通学路に現れた紙芝居屋の水飴
何気ない日常が変わってしまうのに、前触れがあるとは必ずしも限らない。
この厳然たる事実を思い知らされたのは、小学三年生の秋の日の事だったんだ。
その日も僕は、同じクラスの田中君と一緒に下校していたんだ。
小太りの食いしん坊な田中君は、見かけ通りの大らかでノンビリとした気さくな性格の少年で、割と誰とも仲良くなれるタイプだった。
そんな田中君と僕は同じ丁目に住んでいる事もあり、放課後には一緒に寄り道して遊ぶ仲だったんだ。
「田中君、今日は角のオモチャ屋へ行こうよ。模型飛行機を組み立てて大浜公園で飛ばして、その飛距離を競うんだ。」
「うーん、それも悪くないけど…見て、岡本君!向こうの公園で大勢集まっているよ。あれを見てからでも、遅くはないんじゃないかな。それに何だか、甘くて美味しそうな匂いもするしね。」
そう言うと田中君は、僕を置いて公園の方へと駆け出してしまったんだ。
あのズングリムックリな体型からは意外な程に軽快な足取りだったけど、食いしん坊な田中君が持ち前の旺盛な食欲を刺激されちゃったんだから、それも無理はないのかも知れないね。
黒革のランドセルが蝉みたいに張り付いている田中君の背中を追って辿り着いた、通学路途中の小ぢんまりとした児童公園。
そこでは白髪混じりの御爺さんを中心にして、ちょっとした人だかりが出来ていたんだ。
「さあさあ、みんな寄っておいで!紙芝居が始まるよ!」
親しみやすい剽軽な口調の売り文句に合わせて、拍子木がリズミカルな音色を奏でている。
今となってはすっかり珍しくなってしまった昔ながらの紙芝居屋さんに、みんな釘付けになっていたんだ。
「紙芝居が見たいなら、お菓子を買わないといけないよ。この水飴なら、一食たったの五十円!」
そこで言葉を切ると、御爺さんは自転車の荷台に積んだ箱を開き、中から取り出した水飴を高々とかざしたんだ。
秋の日の穏やかな陽光に照らされて輝く半透明の水飴は、不思議な程に美味しそうに感じられた。
あの水飴の甘い香りに誘われて、田中君は児童公園まで脇目も振らずに来ちゃったんだね。
「一食買うよ、おじさん!」
「私にも売って!」
クラシックな紙芝居屋さんへの物珍しさからか、或いは水飴に食欲を刺激されてしまったのか。
児童公園に集まった子供達は、争うように水飴を買い求めたんだ。
その中には当然、僕や田中君も混ざっていた。
食いしん坊な田中君は水飴自体に惹かれていたみたいだけど、僕の場合は半ば社交辞令で買っているような感じだったね。
だって友達の田中君が水飴を買っているのに、僕だけが買わなかったら何か変じゃない。
水飴の塗られた割り箸が子供達に行き渡ったのを確認すると、御爺さんは満足そうな笑顔を浮かべて辺りを見渡したんだ。
「紙芝居を見ながら、その水飴をよく練るんだよ。練った分だけ美味しくなるし、食べた後に面白い事が起きるかも知れないからね。」
水飴を練り混ぜると空気を含んで滑らかな舌触りになるし、適度に固くなって食べやすくなる。
だから「美味しくなる」というのには根拠があるんだよね。
だけど「面白い事」というのが具体的に何を意味するのか、この時の僕にはよく分からなかったんだ。
そうして首を傾げながら水飴を割り箸でかき混ぜたんだけど、この何気ない行動があんな事に繋がるなんて、その時は思いもよらなかったんだよ。
御世辞とか社交辞令とかを抜きにして、御爺さんの紙芝居は面白かった。
地獄に落ちた人間がどうなるかという薄気味悪い怪談話だったけど、丁寧な筆捌きで描かれた絵には凄みがあったし、長年のキャリアで磨かれたと思わしき御爺さんの語りは迫真の名演技だった。
僕達の目と耳は紙芝居に釘付けだったし、両手はさながら別の生き物みたいにひたすら水飴をかき混ぜていたんだ。
やがて我に返った時には、水飴は練り上げられて真っ白になっていたけど、その水飴が本当に甘くて美味しかったんだよ。
「御爺さん!その水飴、お代わりを売ってくれない?」
「あっ、僕も!」
こんな感じで、水飴のお代わりを買い求める子供が行列を作る程だったんだ。
「一食ずつなんて面倒だよ!いっその事、瓶ごと売ってくれないかな?」
中でも凄かったのは田中君で、手のひらサイズの瓶単位で水飴を買っちゃったんだよ。
「ねえ、田中君…幾ら水飴が気に入ったからって、買い過ぎだよ…」
「岡本君も口うるさいなぁ。君には迷惑をかけていないんだし、僕が何をしたって別に良いじゃない。」
公園からの帰り道で一応は声をかけてみたけれども、田中君は聞く耳を持たなかった。
その病的なまでの執着心に怖くなってしまった僕は、黙って見送る事しか出来なかった。
だけど本当に恐ろしいのは、これからだったんだ…
その日の夜。
喉が渇いて目を覚ました僕は、奇妙な違和感に襲われたんだ。
「えっ…!?」
見慣れた子供部屋なのに、何かがおかしい。
学習机の天板って、こんなに低かったっけ?
それに天井との距離が近くなっているような…
「違う!僕の身体が空中に浮いているんだ!」
寝ている間に我が身に生じた変化に驚きながらも、僕は何とか地に足をつけようとして床を見下ろした。
そして次の瞬間、さっきとは比べ物にならない衝撃が僕を襲ったんだ。
「ぼ…僕がもう一人いる!?」
床に敷いた布団に仰向けで横たわる、青い縦縞柄のパジャマを着た少年。
それは紛れもなく、僕自身だった。
「いや、違う…もしかしたら僕は、幽体離脱してしまったんじゃ…」
抜け出した魂が、自分の身体を見つめている。
今の自分の状態は正しく、学習雑誌のオカルト特集で聞き齧った幽体離脱の現象その物だった。
「ずっとこのままだったらどうしよう?早く身体に戻らないと…」
パニックになりそうになる自分の心を必死に落ち着かせながら、僕は平泳ぎの要領で少しずつ降下していった。
そうしてどうにか自分の身体に辿り着くと、再び魂が抜け出さない事を祈りながら朝になるのを待ったんだ。
翌日の朝、僕は自分の身体がキチンと床の布団に横たわっているのを確認して、ホッと胸を撫で下ろしたんだ。
「幽体離脱なんて、変な夢を見ちゃったなあ…田中君が聞いたら、どう思うだろう?」
苦笑しながらランドセルを背負った僕は、普段と同じ時間に家を出て通学路を進んだんだ。
だけど僕は、田中君と一緒に通学する事は出来なかった。
いつもの時間になっても田中君は玄関から出てこないし、そもそも田中君の家自体がヒッソリと静まり返っていた。
「田中さんの御家族なら、昨日の夜に病院へ行ったよ。何でも、お子さんが急病だとかで…」
「えっ、田中君が急病…」
盆栽に水を与えていたお向かいさんに事情を聞かされた僕は、妙な胸騒ぎを覚えながら小学校を目指したのだった。
そうして一人淋しく登校した小学校では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
どうやら昨日の放課後に紙芝居の水飴を食べた子の全員が、僕と同じように幽体離脱の夢を見ていたらしい。
こんなに大勢の人間が同じ夢を見るだなんて、偶然では片付けられないよ。
しかも水飴を沢山食べた子は、その分だけ幽体離脱している時間も長かったんだって。
「えっ…それじゃ、田中君は?一瓶買って、帰り道でも食べていたけど…」
クラスメイトの話に、僕は狼狽えるばかりだった。
そしてトドメとなったのが、教室に入ってきた担任の先生の一言だったんだ。
「今日は朝礼の前に、みんなに悲しいお知らせをしなければなりません。うちのクラスの田中元清君が急病で倒れてしまい、入院してしまいました。意識不明で予断を許さないため、今は面会謝絶だそうです。」
たちまち教室中にざわめきが広がり、クラスメイト達は互いに顔を見合わせていた。
田中君の入院の原因が何であるか、心当たりがあったからね。
僕達が担任の先生に申し出た事で、事態は大きく動き出した。
田中君の家に残されていた水飴の瓶を警察の科捜研が調べた結果、あの水飴には危険な生薬が添加されていたんだって。
話によると、その生薬は江戸時代に徳川幕府によって禁止されていた邪教が儀式に用いていた物で、幽体離脱による宗教的法悦を体感させるために信者に服用させていたらしい。
そして過度に服用すると意識障害を起こし、最悪の場合には死に至るんだって。
もしかしたら例の紙芝居屋さんは、その邪教集団の流れを汲んだ残党なのかも知れない。
滅んでしまった教団を復活させるために、生薬を混ぜた水飴をばら撒いているのかもね。
そして怪しい生薬の含まれた水飴を大量に食べてしまった田中君は、その後も意識が戻らなかったんだ。
お医者さん達は江戸時代の文献を取り寄せて生薬の解毒法を調べているんだれど、あんまり捗っていないらしい。
邪教や心霊現象の対策について研究している巫女さん達が京都の嵐山に沢山いるらしいから、その巫女さん達の助力を得ようという話も出ているみたいだね。
上手くいってくれたら良いんだけど。
やがて先生達から、怪しい紙芝居屋や露天商には注意するようにとの御達しが来たけれども、あの児童公園に例の紙芝居屋さんが現れる事は二度となかった。
きっと警察の手が回るのを恐れて、さっさと雲隠れしたんだろうね。
今頃は顔を変えて、他の町へ行ったのかも。
君達も放課後の公園や空き地で見慣れない紙芝居屋さんを見掛けたら、気を付けた方が良いのかも知れないよ。
僕の友達みたいになりたくないのならね…