。すごく」
「行ってこい」
カイが出ていった。
引き出しを開けた。
ハートのクッキーを取り出した。
見た。
いびつな形を、しばらく見た。
捨てようとした。
ゴミ箱の前で、止まった。
……引き出しにしまった。
正しいことをした、とは言えなかった。
水晶球を覗いた。
また、星がひとつ読めなくなっていた。
でも。
水晶球の中に、ノアの笑った顔が浮かんだ。
「レシェルでよかったです」と言ったときの顔。
「手間をかけたいんです」と言ったときの顔。
君の笑った顔が好きだ。
初めて、はっきりと思った。
認めた。
誰に言うわけでもなく、一人で。
「……まずいな」
小さく呟いた。
整理しよう。
客の恋路を応援した。
それは正しい。
クッキーを捨てられない。
それは食べ物への敬意だ。
彼女の笑った顔が好きだ。
それは——
それは。
「……まずいな」
もう一回言った。
二回言っても状況は変わらなかった。
第五章:お茶が冷めても、その「好きな人」の話は聞きたくない
数日後、カイが来た。
花束はなかった。
「振られました」とだけ言って、でも清々しい顔をしていた。
「言えてよかったです」と言い残して、帰っていった。
まずいことに気づいてしまった。
ノアが毎週話していた「好きな人」。
最初はカイへの恋だと思っていた。
でもカイはノアに告白して、振られた。
つまりノアは、カイを好きじゃなかった。
……じゃあ。
あの相談は誰の話だったんだ。
次の来訪の日。
ノアはアップルパイを持ってきた。
「また林檎系か」
「好きなんです、林檎。レシェルも好きそうだと思って」
「……好きだ」
「レシェルって、客のこと全員覚えてるんですか」
「……常連は覚える」
「私も覚えてますか」
「覚えている」
「それって、常連だから、ですよね」
「……」
違う、と言おうとした。
言えなかった。
ノアは少し笑って、「ですよね」と言った。
自分を納得させるような、小さな声だった。
その顔を見て、初めて気づいた。
彼女も、怖いのかもしれない。
お茶を入れながら、今日は少し決めていた。
聞いてみよう、と。
「ノア」
「はい」
「前に話してた、好きな人のこと」
ノアの手が止まった。
「……はい」
「その人と、最近会ってるか」
「……毎週、会ってます」
「どんな人だ」
ノアは俯いた。
パイをじっと見た。
それから、ゆっくりと言った。
「無愛想で」
「……うん」
「でも、話を聞いてくれて」
「……うん」
「私のこと、ちゃんと見てくれてる感じがして」
「……」
「なんか、いつも星みたいな目をしてて」
誰だろう、と一瞬思った。
王都の学者か。
市場の……
お茶を持つ手を止めた。
星みたいな目。
毎週会ってる。
無愛想で、話を聞いてくれて。
「それ……」
「あ」
ノアが顔を上げた。
目が合った。
二人とも、止まった。
ノアの顔が、みるみる赤くなった。
僕の顔がどうなっているかは、わからなかった。
確認する手段がなかった。
確認したくなかった、が正確かもしれない。
「……言いません」
「言え」
「言いません!!」
「なぜ」
「言えるわけないでしょう!! 星詠み師に向かって!!」
星詠み師。
その言葉に、少し引っかかった。
今の僕はもう、ほとんど星が読めない。
それを言うべきか迷って、やめた。
タイミングが違う気がした。
ノアは立ち上がった。
残りのパイを紙袋に詰め始めた。
「帰ります!!」
「まだ早い」
「帰ります!! 来週来ます!!」
扉が勢いよく開いて、閉まった。
塔に静寂が戻った。
星みたいな目。
毎週会ってる。
心臓がうるさかった。
その夜、窓の外に向かって小さく言った。
「来週、ちゃんと聞く」
彼女の話を聞くのが、あんなに楽しかったはずなのに。
「その人のこと、もっと教えて」という言葉が、喉の奥でつかえて出ない。
これまでは、恋愛の答えを教えるのが僕の仕事だった。
でも今は、彼女の口から出る答えを聞くのが、死ぬほど怖かった。
前世の経験なんて、何の役にも立たない。僕はただ、自分の心臓の音に怯える、愚かな一人の少年になっていた。
第六章:予言はいらない。星が消えた塔で、君の嘘を暴く
来週こそ聞こうと思っていた。
だから朝から、少し落ち着かなかった。
夕方。
最後の客を送り出したところで、扉が開いた。
いつもと少し違った。
ノックがなかった。静かに開いた。
「……レシェル」
声がかすれていた。
ノアが立っていた。
目が赤かった。泣いていた。いや、今も堪えているのかもしれない。
手土産は、なかった。
「来てよかったですか」
「来い」
ノアは椅子に座って俯いた。
しばらく何も言わなかった。
お茶を入れた。
ノアの好きな、少し甘い茶葉を選んだ。
カップを置いた。
「……ありがとうございます」
「話せそうになったら話せ」
その間、水晶球を覗いた。
ノアの星を読もうとした。
読めない。
完全に読めない。
何もない。透明だった。
試しに他の星を読もうとした。
今日来た客の星を。王都の商人の星を。
全部、霞んでいた。
力が消えた。
前世から引き継いだ霊感が、今日で終わった。
感情が強すぎると、霊感を失う。
前世の師匠が言っていた言葉を思い出した。
怖いか、と自分に聞いた。
怖くない。
むしろ軽かった。
長いこと背負っていた荷物が、するりと落ちたような。
でも今は。
ノアを見た。
「レシェル」
ノアが顔を上げずに言った。
「怒らないで聞いてほしいんですけど」
「怒らない」
「……私、ずっと嘘ついてました」
「嘘?」
「最初に来たとき、好きな人の相談って言ったじゃないですか。あれ、嘘でした」
「……」
「好きな人はいたんですけど、カイのことじゃなかったんです。最初から」
ノアはゆっくり言った。
「本当に好きな人のことは直接言えなかったから、遠回しに相談って形にしたら気づかれないかなって」
「全部お見通しだと思ってたから。……星詠み師じゃないですか。読まれると思って」
「……読めていなかった」
「それが後でわかったから、じゃあ直接言えばよかったってなりましたけど」
ノアは苦笑した。
「でも今日、ちゃんと言いに来ました」
「……」
「言っていいですか」
「言え」
ノアは息を吸った。
「レシェルのことが、好きです」
塔の中が静かだった。
「最初に来た日からずっと好きでした。毎週来てたのは相談のためじゃなくて、レシェルに会いたかったから」
「お菓子を作ってきたのも、レシェルの顔が見たかったから」
「ずっと、ずっと」
声が震えていた。
「……迷惑でしたか」
僕は少し間を置いた。
水晶球を見た。
透明だった。星はもう見えない。
「占いなしで言う」
ノアが顔を上げた。
「星はもう読めない。今日で消えた」
「え……」
「だからこれは星じゃない。僕が思うことを言う」
「……はい」
「君が来るのを、毎週楽しみにしていた」
「君の手土産を捨てられなかった。ハートのクッキーを一ヶ月、引き出しにしまっていた」
ノアの目が丸くなった。
「君が『レシェルでよかった』と言った言葉を、何度も思い出した」
「レシェル」
「君の笑った顔が」
一度止まった。
前世から数えて、初めて言う言葉だった。
「好きだ」
ノアの目から涙がぽろりと落ちた。
「……泣くな」
「泣きますよ」
ノアは笑った。
泣きながら笑った。
「こんなの、泣きますよ」
最終章:星が消えた朝、君がいた
目が醒めた。
窓の外が明るかった。
習慣で、星を読もうとした。
読めない。
当然だ。昨日で消えた。
でも、怖くない。
体を起こして窓に近づいた。外を見る。
王都の朝が、そこにあった。
石畳に朝日が当たって光っている。
パン屋の煙突から煙が上がっている。
猫が一匹、塀の上を歩いている。
全部、ただの朝だった。
運命も見えない。
影も見えない。
誰かの星も、読めない。
軽い。
生まれて初めて。
前世も含めて、生まれて初めて。
何も背負っていない朝が、そこにあった。
塔の扉を開けたら、ノアがいた。
石畳の上に立って、朝日を背負って、少し照れたような顔をしていた。
手に紙袋を持っていた。
「……おはようございます」
「ああ」
「来てよかったですか」
「来い」
ノアは少し笑った。
「朝ごはん、食べましたか。クロワッサンです。一緒に食べようと思って」
「……入れ」
「はい」
テーブルの上にクロワッサンを並べた。
お茶を入れた。
朝の光が窓から差し込んでいた。
「レシェル」
「うん」
「昨日、ちゃんと言えてよかったです」
「……うん」
「ずっと言えなかったから。毎週来るたびに、今日こそ言おうって思って、でも言えなくて」
「……僕も」
「え?」
「僕も、毎週、今週こそ聞こうと思っていた」
ノアは少し目を丸くした。
「レシェルも?」
「うん」
「なんで聞かなかったんですか」
「怖かった」
正直に言った。
前世の占い師なら、絶対に言わなかった言葉だ。
でも今の僕は星詠み師じゃない。ただのレシェルだ。
「怖かったんですか」
ノアは少し意外そうだった。
「レシェルが?」
「怖い。答えが望まないものだったら、と思って」
「望まないものじゃなかったですよ」
「……わかってる。今は」
「今は」
ノアは少し笑った。
「じゃあ昨日まではわからなかったんですね」
「わからなかった」
「私もレシェルに全部見えてると思って怖かったです」
ノアは言った。
「星詠み師に恋をしたら、顔に出た瞬間に読まれるって思って。だからずっと遠回しにしてた」
「読めていなかった」
「それが後でわかったから、じゃあ直接言えばよかったってなりましたけど」
ノアは苦笑した。
「でもまあ、遠回りしたから、毎週来る理由もできたし」
「……毎週来る理由なんて、なくてよかった」
ノアが少し止まった。
「……どういう意味ですか」
「理由がなくても来ていい」
ノアの耳が赤くなった。
「……レシェル」
「なに」
「そういうこと、さらっと言うんですね」
「事実だから」
「心臓に悪い」
「前にも言っていた」
「前にも言いましたよ! 全然わかってない!」
ノアは頬を膨らませた。
それから。
「レシェル、今笑いましたよね」
「笑っていない」
「笑った! 見ました! 初めて見た、レシェルが笑うところ!」
「笑っていない」
「絶対笑った!」
ノアは目を輝かせた。
「もう一回笑ってください」
「笑わない」
「ちょっとだけ」
「笑わない」
クロワッサンを一口食べた。
「……うまい」
「でしょ!」
ノアはにこにこしていた。
その顔を見ていたら、また笑いそうになった。
堪えた。
昼前。
ノアが「また来ます」と言って帰り支度を始めた。
「いつ来る」
聞いたら、ノアは少し驚いた顔をした。
「……明日でもいいですか」
「好きにしろ」
「毎日来ていいですか」
「……好きにしろ」
ノアはぱあっと笑って、手を振って、石畳を駆けていった。
走らなくていいのに、走っていった。
塔の角を曲がるとき、一度だけ振り返った。
手を振った。
僕も手を上げた。
ノアが笑った。
消えた。
一人になった。
水晶球を手に取った。
透明だった。
運命も、影も、星も、何も見えない。
ただの綺麗な球だった。
机の上に置いた。
窓を開けた。
昼の風が入ってきた。
王都の音がした。
パン屋の、客を呼び込む陽気な声。
馬車の音。
子供の笑い声。
全部が等しく聞こえた。
誰の運命も見えない。
みんな、ただの人だった。
そして僕も、ただの人だった。
外に向かって、小さく呟く。
——前世の私へ。
あなたが女性で、占い師で、何千人もの恋を見てきたから。
僕は、彼女のほんの些細な表情の変化に気づくことができた。
そして今の僕が男で、彼女の隣に立っているから。
僕は、彼女の手を握ることができる。
どちらが欠けても、
この幸せには辿り着けなかった。
窓の外に向かって、小さく言った。
「やっと、卒業できる」
風が吹いた。
「あなたは、誰かの星を照らし続けて、
自分の手だけが空っぽだった」
「でも、おかげで今の僕がいる」
雲がひとつ、流れていった。
「あなたが空っぽの手で生きたから、
僕は満たされた手で生きられる」
風が、もう一度吹いた。
まるで返事みたいだった。
エピローグ 半年後
ノアは毎日来た。
約束通り。
手土産は毎回違った。
クッキー、パイ、タルト、シナモンロール。
たまに失敗作。
失敗作はいらないと言ったのに、持ってくるのをやめなかった。
僕は新しい仕事を始めた。
星は読めないが、長年の知識はある。
薬草の知識、歴史の知識、星座の知識。
それを活かして、王都の学院で教えることになった。
塔はそのままにした。
星詠みはしないが、ノアが来る場所として残した。
「レシェル」
ある夕方、ノアが言った。
「うん」
「前に、影が見えるって言ってたじゃないですか。私の。泣くことがあるって」
「……うん」
「あれ、当たりました」
「……どんな」
「レシェルが笑わないから、悔しくて泣きました」
「……それは僕のせいか」
「レシェルのせいです」
ノアはふふっと笑った。
「でも今日、また笑ってくれたから。帳消しです」
「笑った覚えはない」
「笑いました」
「……」
「笑いました!」
窓の外で夕日が沈んでいった。
星が一つ、出始めていた。
運命は見えない。
でも。
隣にノアがいた。
手がそっと重なった。
温かかった。
了
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
本作は、私にとって初めてのラブコメ作品です。
「恋愛相談のプロが、自分の恋には素人だったら?」というギャップを描くのが、とにかく楽しくて仕方がありませんでした。
前世は百戦錬磨の女性占い師、今世は美少年の星詠み師。そんなレシェルが、ヒロインのノアを前にして、水晶球を端に追いやり「女子会ノリ」で前のめりになるシーンは、筆が乗るあまり予定より長くなってしまったほどです。
星図に頼らず、自分の意志で「好き」と告げたふたりの未来が、甘いお菓子の香りに満ちたものであることを願っています。
書き手としての「楽しさ」が、少しでも皆様に伝われば幸いです。
また別の物語でお会いできることを願って。
2026年4月
著者:ひとひら




