6.匙浜花
【本日最後になります】
完全な油断。
今の状況はまさにその言葉が相応しい。
ここ居る事にも驚いたけど、あろうことか反射的に返事までしまった。
出来れば避けたいと思っていたものの、こうしていざ目の前にすると逃げ出すという行動すらできない自分が情けない。
そんなの関係なしに、ソファーから立ち上がるあの人。ゆっくりとこちらへ近付く姿に、恐怖に似た感情が蘇る。
(いったい今度は何を言うつもりだ? どうやって俺を嘲笑おうってんだ)
そんな思いのまま、奴の第一声に備えたはずなのに……
「この前はその……すいません」
予想外の言葉に、少し気が緩む。
(……えっ?)
「えっと……この前って……」
「前にお話した時の事です。私その……失礼な事言っちゃって!」
そう言いながら何度も謝る姿に、もしかして本当に勘違いだったのかとも考えたけど、それに被るように浮かんで来たのはあの時の光景。
(いや、これだけで信じるのは良くない。上げて上げて一気に落とす手なのかもしれないし、とりあえず見極めないと)
「そういえば……」
「ごめんなさい。でも私嬉しくって……って違うんです。嬉しいってそういう意味じゃなくて……あぁ日本語って難しいなぁ」
そう言いながら、困ったような表情を浮かべた事には正直驚いた。
「えっと……」
「ちっ、違うんですよ? あの良かったねっていうのも違うんですよ。でも怒らせちゃってどうしようって……姿見掛けたら謝ろうと思ったんです。そしたら目の前に……」
「あっ、謝る?」
「そうです。あぁもう、本当にごめんなさい。良かったねっていうのも、あなたに会えたのが嬉しいってのも嘘じゃないんです! 本当の事なんです。あっ、違う違う! 決してそういう症状だからとかあなたの健康状態を馬鹿にしてるって事じゃなくて……」
人が動揺している姿を見ると自分は冷静になる。誰かがそんな事を言っていたような気がした。
そして、それをまざまざと感じている自分が居る。とにかく、落ち着いてくれないと話もままならない。
どうしたものかと思い、ここは一旦落ち着いてもらう事にした。
「えっと、ちょっと良い?」
「あっ、すいません! うるさいですよね?」
「それはそうだけど、とりあえず落ち着こうよ。君の事全然知らないし」
「そっ、そういえば…………失礼しました。名乗りもせずごめんなさい」
「いや、そこまでかしこまらなくても」
「挨拶は相手の第一印象を図る物差しですから。これだけは譲れません」
その瞬間、表情が一瞬で凛々しくなる。その変り映えには良い意味でゾクッとした。
「改めまして、私は匙浜花と言います。碧乃島高校1年。そして間違っていたらごめんなさい。あなたと同じ……軽度認知障害を患っています」
そう呟くと、さっと鞄から診察券を取り出す彼女。そこに書かれていたのは匙浜花という名前だった。
(はい? ちょっと待て……)
高校生っぽいのは分かっていた。ただ、まさか自分と同じ歳で、俺と同じ軽度認知障害。
そしてここに通ってるという情報は俺を混乱させるには十分過ぎた。
「あっ、いけない! バスの時間。これ逃したら電車に……ごめんなさい。こっちから話し掛けておいてあれなんですけど、お先に失礼します!」
その瞬間、彼女に抱いていた嫌悪的なイメージは少しだけ懐疑的なものへと変わっていた。
「また来週、お話ししましょう?」
そして俺に向かってそう口にした彼女の姿は……本当に来週をするような予感を感じさせるものだった。
「あっ、はい……」
この日、この時、この瞬間。
目の前を走って行く彼女は、正体不明の不気味な人から話の出来るごく普通な女の子に変わった。
次話も宜しくお願いします<(_ _)>