3.心に染みる
【本日3話目です】
眼球の中に入り込む白い光。俺がそれに気が付いた理由は良く分からない。
もしかすると眠っていたのかもしれないし、気を失っていたのかもしれない。それすら良くは分からなかった。
もしかするとカーテンすら閉めてない窓から、毎日外を眺めていたのかもしれない。それすら記憶にはなかった。
ただ、それは物凄く懐かしく感じた。少し顔を上げただけで、頭の重みと背骨の痛みを感じるくらいに。
些細な動きで痛みを感じる。自分はいったいどれ程の時間をこうして過ごしていたんだろう。
そんな疑問に、思わず自分の体に視線を向ける。窓から降り注ぐ月明かりのおかげで、それはハッキリと見えたけど、少なくともその優しい光と対極的なのは事実だった。
皮が剥けて、血の滲んだ手の甲。
まるでぼろ雑巾のようなそれを見ても、そこまで驚きはしなかった。
(……あぁ、そうだ)
『なんで俺が?』
『なんで? 高校生だぞ?』
『そんな奇跡的な確率に……なぜ選ばれた』
そんな怒りに任せて、喉が千切れそうになる程叫んだ。
抑えきれないくらい、何度も何度も部屋の壁を殴った。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
唇が痛い。喉が痛い。胃がキュルキュル鳴って食べ物を欲してる。
(……あぁ、そうだ)
物を食べないようにした。昨日何を食べたのか、メニューは何だったのか。それを答えられなくなるのが怖くて、ご飯を食べるのを止めた。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
自分の横に裏返しに置かれたスマホ。電源ボタンを押してみたけど、画面は真っ暗なまま。
(……あぁ、そうだ)
皆のメッセージが辛くて、いつも通りに反応できる気力がない。だから裏返しにしたまま放置していた。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
頭が重い、頭が痛い。視線が定まらない。長い時間目を開けていられない。
(……あぁ、そうだ)
寝ないように我慢していた。目覚めた瞬間に何かの記憶を忘れてる。それが異様に恐く感じて、寝ないようにしてたんだ。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
伸び切った足を曲げようとしても、思うように力が入らない。膝が何かで固められているようで、無理矢理力を入れるとパキッパキッと軽い音を弾ませる。
(……あぁ、そうだ)
寝ない為に出来るだけ座っていようと考えた。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
ガチャ
朧げな意識の中、部屋のドアが開く音が耳に入った。
「日向」
「日向……」
聞こえて来たのは、父さんと母さんの声。それは久しぶりに聞いた声のように感じる。
けど、なぜかボロボロの右手は握りこぶしを作っていた。そしてどこからか沸き上がるのは怒りにも似た感情。
『日向、いいか? ……大丈夫だ』
『そうだよ。辛いのは分かる。けど先生、ちゃんと病院通えばきっと……』
大丈夫? 何が?
辛いのは分かる? なぜ?
ちゃんと病院通えばきっと? きっとなんだよ?
俺の気持ちも分からないくせに、何を根拠にそんな事を言ってやがる。
『ふざけんな!』
そのまま部屋を追い出した。
そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。
そして蘇る怒り。
「なんだよ。何しに来やがった」
「ひっ、日向。明日……病院だよ?」
「病院? 行って何になる。どうせ俺は全部記憶無くして、すぐにボケた爺さんみたいになるんだよ」
「そっ、そんな事……」
「日向!」
「そんな事? 俺の病気は治らねぇんだよ! しかも俺みたいに若い奴の進行は早いらしいな。知ってるぞ。調べればなんだってすぐ出てくるんだよ」
「違う……」
「何が違うんだよ!」
「日向。ここ1週間、出来ればお前の望むように過ごさせたかった。けど甘かった。すぐにでもまた病院へ連れて行けばよかった」
「甘い? 良いような事口にしてたくせに甘いだって? 何言ってんだ」
「力ずくでも、明日は病院に連れて行く。その為にご飯を食べろ。風呂にも入れ。そして明日一緒に……」
「うるせえ!!」
その度重なる言葉に我慢は限界だった。その瞬間抱いた感情は、生まれて初めてのものに違いない。
(ぶん殴ってやる)
そんな怒りに支配されたまま、立ち上がって拳を振り上げた。だが、そんな気持ちに体はついて行かない。
足元はふらつき、踏ん張る事さえ出来ず、体は流されるまま。
それに今まで人を殴った事のない自分が、突然要領を得る訳がない。大振りな腕とその勢いに負ける体。尋常じゃないほどゆっくりとした動き。
そんなものを躱すのは余裕だったんだろう。俺を見る父さんの目は悲しげだった。
俺はそんな顔すら憎くて仕方なかった。だから思いっきり、力の限りに腕を振る。だが、それが父さんに届く事はなかった。
豪快に空振り、その反動を支えきれない俺は無様に前のめりになる。
(あぁ、このまま床に倒れるんだ。ダサいな)
そんな事を考えていた時、崩れていたはずの体が止まった。そして顔に、胸に、腕に感じる硬くて温かい体温。目の前には大きく、ごつごつとした父さんの……肩と背中が広がっていた。
「日向……ごめんな……」
優しく包み込むような父さんの声が耳に響く。そして不意に右手が温かくなったかと思うと、
「こんなになるまで……ごめんね……ごめんね……日向」
震えるような母さんの声が頭に届く。
(ご……めん? ごめん?)
その瞬間、今まで心の中に渦巻いていた色んな感情が、ふっと消えたような気がした。そして不意に頭に浮かんで来たのは、
(ごめん? なんで父さん達が謝るんだ。謝る? 何か悪い事でもしたのか)
そんな疑問だった。
父さんや母さんは別に怒られるような事は言ってない。そもそもなんで自分はあんなにも怒りを表していたのだろう。自分が病気だからなのか。
(だとしたら、ただの八つ当たりじゃないか)
病気になったのは誰が悪いのだろう。少なくとも母さん達のせいじゃない。それなのに話も聞かずに気に入らない事から逃げてた。怖くて不安で、それを隠す為に当たり散らしてた。
そして挙句の果てに今まで見た事のない姿にしてしまう程、2人を追い詰めていた。
自分の事なのに自分から逃げてた。
自分自身が人のせいにして、病気から逃げていた事への恥ずかしさ。知らず知らずの内に2人を、家族を傷付けていたという後悔。
それを理解した瞬間、涙が頬を伝う。そしてまるで必死に口を閉めていた蛇口が一気に壊れたかのように、止まる事を知らなかった。
顔が熱い。
だけど気持ちが良い。
目が痒くなる。
だけどどこか清々しい。
そんな2つの感情に包まれながら、俺は無意識に口を開いていた。
乾き切ってて、掠れてたかもしれない。でも、それは何よりも大事なものだった。
「父さん……母さん……ごめん」
次話も宜しくお願いします<(_ _)>