11.青天霹靂
時間というものは実に呆気なく過ぎ去る。
不意にそんな事が頭に浮かんだのは、なんて事の無い土曜日の朝だった。バスの窓から差し込む日の光がどこか優しくて、その温かさが懐かしく感じる。
ついこの間までは冷たい風が襲い掛かり、真っ白い雪が道路を覆って行く手を阻む。
そんな辛さをまざまざと感じていたはずなのに……通り過ぎる景色にその面影は見られない。
ましてや時折目に付く桜の木。そのピンクの花びらの間から姿を見せる緑色の葉っぱを目にする度に、それが現実のものだと実感する。
当たり前の高校生活。
当たり前の部活動。
当たり前の……通院。
まぁ、良く思い出してみれば何もなかった訳でもない。
3月には先輩達との別れがあったが、近くの大学に進学する先輩が多かった。悲しいと言うより、むしろ感謝の気持ちの方が強かった気がする。
4月には新しいクラス分け。ただ、その半分以上は1年の時と同じクラスの奴らで担任も遊馬先生。3年生ではクラス分けがないから卒業までメンバーは変わる事がない。まるっきり新しいクラスって訳でもないし、さほど気にはならなかった。
部活の方も新1年生の加入で嬉しい反面、ポジション争いの火花が散らされている。けど、そんな雰囲気も嫌いじゃない。
そして俺は今日もバスに揺られて仙宗大学病院へ向かっている。
この長い坂道を越えると、もはや目の前に見えるはず。毎週土曜日の通院もかれこれ数十回にはのぼるだろうか、その道中は通学路の次に見慣れた気さえする。
こうして時間通りに病院へ到着すると、特に意識をせずとも体が動き出す。最短距離で自動受付機へ向かい診察券を挿入。受付票を取って、もの忘れ外来へ。
通りすがりの看護師さん達に挨拶出来るくらいに顔も覚えた。そしてごく普通にフロアに足を踏み入れ、当たり前のように、
「おはよう~。葵君」
「おはよう。匙浜さん」
匙浜さんと挨拶を交わし隣に座る。そしていつも通り……何気ない会話が始まった。
匙浜さんとはあのクリスマスプレゼントのお礼をきっかけに、日常的にメッセージのやり取りをする機会が多くなった。
お返しにアロマセットを送った時には、匙浜さんからのメッセージに嬉しくなったのを覚えている。
何気ない挨拶からその日の様子。気が付けば本当に何気ない出来事なんかも教え合う。最初はどこか遠慮しがちだったけど、徐々に自分の話をする事にも慣れていった。
結果的にに今まで以上に匙浜さんとの関係は良くなったと思う。
バレンタインやホワイトデーといった今までどこか縁遠かった行事に足を踏み入れられたのはそのおかげだろうか。
クラス全体の仲が良いという事で、思いの他クラスの女子達から義理チョコを貰えた事にも驚いたが、匙浜さんから貰ったチョコはどこか違った物のように感じられた。
お返しもその通りで、クラスの女子達には悪いのだが、匙浜さんへのお返しは選ぶのに結構時間をかけてしまった。
「葵さん~」
「っと、じゃあ診察行ってくるよ」
「は~い。いってらっしゃい」
こうして名前を呼ばれると診察室へ。すると御神本先生がいつもの様に待っていてくれた。
「こんにちは、葵君」
「こんにちは。先生」
挨拶を交わし椅子に座ると、先生はまず俺の顔色を少し眺める。
これもまた診察においていつも通りの流れだ。
「うん。順調そうだね。それで何か気になる事とかあるかな?」
とは言われても、特に思い当たる事はない。高校生活は順調で、部活でも新人戦からスタメンを確保できている。ストレスというストレスも感じていない。
「特にないですかね? 自主練もほどほどにしてますよ?」
「それなら良かった。じゃあ、今日の診察はオーケーだよ。でも、何かあったらいつでも連絡してね?」
「分かりました。ありがとうございます」
「はい。じゃあまた来週ね?」
こうして診察が終われば、後はもはや慣れたものだ。
1階のロビーに差し掛かると、いつもの席に匙浜さんが座っている。
出会った当初から1本遅いバスで帰るようになったおかげで、時間的には30分位だろうか。その間にお互いの話をするのが、いつからか当たり前のようになっていた。
30分。
長いようで短い……そんな時間を今まで何度も繰り返す中で、匙浜さんの色々な事を知ったし、俺の事も色々話した。
そして必ず1週間の出来事をお互いに話す事が当然のようになっている。まるで宿題のように、記憶が消えていない事を確認するかのように。
こうして今日も例外ではなく、その何気ない会話は始まる。
「そういえば葵君は桜まつり行った?」
「桜まつり……いや、行ってないな」
「そうなの? 今年も綺麗だったよ」
「そうか……言われてみればここ数年行ってないな」
「ここ数年!? もしかして部活忙しくて?」
「……基本的にサッカーの事しか考えてないのかも」
「なるほどなるほど……」
なんて話していると、匙浜さんが徐に鞄の中から手帳を取り出して何やら書き始める。そんな行動も最初は驚いたけど、慣れればどうって事はない。それにこの行動こそ、彼女なりの症状との付き合い方の1つでもある。
その証拠に、横目にチラっと見えた1ページは、相変わらず文字でビッチリ埋め尽くされていた。
匙浜さんは、自分が見た事や聞いた事。その全てを忘れないようにメモしてる。
服薬や健康的な毎日を過ごすだけじゃない。もしもの為に記録する。それが匙浜さんなりの付き合い方だそうだ。
俺も大事な事を手帳に書き留めたり、スマホに残したりしていたけど、彼女のそれは自分の想像を遥かに超えるものだった。
そのメモを見ながら、毎日の日記も欠かさず書く。
そして朝起きたら手帳と一緒に読み返す。
それを毎朝、毎日繰り返す。
そう……数えるだけで3年近く。
忘れるのが怖い。それに皆に心配させたくない。保険の保険を掛けたい臆病者なんだと匙浜さんは自分を卑下していたけど、そうとは思えなかった。
そして何より、
『でもね? どうせなら今日の自分はこれだけ色々な事を知れて、幸せな1日を過ごしたんだよ? って明日の自分に自慢したいじゃない。そしてそんな日記を読み返して、だったら今日はもっと色んな事知って、昨日よりも幸せな1日にしてみせるって思えたら……その日がもっと楽しくならないかな?』
その言葉を聞いた瞬間、俺にとって匙浜さんは、同じ症状で悩む仲間ではなく、憧れであり見習わなければいけない……尊敬の対象へと変わっていた。
それから俺も日記をつけるようになった。
なるべく手帳を持ち歩いてメモを取るようになった。
けど改めて匙浜さんの手帳を見ると……そのレベルの違いを思い知らされる。
「あのね葵君?」
なんてしみじみ考えていると、俺の情報を書き終えたであろう匙浜さんから不意に声を掛けられた。
「なに?」
「私ね、葵君と知り合う前はそこまでサッカーって詳しくなかったんだ」
「まぁ興味ない人は興味ないだろうし。仕方ないよ」
「でもね? サッカーの話してる葵君、凄く楽しそうだし……そこまで葵君を夢中にさせるスポーツとは? って事で色々とルールとか勉強してみたの」
「べっ、勉強? いや、わざわざそんな……」
「そうしたらね? オフサイドとかなかなか複雑なルールもあって、面白いなって思うようになって」
「面白い……?」
「そうそう。それで……確か葵君、明日練習試合あるって言ってたよね?」
(確か先週辺りに言った気はする)
「天気次第だけど、その予定だよ?」
「本とか映像で見るより、やっぱり生で見た方が良いと思うんだ」
「ん? 生?」
「だからね? 葵君……見に行っても良いかな?」
「えっ? それって……」
初めて話をしてから数ヶ月。それなりに仲も良くはなったはずだった。でもそれはあくまで病院の中での話。仙宗市と石島市。距離も離れた場所に住む同士、病院以外ではその接点はまるでない。
だからこそ、俺が焦るのも無理はない。なぜなら、匙浜さんの言う事が想像通りなら……
「その練習試合。私、見に行ってもいい?」
「えっ……えぇ!?」
つまりは……俺と匙浜さんが、病院以外で初めて会う。
そういう事なのだから。
次話も宜しくお願いします<(_ _)>




