丸石問答
二輪免許取得後、初の長距離ドライブとして、昔一時住んでいた山梨までツーリングをした際、再び丸石道祖神の招きにあいましたので、少しく丸石に因む昔話をいたします。
古く秩父往還と呼ばれた国道140号を過ぎ、雁坂トンネルを越えて釜無川の辺りまで来ますと、ぽつぽつと路傍の随所に丸石を積み上げた小塔が現れます。数個の丸石が不規則に配置され、鏡餅を乱雑に崩したような外形はとかく印象的であり、大概の人は意図せず二度見してしまうことと思いますが、あの辺りは見通しの良い一本道なので、丸石を見ぬまま通り過ぎてしまう者も多いかもしれません。それに、いまや辻に立つ馬頭観音や一里塚に気づく者さえ、百に一つあればましな方ですから、運よく視界に入ったとて認知すらされないのが関の山かとも思います。
文献やネットの情報によりますと、あの奇妙な丸石は道祖神の一種ということになっているようです。写真を見返すと確かに、写真の端に映った丸石近くの碑に「丸石道祖神」と彫られています。ちなみに、丸石を積み上げた小塔だけに限らず、1メートルほどの巨大な丸石を台座に載せたような形の物も存在するようです。
この丸石道祖神は山梨の全域、とりわけ北部に多く存在しますが、他県ですと近隣の群馬と長野の一部に点在するくらいで、その二県を除いては殆ど全く分布していなかったと、おぼろげながら郷土史家の資料にそのような記載があったかと思います。
このように非常に謎多き丸石ですが、出自も分からず、また分岐や派生もない極めてローカルな物ですので研究記録も殆ど存在せず、好事家の郷土史家に頼る他ないといった状況です。
(しかしながら、この唯一といってもよい好事家の郷土史家というのが、日本中世史の泰斗である網野善彦氏の義兄であり、文化人類学者として異彩を放つ中沢新一氏の父であったりもします。)
道祖神とはいうものの、一般的な双体の道祖神や、秋田などの東北の一部で見られるような藁の巨体道祖神、性器を象った陰陽石の道祖神に比べると、象徴性に欠けたシルエットであることは一目瞭然です。悪疫を防ぐような形をしているのでもなく、かといって境の神によく見られる性的な偶像というわけでもありません。また、奇妙な石ということで、小夜の中山ではありませんが、石が夜に泣くといった話や、石の前を通ると躓くといった話が合ってもよさそうなのですが、甲斐地方の民話や伝承にも全く集録されていないようでした。
(ちなみに、洒落怖の「ウヅガアさん」という話においては丸石の屋敷神が登場しますが、夜泣き石的な性質を多分に漂わせています。誕生して僅かのインターネットでさえ丸石に因む怪談話が出ているのですから、少なくともその何十倍もの歴史の中で、民話や伝承があってもおかしくはないはずなのですが。)
他方、あのシンプルな形から窺える通り、丸石の歴史は古く、平安後期の信貴山縁起絵巻にも描かれていたようで、八ヶ岳の麓にて石棒と共に出土したという記録もあります。とすれば、その起源は縄文文化まで遡れるかとも思われます。
というわけで、漠然と通っている小学校を離れたいという思いから、転勤で家を離れる父に引っ付いて2年を山梨で過ごした私ですが、やはり忘れ得ぬものというのは、有象無象との社交というよりは、あの奇妙な丸石であったりするのです。
その当時も、地元の深谷から父の運転する車に揺られながら同じ道を通って山梨へ入ったわけですが、後部座席に毛布を敷き、千と千尋の冒頭のシーンのように膝を屈めて仰向けになり、カーステレオ越しに流れる流行りの歌を歌っていた覚えがあります。
休憩所として立ち寄った三峯神社を出た辺りでひと眠りをして、栃本の関所跡付近で眼を覚ましてからは、運転に勤しむ父の後ろで、頭よりも高い位置にある車の窓から澄んだ青空と、時折過る大木立とを眺めつつ、悠々と唇の端に付いたみそポテトのタレを舐めていたかと思いますが、長く暗い雁坂トンネルに入った時、急に窓外の景色が心もとなくなりましたので、何事かと上体を起こして、しばらく車窓に頬を糊付けて様子を窺うと、再び青空が見え出して幾時か経った頃に、路傍にぽつぽつとあの奇妙な丸石が現れ始めたのでした。
初めは山奥の田舎の習俗かなどと思っておりましたが石和はともかく、甲府の路傍にもありましたから、都鄙に関わらず点在しているものなのだと一人合点しました。
転校してから暫くは、あの奇妙な丸石も日常の風景の中にすっかり溶け込み、丸石の存在理由などは全く気にもならなくなったのですが、年の瀬の辺りですか、丸石の四方一帯に注連縄が張られておりまして、そのうえ真榊もありましたから、そこで初めてこの丸石が神様であったと気がつきました。
路傍の石から神への認知の変化に併せ、いくつもの疑問が徐々に沸き立ちました。というのは、もしこの丸石が神様であるのなら、なぜ風雨を凌ぐ屋根がついていないのか、また何故丸いのか等。何度か同級生や担任にも尋ねてみましたが、答える者はいませんでした。
丸石道祖神について、私の質問を聞いた時の担任のきょとんとした顔が今でも鮮明に思い浮かびます。誰も隠し事をしているわけでもなく、純粋にあの丸石が何か分からなかったのでしょう。そもそも、彼らにとっては日常の一部を構成している余りにも当然の存在であるが故に、何かしらの疑問を思い起こすこともなかったのだと思われます。そのような環境下にあって、丸石はまたも私の日常の中へと溶け込んできましたが、錯覚を振り払うかの如く、幸いにも二度ほどその正体について伺い知る機会に恵まれました。
一度は同級生の家へ遊びに行った時でした。トイレを借りに廊下を歩いていたところ、居間の二つ隣の和室で三つにも満たないような子供が心地よさそうに眠っておりましたが、よく見ますとその右手には、あの奇妙な丸石がしっかりと握られていたのです。用も足さないまま駆け戻り、同級生にそのことを問うと、「そりゃそう。」という淡白すぎる答が返ってきました。その地域では、子供が生まれると丸石神の一つを屋敷神として迎え、祠に祀るらしく、その子供が生まれて3つにならないくらいの間、どこから持ってきたかあの丸石を我が子のように携えているそうです。また、その同級生は記憶になかったようですが、彼女の母親が言うに、その同級生も幼時は丸石を握って眠っていたそうです。
発達心理学や児童心理学に、移行対象という概念があります。移行期と呼ばれる1~3歳頃に、肌身離さず持っている物で不安を感じた際に抱きしめたり握り締めたりする愛着対象のことを指します。
具体的には毛布やぬいぐるみ等のことで、子供がぬいぐるみの耳や足を吸ったり噛んだりするのは日常よくある光景として、多くの人にとって容易に思い浮かぶのではないでしょうか。
ウィキペディアからの借用で申し訳ないのですが、提唱者のウィニコットによると、こうした対象は乳幼児が「自分は万能ではない」という現実を受け入れていく過程を橋渡しし、母子未分化な状態から分化した状態への「移行」を促すものであるそうです。ちなみに、子供は移行対象を自身で選択するそうで、母親が常に子供から離れないような文化圏では、子供は移行対象を持ちにくいという研究もあるようです。
長々と移行対象について述べましたが、畢竟この地域においては、あの丸石が移行対象となっているらしいということです。その後、日暮れが近づいたので、帰る前にもう一度眠る幼児を見たいと懇願しまして、同級生と二人で深く眠っている末弟を見ておりましたが、丸石と幼児を凝視する私の横で、彼女がさりげなく、こう呟きました。
「ひまわり学級にいるKちゃん、捨てても捨てても戻ってくるから気味が悪いし、呑み込むと危ないからって昔、Kちゃんのお母さんが川に投げ捨てちゃったんだって。」
子供ながらに、同級生の呟きにドキリとしたのを覚えています。事実、Kちゃんの母親が千葉から移り住み、Kちゃんの生後間もなく寡婦となったと知ったのは小学校の卒業式の時でした。
二度目は、隣家の老人が亡くなる直前のことでした。私が住んでいた家宅の隣には古民家があり、浮嶋さん(仮)という老人が独りで住んでおりました。時折、庭で生っている柿や蜜柑を配りに来てくれて、父と私と三人で共に柿を食べたこともある馴染みのご近所さんだったのですが、徐々に訪れる頻度が減りだし、浮嶋さんはお元気だろうかなどと父と心配をしていたのもつかの間、春が近づく頃には身も細くなっていき、気づけば危篤患者のような姿となっていました。
ある日、微熱により仕方なしに留守を預かることとなりまして、二階の自室からぼんやりと窓外を眺めておりますと、広々とした庭の外れにある屋敷墓へと歩く浮嶋さんの姿を捉えました。
(柿の収穫などで何度か庭に入れてもらっていたので、広々とした庭のどこに何があるのかは大方把握できておりました。)
子供の頃は何分視力も人より良かったので、じっと浮嶋さんを見ていますと、屋敷墓に何かを供えているらしいことは分かったのですが、何を供えているかまでは見えません。また、遠目ながら頷いたり、首を傾げるようにも見えました。浮嶋さんとは長らく話をしていなかったものですから、窓を開け、寒風忍び入る中を何度か手を振りつつ呼びかけたのですが、老境をとうに越えて耳も遠くなって久しいのでしょう、あるいは私の声が甲高かったか、掛け声は穏やかな東風にかき消されてしまいました。
その一週間後くらいのこと、下校中に浮嶋さんの家の前を通りかかった時、ちょうど棺桶が玄関から外へと運ばれるところに出くわしました。浮嶋さんの面影を残した還暦ほどの老夫が玄関に居りましたので事情を尋ねると、やはり浮嶋さんが亡くなったとのことでした。その老夫は浮嶋さんの次男でありましたが、浮嶋さんが亡くなる二日前に、浮嶋さん本人から、「明後日に世を去るから葬儀の手配を頼む。」と連絡があったそうです。私にはどうも、あの屋敷墓が関係しているようにしか思えませんでした。
その翌日、老夫が葬式に出ていた折を見計らって、空き家となった隣家の庭に足を踏み入れ屋敷墓まで歩いてみると、そこに供えられていたのは、五円玉のような硬貨が六つと例の奇妙な丸石でした。浮嶋さんはあの丸石をどこで手に入れたのでしょう。往路では気が付きませんでしたが、北東の方角にある屋敷神の祠の戸が僅かに開いていたのを覚えています。
結局のところ、あの丸石というのは、情緒が安定すれば離れていき、死が近づけば冥府への水先案内人となるような、精神における臍の緒や、カラザに似たような性質のものなのかと思います。少なくとも甲斐地方においては、人間の一生と共にあり、人の一部と呼んでも異論を挟む者はいないでしょう。
あの丸石は一体何か。また、あの丸石が何を模していたのかについては今となってもなお答えを出せていないのですが、15年近く前の昔日、水面の凍ったビオトープの中に蛙卵を見つけた時、何となくこれは丸石道祖神ではないかと閃いた記憶があります。仮に丸石が卵であるならば、楕円である鳥類は外れ、両生類か爬虫類か魚類の辺りになりますが、八ヶ岳の麓では縄文の時代から、境界の神として白蛇が信仰されてきましたから、あれは蛇の卵なのではないかと、愚考を巡らす次第です。
浮嶋さんの屋敷墓に供えられていた丸石は六文銭に先んじて、三日も経たぬうちに姿を消しました。あの丸石は、甲斐の人々の眼にどのように映っていたのでしょうか。生憎、それを知る術は私にはありません。




