お兄ちゃんって呼んでほしい
「――これでもう、ずっと一緒だね……」
誰かの声がした。
赤黒く塗り潰れた世界で、その声だけがずっと耳に残っていた。
身体が動かない。意地汚く冷えたカップラーメンを食べたのが今頃効いてきたのか。ちゃんと片付けておけばこんなことにはならなかったんだろうな。今更考えても仕方ない。それにしても何だろうか、上に乗っているのは。布団じゃないな。布団はこんなに濡れてないし。
ああ、腹が冷たい――
「――がっ!? イダダダダッ!」
ドリルで抉るような痛みが胃袋を襲った。
頭の中が真っ暗になり、視界がぐにゃりと歪む。
呻きながら地面を転げ回る俺。息を吸おうとしても、痛みでまともに呼吸すらできない。
「大丈夫!?」
焦る声が耳に入るが、そんなこと尋ねる前に今すぐ救急車を呼んでくれ。
必死に声を出そうとするが、腹の痛みが口を歪めて声にならない。
「案ずるな、すぐに治まる」
冷静すぎる声がどこかから響く。
――ふざけんな。こんな痛みがすぐ落ち着くわけねえだろうが!
そう思っていたのだが……本当にものの一、二分で痛みがすっかり消えてしまった。まるで悪い夢でも見ていたかのようだ。
「そうだ! 夢だっ!」
慌てて起き上がり股間に手をやるも、そこに感触は無かった。
どうやらこの程度の痛みで悪夢は冷めないらしい。仕方ない。こうなったら夢の中でふて寝だ。ちゃんと目が覚めるまでふて寝してやる。
「……しかし、可哀想に」
そんな俺に追い討ちをかけるように、どこか同情を含んだ声が聞こえた。
憐憫の声を漏らしたのは金髪のポニーテール女子だった。
「こんな可憐な少女が……、本当に頭がパーになってしまったのだな……」
「……ん?」
「こればかりは儂の力ではどうにもならんのでな、こんな娘でも良い貰い手が見つかれば良いのだが」
「……ちょい待ち」
ふて寝どころではなくなり、俺は飛び起きた。
どうも聞き捨てならない言葉がちらほら聞こえてきやがった。
「誰の頭がパーだって」
「どうやら先程の衝撃でまた記憶が飛んでしまったようじゃな」
仕方なさそうに言うのは自称神の変人だ。
「お主は魔術の実験中に起きた事故で記憶を失ってしまったんじゃ。それだけならよかったものの、性格まですっかり猿の様になってしまってな。そこで儂が責任持ってお主と一緒に嫁ぎ先探しの旅をしとるわけじゃ。無謀にもアルミラージに突撃してしまうなんて、まさか神でも思うまい」
そう言って大仰しく目頭を押さえて不幸を嘆くフリをする。
誰が猿だ。俺が知ってる情報がアルミラージしか含まれてないじゃねえか。
「私もびっくりしたよ、女の子があんな棒きれ一本で立ち向かうなんて。けど魔物の記憶さえも無くなってたんなんて――」
「違う、そいつは嘘を言っている! とんだ嘘つきだ!」
「ユエちゃん、お師匠様にそういう言葉遣いは良くないぞ」
ポニーテール女子はこちらの顔を覗き込むように言う。ふむ、泥と傷で汚れちゃいるが中々の美人じゃないか。何よりどこぞの神と違って俺を労ってくれる優しさがある。
――じゃなくて。
「誰がユエちゃんだって」
「まさか、自分の名前も忘れてしまってるのか?」
「いや――」
「こりゃ重症じゃな。近くの町まで無事に辿り着けるかどうか」
頭がパーになったなんてトンデモ設定のせいで質問の余地を奪われてしまったが、どうやら俺は今後ユエを名乗らなければならんらしい。
いつの間にそんなところまで設定が練られてるんだよ。この自称神、実は漫画の神様でしたとかそんなオチじゃなかろうな。
「そういうことであれば私が町まで同行しよう」
ポニーテール女子が護衛を立候補した。
そうだ、名前と言うなら彼女の名前を聞いてないじゃないか。
「ああ、そうか。そう言えば自己紹介がまだだったな」
ポニーテール女子は立ち上がると、恭しく――それが礼儀であるとばかりに胸に手を当てた。
「私はエリック。気軽にお兄ちゃんと呼んでくれ」
驚きのあまりに声を失った。
ポニーテール女子だと思ってた美女が男だって?
そんなはずはない。心の中のアンテナはエリックを完全に女だと判定している。視覚も嗅覚も、声だって低くはあるが間違いなく女のそれだ。
それとも、俺が女になったせいで狂ったとでもいうのか。
これは確かめてみるしかあるまい。
「なぁエリック」
「なんだい、ユエちゃん」
「ちょっと胸を揉ませて――」
言い終える前に自称神に鞄を投げつけられた。
「馬鹿な事を言える余裕があるなら自分の荷物は自分で持て」
どうやら女の身体を有効利用するためには、どうにかしてこいつの目から逃れなければならないらしい。
このままでは公衆浴場だって使うのに制限をかけられそうだ。
そもそもいつから同行する話になってたのか。俺はそんなの一ミリだって聞いてないんだが。
エリックの手を借り、俺が立ち上がるのを見計らって自称神は言った。
「さてエリック、護衛を頼めるか。依頼料については――」
「やめてくださいマヤ殿。依頼料だなんて受け取れません」
エリックは断りながら何故かこちらを一瞥し、言葉を遮った。
どうやら自称神はマヤなんて名乗ったらしい。ユエにマヤ、どういうネーミングなんだか。
「一緒に町に帰るだけで護衛なんて言ったら笑われてしまいます」
「そんな格好つけてないで貰えばいいじゃないか。減るもんじゃないんだし」
俺が言うとエリックは「別に格好つけてるわけじゃないよ」と返した。
「じゃあどうして」
「あーいや……。えっとね――」
エリックは困ったような顔をした後、俺の耳元へ顔を寄せてきた。
なんだろう、この胸の高鳴りは。やっぱり女なんじゃないか。
「――君のお財布から出させると思うよ? 君のお師匠さん」
「…………」
胸の高鳴りを返してほしい現実的な一言だった。
確かにそうだ。この悪魔なら絶対にそう言う。
エリック、初対面の俺の財布を心配してくれるなんてお前は良い奴だよ。俺の財布なんてどこにあるか知らんけど。
「今日はこちらの顔繋ぎということでお願いします」
「そこまで言われては、こちらも無理に押し付けるわけにはいかんな」
「というわけだ、ユエちゃん」
エリックは皮手袋を脱ぐと、愛嬌があるが、しかし変な引っ掛かりを覚える表情でこちらに左手を伸ばした。金を寄越せという顔ではないのは分かる。
意味が分からず首を傾げているとエリックは、
「ほら、はぐれない様にお兄ちゃんと手を繋いで」
と言った。
引っ掛かりの正体が見えた気がする。
「エリック、お前いくつだ?」
「年齢? 今年で17だけど」
「俺と同い年じゃねえか!」
同い年に子ども扱いされてたのか俺は。
女みたいに可愛い顔してるからって、いつまでも優しくすると思ったら大間違いだぞ。男に優しくする筋合いなんて微塵も無いんだからな!
なんて思っていたのだが。
「お主はまだ12じゃ」
……誰が言ったのかなんて最早言うまでもあるまい。
性別だけじゃなくて歳も違うのかよ。これじゃあ、やりにくくてしょうがない。
が、裏を返せば多少の事はガキのしでかしたことで目を瞑ってもらえる可能性があるわけだ。この性悪の自称神様さえどうにかできれば、と言う条件付きだが。
このままエリックと繋ぐ繋がぬの論争を続けても不毛なので、素直にエリックの差し出した手を握った。
「町まではそんなに遠くないけど、疲れた時は素直にお兄ちゃんに言うんだよ」
エリックの言う「お兄ちゃん」という言葉が、妙に鼻についた。
それにしても。
こちらの世界では12歳でも手を繋ぐのが普通なんだろうか。