5.恐るべき対面
【本日5話目です】
その姿は正面から見なくても分かる、覚えている。いや、忘れられる訳がない。
とっさにあんな病名を告げられ、驚いていたのは確かだった。ただ、それよりも鮮明に覚えているのは、視線の先に座っているあの人の言葉。
『良かったね』
あの顔に嘘偽りは感じられなかった。本心でそう口にしたに違いない。俺にとってはある意味病気よりも恐怖を感じた人物。
そんな人がなぜ目の前に居るのか、今この場所に居るのか。焦りと疑問が交差し、思わずその場に立ち止まっていた。
すると、あの人が不意に顔を上げた。少し身構えたものの、立ち上がったあの人が向かった先は幸いにも真逆。病室らしき場所が並ぶ廊下の方だった。
胸を撫で下ろすと同時に、視界に入る後ろ姿。制服姿に今どき珍しい膝丈のスカート。そしてまるでCМのようにふわりと舞う長い髪の毛。
ある意味この場に似つ和しくない姿は、見ている分には良いかもしれない。だが、俺は知っていた。あの人の内面、隠された本性を。
そんな背中を少しだけ睨み付ける。
とはいえ、恐らくお見舞いの為に病室へ向かったに違いない。つまり、いつこちらに戻って来るのか分からない状態だった。鉢合わせたらまた何を言われるか分かったものではない。
早足に待合室の椅子に座り込むと、丁度予約の時間通りに名前が呼ばれる。その時の安堵感は計り知れなかった。
そんな状況も相俟ってか、3度目の診察室の中は意外と居心地が良く感じた。
危険と隣り合わせの場所に比べれば、安全が保障されてるだけ気が楽になる。目の前に座り、依然と変わらず優しい雰囲気を醸し出す先生の存在も大きいのかもしれない。ただ、そんな落ち着いた場所だからこそ気付く事がある。そう、俺は今日の今まで先生の名前を知らなかった。
「おはようございます。葵日向君」
促されるままに丸い椅子に座ると、笑みを浮かべて挨拶する先生。
「おはようございます」
なんてそれとなく返事をしたものの、内心焦りを感じていた。
けど、とっさに目に入ったのは先生のネームプレート。そこに書かれた御神本景という名前にご丁寧にフリガナが付いていたのはタイミング的にバッチリだった。
「うんうん。大分落ち着いたみたいだね」
こうして、何気ない世間話から始まった診察。過去2度の診察と、最初こそ同じような感じだったものの……中身は前回、前々回とは全く違っていた。
まずはアルツハイマー病による軽度認知障害の説明。
アルツハイマー病と言うのは認知症の種類の1つで、異常なたんぱく質が脳にたまり神経細胞が無くなっていく事で悪化していくらしい。
そしてその初期段階が軽度認知障害。症状は物忘れといった些細な事が多く、気のせいだと思われがちで……家族がやはりおかしいと思い病院へ行くと既に認知症を発症しているケースが多い。
「こういう病気になってしまったのは良い事じゃない。ただ、10代での症例が少ない中、さらに見過ごされる可能性の高い初期段階で病院へ来れた事は幸運だよ?」
そんな先生の言葉を聞きながら、昨日母さんに聞いた事を改めて思い出す。
『そういえば母さん、なんであの日病院連れてこうって思ったの?』
『ん? いやぁ、単純な話だよ。日向、練習で無理してたでしょ? 帰ってくる時間が段々遅くなってきてたし』
『うっ! それは……』
『どうせ早くスタメンになりたいって焦ってたんじゃない? バレバレだって。それに財布忘れたり寝坊しそうになったりってのは結構増えたなぁってのは感じてたの。でもあの日、日向はサッカーの事忘れてた。今まで海外サッカーの放送日と時間すら詳細に覚えてるアンタがだよ? 流石にね』
『それでか……』
『だから、身体的っていうよりサッカーに関する心理的なストレスが原因じゃないかと思ったんだけどね。まさか本当にそっちに原因があるとは……』
その話を聞くと、最初に心療内科・精神科へ行った事に合点がいった。その後にもの忘れ外来に回された時はさすがに驚いたみたいだけど、結局この病気が判明した事には変わりない。
「なんか良く分からないですね。運が良いのか悪いのか」
思わず零れた本音に、先生は笑顔を浮かべたままだった。そして、暫くすると優しい口調で言葉を返す。
「そうだね。10代でこういう病気になった事も珍しい。早期に受診出来た事も珍しい。更に言えば、ここへ来た事も運が良かったと言えるのかもしれないね」
「ここ……仙宗大学病院ですか?」
先生の話だと、ここ仙宗大学病院には認知症疾患医療センターというものがあるらしい。
認知症に対する診断や対応に相談。それだけでなく行動障害、精神障害や様々な合併症への対処。関係機関との連携を行ういわゆる専門の医療機関。
つまり、1階にある心療内科・精神科やもの忘れ外来もセンターの中に含まれていて、その一端を担っている。最初に診察をしてくれた先生も認知症に対する知識を持っていたらしい。
御神本先生の師匠に当たる人だと聞いて少し納得した。今思えば雰囲気がかなり似ている。
結果として、その師匠の診察で俺は怪しいと判断されここへ回された。そういう点では運が良かったというのもあながち間違いじゃない気がする。
それに聞けば聞く程、母さんには感謝の言葉しか浮かばない。帰りにケーキでも買って……なんて事を考えていると、先生にすぐさま現実へ引き戻される。
「それでね? 葵君。今後の事だけど……」
今後の事、それはつまり治療の事だった。
病気なのだから当たり前なのだが、俺の抱えている病気は風邪なんかとは違って、遅らせる事は出来るけど完治させる事は出来ない。つまりこれから死ぬまで、治療を続け、通院しなければいけないものだ。
今後、一体どんな事をしなければいけないのか少し緊張したけど、服薬を除くと……規則正しい生活を送るというものだった。
まず運動。これはサッカーをしているから問題ないと思いたかったが、先生からしてみれば悩ましい事だそうだ。
その原因はフィジカルコンタクトとヘディングが避けられない競技だという事。特にヘディングに関しては推奨できる行為ではないのだが、サッカーが出来ないストレスとヘディングの影響を考えた結果、なんとか先生の許可が下りた。
次にバランスの良い食事。これも好き嫌いがない以上大した問題はない。
睡眠は今でも比較的取れている方だし問題ない。ただ居残り練習に関しては、先生の言葉が一瞬濁った辺り……やめた方が良いんだろう。
そして最後に受診の頻度。
一般的な人は初めの数回は1週間程度を目安に来てもらい、症状に合わせて1ヶ月から2か月の間隔で受診をしてもらっているそうだ。けど、どうやら俺にはその考えは通用しないらしい。
やはり年が若いとその進行の速度も早いというのは有り得るそうで、出来るだけ頻繁に様子を見たい。出来れば1週間に1度……それが先生の希望だった。
その事については少し悩んだ。その頻度もそうだけど、何より受診する曜日をいつにするか。なるべく練習に穴を開けたくはなかったものの、同時によぎる進行が早いという言葉。
頭の中で自分の病気とサッカーそれを天秤にかける。それはそれは慎重に。
そして出した結論は……
「分かりました。じゃあ毎週土曜日の午前中に受診します」
土曜日なら練習時間も平日に比べれば長い。だから午前中に受診できれば、サッカーへの支障は少ない。勿論居残りや無理はしないのを前提とした事ではあったけど、それが自分で考えた結果だった。
「そうか。ありがとう」
「いえ」
そういって頭を下げる先生。本当は俺の方が頭を下げないといけないのに、そんな姿を見せられたら覚悟を決めるしかなかった。
「最後に1つ。葵君? 僕は君より認知症の症状や治療法といった知識を持っているし、理解も出来てるよ。でもね、君の気持ちまでは分からないんだ。それに関しては君が1番理解してるはず。だからね? 受診の時でも良い。平日ふっと電話してくれてもいい。君が思っている事や、言いたい事……いつでも好きなだけ話してくれないか?」
「……はっ、はい。ちょっとまだ恥ずかしいですけど」
こうして診察を終えた俺は、先生に一礼をして診察室を後にする。
そして外来受付で診察券を受け取ると、1階のロビーへと足を運んだ。
基本的に土曜日の午前中までは診察を受け入れているらしいが、受付が休みとあって診察受付も会計も全て機械で行なうらしい。流石は市内でも大きい病院だ。ハイテクなシステムを導入している。
そんな病院への通院生活が始まる。少ししか変化はないが、その変化は自分にとってはとんでもなく大きく感じた。
それに自分では覚悟を決めたつもりだけど、心の奥底ではまだフラフラと彷徨い続けている気がしてならなかった。
(しっかりしろ。これしか方法がないなら、縋るしか方法はない)
なんて自分自身に言い聞かせながら自動会計機にお金を入れ、出てきたお釣りを財布にしまうと、
「よっし。頑張ろう」
そうつぶやいた時だった。
「あっ!」
突然の声に反射的に顔を上げた俺。そしてその視界に入ったのは、ロビーのソファーに座る……あの人の姿だった。
「はっ……」
その瞬間、足が震える。頭が真っ白になる。
(嘘だろ?)
「あっ、あの!」
「はっ、はい!?」
(なんでこんなところに居るんだよ!)
次話も宜しくお願いします<(_ _)>